本の紹介 博士の愛した数式

  目 次

1. 本との出会い      
2. 解説
3. 著者紹介
4. 読後感
5. 私の苦笑い
6. 読後感-2

小川洋子著
新潮文庫

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1. 本との出会い
 この本の評判は、本が出たときから聞いていました。また本屋大賞をとったということも知っていました。賞を取ったような本は、少し間を置くのが私のやり方で、新聞に海外での評判が良いという記事が載っていたのを機に、そろそろ読んでみようと図書館で借りて読みました。本屋に雑誌を買いに行ったところ、文庫になった、この本が平積みになっており、たまたま新潮新書の「国家の品格」を読んだばかりで、新書の著者の藤原正彦氏が数学者であり、作家新田次郎と藤原ていの次男だと知ったばかりでした。その著者が解説を書いていることを知り、文庫版を直ぐに買い求めました。

2. 解  説
解 説  藤原 正彦
「作家の小川洋子さんが先生を研究室に伺いたいとおっしゃっています。数学者を主人公とした小説を書くための取材だそうです」との電話を新潮社のFさんからもらった。小川洋子さんについては、芥川賞をとった純文学作家くらいの知識しかなかった。
 純文学は売れないものと決まっているが、数学者が主人公ではなおさら売れまい。そんな小説を書く者が世界のどこにもいないのが証拠だ。純文学作家というのは売れそうもないネタを見つけるのがうまい人種なのだろう。
 それに数学者といえば、なぜか「純粋」とか「奇人」が通り相場だ。もし「純粋」を主題にしたいのなら、私よりもっと立派な数学者に会った方がよい。「奇人」を主題にしたいのなら、余りにも健全な常識と円満な人柄をもった私はまったく参考になりそうもない。などと考え気が進まなかった。
「数学者なら他にいくらでもいるのにどうして私に」と逡巡(しゅんじゅん)しながら言うと「先生の出演されたNHK人間講座を御覧になり、また『天才の栄光と挫折(ざせつ)』もお読みになってインスピレーションが湧(わ)いたそうです」と答える。この本は人間講座のテキストに手を入れ新潮選書としてFさんに出してもらったものだから、彼女経由で私に連絡がきたようだった。
 番組を見ていたのなら、週一で八週間も出ていたのだから、私が純粋でも奇人でも大数学者でもないことくらい分っているはずである。やれやれと思いながらFさんに、「画面に映る私がよほどセクシーだったのかなあ」と言ったら、Fさんはクスッと笑ってから「小川さんって可愛いくて素敵な人ですよ」と付け加えた。長年のつき合いでFさんは私を知り抜いている。私は直ちに「お会いしましょう」と答えた。
 それからまもなく、平成13年の初秋に、小川さんは雑然とした私の研究室に現れた。小説家だった父から生前、「女流作家は大変だぞ」と謎のような言葉を何度となく聞かされていたから、身構えていたのだが、目の前に現れたのは、化粧気のない、清楚(せいそ)な大学院生のような人だった。職業柄、大学院女子学生なら慣れている。ホッとした。
 生真面目な人であろう、携えたノートに質問事項がびっちり書いてあり、次々に質問を投げかけてきた。新聞記者や雑誌記者などと違い、録音はしていなかった。純文学作家だから取材などすることがさほどないのかも知れないと思った。大学院生のような熱心さの合間に、時折、数学界の巨星ガウスに似た鋭い視線を私に送ったり、かと思うと夢見る乙女のような眼差しで微笑(ほほえ)んだりした。
 何を尋ねられどう答えたかはまったく覚えていない。数学者としてごく当り前のことしか言わなかったからであろう。ていねいに挨拶(あいさつ)して帰られた後、せっかく関西から上京されたのに、私のつまらぬ話を聞かされただけで、小説には何の役にも立たないだろう、と少々申し訳なく思った。

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 だから一週間ほど後に、「お会いして帰ってから、書く意欲がモリモリ湧いてきました」という趣旨の手紙を受け取った時は、恐らく律義さによるものだろう、と思った。ただ、整って虚飾のない字体を眺めているうちに、同じ特徴をもつ風貌(ふうぼう)とあいまって、本当にモリモリなのかも知れないぞ、と思ったりもした。
 翌春だったか、「先生からいただいたインスピレーションを力に、元気に書き続けています」というたのもしい中間報告があった。当り前の話しか言えなかったような気がするのに、小説家の想像力と創造力で物語を紡いでいるのだろう。取材の時、小説の内容については何も洩(も)らさなかったけれど、一体どんな展開になるのだろう。いずれにせよ、実際にぐんぐん書いているのだから私へのお世辞ではなかろう。本当に役に立ったのかも知れない。こう考えるとうれしかった。
 取材のほぼ一年半後、作品の掲載された雑誌「新潮」が送られてきた。新潮社の本流とも言うべき雑誌だが、純文学が主ということで私が手にすることはめったにない。今回ばかりはすぐに読み始めた。
 老数学者、家政婦の「私」とその10歳の息子の三点が、数学と阪神タイガースという二色の紐(ひも)で結ばれ三角形をなしている。独創的な構図である。しかも老数学者の記憶は正確に80分しか持続せず、備忘録がわりのメモ用紙が身体中に貼(は)られている。数学者も顔負けの想像力である。読み始めると同時に、こんなに途方もない設定で始めて、途中で破綻(はたん)しないのかと心配になってきた。
 ところが細部に入りこむと、大胆不敵とはうってかわり、繊細な仕掛けが張りめぐらされている。例えば息子ルートの怪我(けが)を見てショック状態の老博士を元気づける場面である。
「『心配いりません。ルートは生きてますよ。ほら、この通り。ちゃんと息をしています』
 そう声を掛けながら私は背中を撫(な)でた。思いがけず、広い背中だった」
 最後の一文が光る。
 またこんな場面もある。
「『1-1=0 美しいと思わないかい?』
 博士はこちらを振り向いた。一段と大きな雷鳴が轟(とどろ)き、地響きがした。母屋の明かりが点滅し、一瞬何も見えなくなった。私は彼の背広の袖口(そでぐち)を握りしめた」。
 たったこの二文だけで、博士の身の回りの世話をしながら、その人間性を知り、数学の美しさに触れるうちに、いつの間にか「私」の心に芽生えた、恋愛とも友情とも違う、家族愛とも敬愛とも少し違う、博士へのほのかな慕情が暗示される。
 そしてこの慕情の一方通行でないことが、博士の変化に気付いた、博士とかって特別な関係にあったと暗示される義姉の、冷たい視線によって暗に裏付けられる。こうして、物語の核ともなるべき要素が、決して明示されないまま、じわじわと読者にしみ入って行く。大胆不敵な、数学的とも言える構図に、上品で奥床しい文学的暗示がからみついていく。見事なからみ合いである。

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 これに生の数学が加わって物語を重層化する。「私」の誕生日からくる220と博士の腕時計の裏に刻まれた番号284が友愛数なのである。すなわち、220の自分以外の約数を全部足すと284になり、逆に284の自分以外の約数を全部足すと220になる。このようなペア、友愛数はきわめて稀(まれ)であることから、博士と「私」の間の特別な関係が示唆(しさ)される。
 博士は息子ルートに初めて会った時、ルートの頭を撫でながらこう言う。「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号だ」
こうしてルートの庇護者(ひごしゃ)としての博士が示唆される。
 家政婦である「私」の容貌は三十前の子持ちというだけで描写されていないが、「君の利口な瞳(ひとみ)を見開きなさい」という博士の言葉や、素数だと思った341が11で割り切れてしまうことを見つけた瞬間の「まあ、何ということ」というつぶやきなどに愛らしさが暗示されている。
 くっきりした輪郭に、ぼんやりした暗示が縦横に張りめぐらされていて、墨絵のような静認(せいひつ)をかもし出している。ところがそこで物語は終らない。ドンチャカチャンの阪神タイガースが加わる。このおかげで三角形はいよいよ強固なものとなる。三人が野球カードに熱中したり、タイガースの試合見物に行く所などは、深刻になりかねないこの物語に、またとないユーモアを与えている。タイガースへの熱狂というユーモアが、墨絵に色彩を加え油絵に変えている。
 しかもここで、中心人物である不世出(ふせいしゅつ)の江夏投手が、何と数学に結びつくというウルトラウルトラCがでる。江夏の背番号28が完全数なのである。すなわち28の自分以外の約数を全部足すと28になるのである。こんな数はめったにない。この奇跡により、三人と数学、阪神タイガースという主役達が一気に結びつくのである。
 私は読み始めてここに至った時、「やった、これでばっちりだ」と叫び、「小川さん、この発見をした時はうれしくて小踊りしただろうな」と思った。江夏の背番号が完全数などという事実に気付いた人は、古今東西、小川さん一人であろう。後日直接に、発見の瞬間の気持を確かめたら、「この作品を完成させる最後の鍵だったような気がします」と控え目に語られた。
 不思議な三人と数学とタイガースという主役に加え、家政婦紹介組合が脇役として実に効果的に登場する。小川さん自身が家政婦をしていたことがあるかのように、細かく描写される。家政婦や家政婦紹介組合という、このうえなく世俗的なものの登場で、油絵が現実に変貌する。マジックである。家政婦の細かい描写は、小川さんがその効果を計算した結果というより、小説家としての本能によるものだろう。才能である。
 この作品には、小川さんの数学への憧憬(どうけい)、数学美への心酔がちりばめられている。この物語では、数学への愛と博士への慕情がないまぜとなりふくらんで行く。男性としての魅力に決定的に欠ける博士への慕情は、「私」の数学美への強烈な心酔があってはじめて成立すると言える。

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 この心酔によるものであろう、私達数学者にとってごく当然と思われている事柄に、小川さんならではの文学的照明を投げかける所など、教えられることが度々だった。
 小川さんはこの作品で、数学と文学を結婚させた。記憶をなくし、身の回りのことも自らできない、哀れとも形容できる老博士が、実はとても幸せだった、と読後にしみじみと思えてくるのは、この結婚が幸せなものだったということでもある。
 小川さんのこの作品は、純文学、エンターティンメントなどというつまらぬジャンル分けを豪快に粉砕している。文学には、よい文学とそうでない文学しかない、ということを無言のうちに証明している。この点でもこの作品の意義は大きい。
 それにしても、「元気に書き続けています」などという何気ない手紙をもらった頃、こんな大胆不敵な野心作にとりかかっていたのかと思う。くりくりっとした瞳で品よく微笑む小川さんの姿を思い起こすと、女性は恐い、とやはり思ってしまう。            (平成17年9月、数学者)

3. 著者紹介
小川洋子 Ogawa Yoko
 1962(昭和37)年、岡山県生れ。早稲田大学第一文学部卒。 '88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞。'91(平成3)年「妊娠カレンダー」で芥川賞受賞。主な著書に『冷めない紅茶』『やさしい訴え』『ホテル・アイリス』『沈黙博物館』『アンネ・フランクの記憶』『貴婦人Aの蘇生』『偶然の祝福』『薬指の標本』等。 2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞を受賞。翻訳された作品も多く、海外での評価も高い。

4. 読後感
 この小説には二つの大事なキーワードがあると思います。記憶喪失と数学です。女性である著者が、よく勉強して難しい話題を採り入れたものだと思います。解説にもある、藤原 正彦しへのインタビューが適切で「書く意欲がモリモリ湧いてきた」のでしょう。記憶喪失がこの本を変わった物語にしているのだと思います。奇抜なアイディアであり、ユーモアと彩りを添(そ)えているのだと思います。

5. 私の苦笑い
作家 小川洋子氏 「博士の愛した数式」一年間執筆できず 無理な人物設定で回り道

 物語は作家が作り出すものではなくて、世界のどこかにあらかじめ存在しているのだと思う。例えばそれは、はるか遠い場所にある、太古の時代からの洞窟(どうくつ)の壁画のようなものかもしれない。そして誰かが見つけてくれるのを静かに待っている。
 物語を見つけたときはいつも、頭の中で映像が流れ始める。そこには色もにおいもあるし、光や闇はくっきりと浮かび、ときには風も吹いている。それを丹念に小石を積み上げるように書き写していくのが、私にとっての小説だ。頭の中に映像はありありと浮かんでいるのに、言葉にするとどうしてこんなにつまらないのかと、悩んでしまうことが多いのだけれど。
 でも本当に大変なのは、洞窟にたどり着くまでの時間だ。その場所への道順はいつも異なっていて、道に迷ってしまうことが多い。だから、ときには自分で無理に物語を作り出そうとして、回り道してしまうことがある。記憶が80分しかもたない数学者を描いた『博士の愛した数式』も、最初はそうだった。

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 執筆のきっかけは、偶然手にした一冊の本だった。数学者・藤原正彦さんの『天才の栄光と挫折−数学者列伝』。無機質だと思っていた数式が、数学者にとっては詩的で美しいことを教えられ、引き込まれた。それを物語に置き換えて表現できたらいいな、と思った。でも、そこからが難しかった。洞窟がなかなか見つからなかったのだ。
最初にイメージした主人公の数学者は、ある種悪魔的な人物だった。数式に魅入られ、人間に愛情を持てない。社会から脱落してしまってただ数式とだけ向かい合う、狂気を帯びた博士。数学者というのは変わり者が多いという先入観が、背景にあったと思う。
 こういう異常な人間は、本来は書きやすいはずだった。肉体や精神の欠落した部分を描写していけば、そのまま人物の特徴付けができるからだ。そうやって執筆が進むこともあるが、このときは駄目だった。書かれるべき物語はすでにどこかに存在していたのに、自分で無理に作り出そうとしてしまったからだろう。
 いつまでたっても頭の中で映像は流れず、最初の一行すら書き始められない。そんな状態のまま、一年が過ぎてしまった。
 主人公に対する考えが変わってきたのは、何人もの数学者の方に取材させていただいてからだ。いかに数式が美しいか、ひたむきに説明してくれる数学者と接しているうち、そう感じられる数学者自身も、同様に美しいのだとわかってきた。数という広大な世界を描こうとするとき、人間のちっぽけな醜さになんか、こだわらなくてもいいのではないかとも思い始めた。
 そう考えたとき、純粋で優しい博士が、不意に目の前に立ち現れた。そして頭の中に映像が流れ始めた。
 西日に照らされた書斎。窓から見える庭の美しい木々と、雨でぬれた土の甘い香り。台所の流し台に置かれた皿からは、水滴がしたたり落ちている。そして博士のちびた鉛筆が紙の上を滑る、さらさらとした音まで。物語を、ようやく見つけ出せたのだ。 (談)

 おがわ・ようこ 岡山県生まれ、早稲田大学卒。『妊娠カレンダー』で芥川賞受賞。『博士の愛した数式』は読売文学賞と第一回本屋大賞を受賞し、映画が公開中。

努力して 初めてつかめる成功
失敗訓 「潮が満ちてくるような感じ」。物語が訪れた瞬間のことを、小川さんはそう表現する。「無理に何とかしようと思ううちは駄目」なのだそうだ。機が熟さないのにやみくもに進めてもうまくいかないのは、小説以外の様々な仕事でも同じなのかもしれない。
 しかし、「潮が満ちる」幸福な瞬間は、漫然と待っているだけでは訪れないものらしい。小川さんも、数学者への取材など努力の先に、物語が眠る「洞窟」にたどり着けている。      (田村正之)
(出典 日本経済新聞 2006.3.27)

6. 読後感-2
 日経新聞に載った「私の苦笑い」を読んで、気が付いたことが幾つかあります。まず作家というのは、実に創造的な仕事だということです。藤原正彦さんの『天才の栄光と挫折−数学者列伝』を読んで、ヒントを得、藤原正彦さんなどにインタビューして数学者像を作って行く過程です。また、この小説にちりばめられたアイディアが素晴らしいことを改めて感じました。なお小説が書かれれてゆく過程は、村上春樹さんとも共通する部分があるように思います。良い小説に出会えて幸せでした。

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[Last updated 3/31/2006]