荷風のリヨン
『ふらんす物語』を歩く

  目 次

1. まえおき
2. はじめに
3. (本の)目次
4. おわりにかえて
5. あとがき
6. あとがきのあと
7. 著者紹介
8. 読後感
9. 荷風の下宿



加太宏邦著
株式会社 白水社

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1.まえおき
 永井荷風の「フランス物語」は大分前に買ったのですが、ツンドクのままでした。何度か読み始めるのですが、なかなか読み続けられませんでした。たまたま書評で本書を見つけ、読んでみたところ、面白かったので採り上げました。

2. はじめに
 1907(明治40)年といえばかれこれ一世紀近く昔のことである。ひとりの日本人青年を乗せたパリ発の夜行列車が、フランス東南部の町リヨンに着いた。青年は永井荷風。
 荷風は、滞在中から、その体験を短編作品に仕立てることに取りかかり、帰国後、次々に『早稲田文学』などの文芸雑誌に発表していく。翌年の明治42年、それらがまとめられたのが彼の代表作のひとつとなる『ふらんす物語』である。しかし、この博文館版は出版されることなく「風俗ヲ壊乱スル」という理由で、直ちに発禁処分となったので、世に広く知られるようになるのは大正4年以降のことになる。
 27歳の青年、永井荷風のフランス滞在は、都合十か月だった。リヨンには1907年7月30日から1908年3月28日までの八か月いたが、パリには二か月(1908年3月28日から5月28日)しかいなかった。滞在期間という点からいえば、荷風のフランス体験は基本的にリヨンにこそあった。しかも生活感という点でも、一旅行者でしかなかったパリとは根本的に異なっていたのである。
 にもかかわらず、私たちに、フランスすなわちパリという強い思いがあるためなのか、ともすると、『ふらんす物語』というとパリを描いた物語のように思われている節がある。たとえば、『ふらんす物語』の、ある文庫版の巻末の解説をみると、リヨンという地名には一度も言及されず、終始「パリ云々」という説明になっている。
『ふらんす物語』は短編集であるが、この中には、あきらかにリヨンを素材または舞台にした〈物語〉が少なくとも七編あり、パリを素材とした三編より多い。さらに作品によっては、パリを舞台にしていながらリヨン生活を混在させているとおもわれるものもある。「雲」(別題「放蕩」)などがそうである。また、「橡の落葉」の中の散文詩風な小品文集にはパリの風物をマロニエの木に仮託した作品集という意味の前書きが書かれてはいるが、実際にはリヨン種とおもわれるものが三編は含まれている。「休茶屋」、「ひるすぎ」〔別題「午すぎ」〕、「舞姫」などである。
 舞台などは作品解釈の本質ではないという見方もありえるだろう。また、荷風自身も、帰国後、あたかもパリにのみ滞在したような印象をあたえる書き方をいたるところでかなり意図的にしている。
 しかし、いずれにしてもパリすなわちフランスというある種の先入観や荷風の語り口にくらまされて、荷風のリヨン時代は、いままで、ほとんど明らかにされたことがない。たとえば、荷風の住まいである。荷風の記述のままに「ワンドーム街に住んだ」となぞるだけで、正確な住所や、その下宿の生活や、その周辺の環境などが実態として確認されたことはない。あるいは、『ふらんす物語』のなかでの、リヨンに関する荷風の記述はどの程度(本当のこと)なのかという確認なども含めて、本格的な校訂版でも、私の知るかぎり行なわれたことはない。
 ただ、本書で、私が意図したのは、かならずしもそういう考証や文学散歩ではない。実態の身体的、資料的確認にもとづく、『ふらんす物語』のあらたな読みの試みである。
 元来が創作作品であるからには、素材やモデルは二次的な問題だとはいえる。しかし、こと、荷風に関しては、後の『墨(サンズイあり)東綺譚』などであきらかなように、彼の体験、ことに繰り返される散策による風景観察(写真を撮ったり、スケッチをしたり、地図を描く)はこれを元にして創られる作品の内面理解と不可分の関係にあるのである。
 実態確認の無風流な作業を通して、今まで机上で文芸批評的にのみ見られていた『ふらんす物語』が、かなり異なる相貌をみせてくれることになるだろう。

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 彼が銀行員として通った通勤の道筋や散策範囲を実際に歩いてみる。いく度も歩いて、さまざまな角度からその界隈の構築物を確認し、暑さや寒さ、天候の移ろいを肌で感じる。川の流れを岸辺から、あるいは橋の上から眺めてみる。夜の裏町を徘徊してみる。距離感や方向の意識、また、風景感覚を自らの中に再現してみる。『ふらんす物語』に繰り広げられる感懐の意味やしかけに迫りたい。荷風が描き出しているのはどのような世界の表象であったのだろうか。
 たとえば、『西遊日誌抄』に、こういう叙述がある。ラファイエット橋を渡るときに「欄干に凭(もた)れて涙を流しぬ」というのである。なぜこのような、今日風に言うなら「アヤシイ」行動が通行人の奇異な目を誘わなかったのだろうか。じつは、当時のそのままに残っているこの橋を実際に渡ってみると、おおよそこの行為が納得できるのである。また、荷風がそういう行為を記録に残すということ自体に何かの意味、あるいは意図がなかったのだろうかということもほのかに見えてくるのである。
 私がしなくてはならないのは、荷風と可能な限り同じまなざしで、リヨンを歩いてみることだった。これがパリなら、いまさら、という気にもなるし、じつさい、『ふらんす物語』のパリの部分や『あめりか物語』のニューヨークの研究はすでに詳しい探索がないわけではない。
 けれど、リヨンという都市は、パリなどとちがい、多くの日本人に、必ずしもイメージ的にも実態的にも理解されている町ではない。パリやニューヨークにあふれかえる日本人ツーリストも、リヨンにまでは足を伸ばすことはまだ少ない。今までの『ふらんす物語』のリヨンにかかわる部分は、少なくとも、そういう意味でも、多くの日本人にとっては、遠い風景としてのみ眺められていた作品だった。いまこそ、荷風のリヨンを追体験してみたい。荷風が創造したあの時代と世界を知るというとてつもない愉悦のために。
 荷風はリヨンをほんとうによく歩いた。その遊歩の足跡はいたるところで再確認が可能である。今のリヨンと荷風の見たリヨンは、同じところもあるし、変わってしまったところもある。しかし、幸いなことに荷風の遊歩のあとはどこもそれを彷彿とさせる痕跡を残している。なぜそうなのか。私ははじめは、フランスの町並みや慣習の保存性のよさのせいなのだと思っていた。たしかに日本などに比べるとその点では感謝をしなくてほならない。しかしやがて、それはどうやら荷風の魔術なのだと気づくようになる。荷風の叙述にひとたび接すると、そこに現前する景観はたちまち百年昔に引き戻されるのである。そこに見ている風景は、今のリヨンなのか、荷風の見たリヨンなのか判然としなくなる。
 荷風の、リヨンに関する叙述は、文庫文にして、わずか百ページにも満たない。しかし、その中に詰まっているリヨンは驚くほど濃密で魔術的である。
 本文で、ふれることになるだろうが、『ふらんす物語』は、一般には、感傷的でフランス文化かぶれの芸術至上主義的なフランス印象記のように評価され、またその視点から読まれがちだが、じつはたいへん正確で、しかも具体的な描写力と情報で成り立った叙述の積み重ねによる「物語」なのである。そのおどろくほどの喚起力でもって百年昔のリヨンを再現する魅惑に満ちた作品だということをいまさらのように発見することになるだろう。

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3. 本の目次

はじめに……………………9

プロローグ−フランスまで…………………13
  アメリカ 13/日本 16/フランスヘ 19

第一部 探索する……………………21
一 リヨン到着 22
  駅 22/宿 28

二 リヨンで働く 35
  横浜正金銀行 35/リヨン支店 37/ラルブル・セック通り 38/仕事ぶり 42/
  晩餐と人々 46/領事の娘 54

三 下宿 58
  西と東 58/ヴァンドーム通り界隈 60/下宿のありか 63/手がかり 64/も
  うひとつの手がかり 66/「筋向う」 67/ヴァンドーム通り116番地 72/
  世帯調査 75/県立文書館 79/洗いなおし 82/ヴァンドーム通り偶数番地
  83/賄付貸室 84/ヴァンドーム通り奇数番地 88/下宿 88/ヴァンドーム通
  り111番地 91/通勤のルート 94/ランポー・コレ夫人 95

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第二部 散策する……………………………103
  リヨンという町 104

一 二つの村 107
 ・髯の小島 112
 ・クーゾン村 127

二 二本の川 136
 ・ローヌ川 138
  疲れ 138/橋 142/幾条もの橋 147/川の風物 149
 ・ソーヌ川 157

三 二つの丘 165
 ・フルヴィエール 166
  大伽藍 166/祭りの夜と夜の祭り 168
 ・クロワ・ルス 174
  遠くに 174/丘の街 176/ヴォーグ 181

第三部 街を歩く− いささか事典風に…………………………185
一 街の表 186
 ・レピュブリック通り界隈 186
  株式取引所 187/美術館 189/オペラ劇場 191/ローザ・トリアニ 192/[セレ
  スタン]劇場 200/市役所 201/ペルクール広場 202/メゾン・ドレ 205/ロンド
  ン・ハウス 205/十九世紀亭 210
 ・[テート・ドール]公園 213
 ・街の小道具・大道具 214
  公園 214/四辻 215/カフェ 216/広告 218/馬車 219

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二 街の裏 221
 ・労働者の街、町工場の街 221
  芝居小屋 223
 ・古い街 225
  小路、路地、裏道、陋巷、霧、暗闇 225/娼婦 漏229/人形芝居 231/サン・ポ
  ール 234/裁判所 235/サン・ジャン教会 236
  陋巷の大道具と小道具 237
  霧 238/小道具 244/ベルエポック 246

おわりにかえて 249

参考文献 253

あとがき 260

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4 おわりにかえて
 荷風の『ふらんす物語』での、風景や景観の叙述は実際のリヨンと照らし合わせ見るとき、百年経過していてすら、たいへん新鮮で生々しいまでに本物性を帯びている。『ふらんす物語』はたんなる滞在印象記や感傷的紀行文とは根本的に違うということを知る。その的確で芳醇なリヨン描写は「何」にどう使用されているか、ということを考えると、いまさらながらに、そのメッセージ性のしたたかさにも気ずかされる。荷風は『墨(サンズイあり)東綺譚』で自らが述べているように「わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が展開する場所の選択と、その描写である」(太文字引用者)という。
 それは精密に観察された場所である。ところが、荷風の魅力は、その実景(現実世界)が本物だと思ううちに、たくみに現実をずらされ、おおきく飛躍した文学の(本物世界)へ連れて行かれる、そういう技法の巧みさからくるものではないだろうか。
 そしてこれが荷風の帰国後の文学営為の真髄だとは言わないまでも、底流につねに存在する。ありていに言えば、世界などはつねに荷風にとっては恣意的なネタでしかない。ネタの魔術的な処理は天才的な文学者にのみ自在であり、かつ、その世界は現実よりさらに真実なのだ。
 どんな風景や風俗の描写も筆者のまなざしで構成されるということはすべての文学表現に当然とは言え、荷風にあっては、かなり底意地悪く意識的であって、この点で、ながらく荷風の評者は、この「意識」のありように眩まされてきたのではないだろうか。遠くへ残した女への思慕に恋々として川岸で悲哀に沈む荷風、銀行がつらくて教会で祈る荷風、橋の欄干で泣く荷風、父親との葛藤に懊悩する青年、そういう胡散臭い芝居にすら評論家は長らく瞞着されて、彼のありもしない「煩悶」を無邪気に文学論化していく。
 荷風のまなざしを形成する意識とはどのようなものか。
 ここに描かれた銀行員や外交官の俗物性、燈火きらめくカフェの賑わい、公園を散歩する良家の子女、オペラ、低俗な芝居小屋の喧噪、労働者街、暗く不潔な裏町の暗闇などはまさに時代そのものであり、それはベル・エポックヘの礼賛ではなく、その風俗の精緻な描写を通しての、この時代への痛烈な皮肉でもあるのだ。
 ただし、荷風は、生の政治や社会での事件などに眼もくれず、ただ時代風物そのものを、みそもくそも同列に扱うことで(結果として)批判をするのである。文化勲章を嬉々として受賞し、その一方で、浅草のストリップ小屋に入り浸る。つまり、文化や権威もいかがわしい遊郭やストリッパーと混在させるという手をつかって一切を批判し去ってしまうのである。おそらく、彼の下町、陋巷、娼婦、貧困へのノスタルジーが積極的な意味を担わされているのはこの理由からであろう。
 ドレフュス事件の再審、特赦は1906年のことであり、また、荷風がリヨンにいたとき、最大の政治的話題は、モロッコをめぐるドイツとの覇権の確執であった。こういう事件を国際問題として意識したり、描いたり、日露戦争の政治時評を行なうことが文学の社会性であり、その点で荷風にはそれが欠けている、などという後世の批判はあたらない。荷風は問題を知らなかったわけではない。ただ「煙たくて恐しい」(「雲」)と忌避するのである。問題が「煙たい」のではない。そういうことを云々する行為が煙ったいのである。

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 荷風が「悲愁」を実景の中に見ようとするのは、このベル・エポックという時代への批判である。社会正義的な批判でなく、時代をどこかで胡散臭くみょうとする拗ね者のまなざしである。この意味では荷風を惰弱だとは言えない。あえてわがままであり、あえてだだっこであり、あえて非経済社会的であろうとするのは、一種の幼児性かもしれないが、西欧文明の力はとてつもなく巨大で、それなりのしたたかな戦法が必要だったのだ。しかもその〈暴力〉は確実に江戸を壊し、明治時代を蚕食し、さらには得体の知れない時代へ驀進しっつあった。いや、どの時代も常に、人々はなにか得体の知れない未来におびえている。おびえの感度の差はあるとしても、荷風は一級の感度を備えた人だったことは確かだ。あえて言うなら、それは感情化する技法によって創出される〈思想〉なのだ。
 荷風は、どこまで意識的であったのかわからないが、あらゆるジャンルの文化が華やかに繁栄し、人々が生活を楽しみ、社会も科学も楽天的に進歩すると信じられたよき時代にすでに流れと逆向きに立って欧米を体験した。
 なんども言うが、彼は、文学に憑かれ、既成のフランス観念(とくに小説の舞台)に合わせてしかフランスを見ていない、などという批評ほど的外れなことはない。こういう評者こそがフランス文化の幻影に憑かれているのである。ありもしない〈現実のフランス〉がどこかにあって、荷風はそういう〈本当の〉フランスを見ていない、表現していない、などという言説こそが虚妄である。これもくりかえすが、政治を論じ、社会問題をテーマにすればフランスを見たことになるなどという主張ほど低次元で、単純なリアリズム信仰はない。
 『ふらんす物語』のリヨンを通して荷風は、さきほどのべたように、悲愁とノスタルジアに満ちたリヨンをえがく。まるでフランスを憧れの対象として描いているように見せかけることがあっても目は醒めている。リヨンを舞台にしているものではないためあえてふれなかったが、「巴里のわかれ」などは終始フランスヘの無批判で甘い礼賛と読める。しかし、それは、すべて耽美の技法であり、彼のえがくベル・エポックの光も影もすべてを社会化した視線にあえてさらさない強い意図で構成されているからこそ、荷風の文学は底に力を秘めているのである。問題意識とか批判精神という手垢のついた言い募りを称揚し、荷風の非社会性を蔑むことがいかに荷風のしたたかな意図の理解を阻害するか。
 荷風のたわごと、繰言には、超俗という意識すらない。むしろ俗でもある。いやな青年であった。本文でもふれたように、銀行の小野支店長にとってほんとうに扱いにくい嫌な部下だったろう。仕事は出来ない(ふりをする)、さぼる、嫌々勤務する態度を露骨に見せる。病気のふりをする。親は中央官僚の天下りで日本郵船の重役。銀行の頭取とのコネを持つ若造。俗人中の俗人で、銀行員の「俗」の方が、それが職業上の要請に耐えているだけまだましであるとさえいえよう。
 しかし、荷風はつねにしたたかにリヨンを「ネタ」にしつづけ、凡百が見ることのかなわないリヨンをきちんと描ききった。百年後の今日でも、リヨンを歩くためのまなざしの指針を与えてくれるのはただ荷風の『ふらんす物語』一冊で十分である。ただし、荷風の指針に沿って歩くリヨンは余りにもリアルで、まことかと思っているうちに、いつの間にか夢幻のリヨンへと誘われること必定である。

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5 あとがき
 2002年4月から一年間の研究休暇を得、リヨン第三大学に席をおいて「相関文化研究」をする機会を得た。
 リヨンへ来る日本人の多くがするように、私も永井荷風の『ふらんす物語』を携えてきた。文庫本の一冊である。
私は荷風については一読者にすぎない。わずか『墨(サンズイが付く)東綺譚』、『日和下駄』、『断腸亭日乗』などしか知らず、ほかにはかつて『四畳半襖の下張り』をひそかに読み、とくに丸谷才一編の『裁判全記録』(朝日新聞社)を熟読したことがあるにすぎない。
 『ふらんす物語』の中には、リヨンを描いた部分といっても掌編がいくつかあるだけである。荷風のリヨンの記述などたいした分量でない、とたかをくくって、私は本来の研究の合間に、なんとはなしに文庫本片手に歩くことをはじめた。
 歩きはじめてたちまちおどろきに襲われた。荷風の記述が、今私の前で立ち上がって生き生きと呼吸をほじめたのである。この現代のフランスの街に、百年昔がそのままよみがえってきたのだ。いや、荷風の描写があまりにもリアルなこと、もう荷風の目でもってしかリヨンが歩けなくなると思えるほど感動を覚えたのだ。この喚起力はどのようなまなざしで構成され、文章の技術に支えられているのか。二十世紀初頭にこの町を逍遥した荷風がたしかにここに立ち、この道を歩き、この場所を訪れたという生々しい感覚をどう再構成すればいいのだろう。
 まず調べなくてならない、荷風は、銀行でどのような勤務をしていたのか、下宿はどこにあったのか、オペラ座で見初めたというローザ・トリアニとは……いままで看過ごされていたことがらを一から追い求める作業にとりかかり、興味は果てしなく拡がった。その成果の一部が本書である。
 因縁話風なことになるが、思えば、私も銀行でしばらく仕事をし、荷風とおなじようなわがままで数年後に辞めたことがある。その銀行は奇しくも荷風の勤めていた銀行と1996年に合併したのである。また、荷風の滞在に遡ること21年前の明治19年に、私の曽祖父はパリに留学途上、司法省法学校の一年後輩にあたる梅謙次郎の学ぶリヨンを訪ね、彼の案内で「裁判所、大学、公園などを一覧す」と書き記している(加太邦憲『自歴譜』岩波文庫)。まさに、荷風の描く「パレード・ジュスチース」、「リヨン大学」、「街端(はず)れなる公園」である。この梅謙次郎が初代総長を務めた法政大学が今の私の勤務先なのである。わずかな関係といえばそれまでだが、私には、この原稿を書きはじめて、あらためて、不思議な縁を感じている。
 さいごに、この取材や写真撮影にいつもつきあってくれたうちのかみさんの協力は大きかった。彼女の度胸や直感なくしては本書の風景発見はとうていなされなかったといえる。撮った写真は(資料を含めて)三千枚以上にのぼる。また文庫本一冊片手に大それたことをはじめた私に、日本から荷風研究に関する資料のコピーをせっせと送ってくれた息子の協力もありがたかった。そのほか、多くの方々のご援助、ご協力をいただいた。ここに感謝のことばをささげたい。
 出版にあたっては同僚の宮永孝氏の推挽をうけ、また本書が成るにあたっては白水社編集部の芝山博氏にひとかたならぬお世話になった。深甚のお礼を申し上げたい。
    2004年師走                        加太宏邦

6. あとがきのあと
「荷風のリヨン」 歩いて驚く「ふらんす物語」
加太 宏邦氏(かぶと・ひろくに)
1941年生まれ。大阪外国語大学大学院修了。専門はスイス文化論・文化表象論。法政大学教授。

 1907年、銀行員として駐在するため27歳でフランスに渡った永井荷風は、その体験を基に「ふらんす物語」を著した。フランスというとすぐにパリを思い浮かべるが、十カ月の滞在の大半を過ごしたのはリヨンだった。これまであまり知られていなかったリヨンでの荷風の足跡を、一年聞かけてたどった。
三年前、研究休暇でリヨンの大学に赴いたのがきっかけ。仕事の合間に「ふらんす物語」の文庫本を片手に散策するうちに不思議なことに気付いた。荷風が描写する風景はどれも「ありえない景色」なのだ。たとえば町を流れる二本の川にかかる無数の橋。そのうちの一つに立ち、連なる橋を眺める記述があるが、どこに立ってみても連なって見えない。大晦日(おおみそか)の鐘が鳴り終わっても渡りきれないと
書かれたラファイエット橋の全長はせいぜい二百数十b。「印象派の絵画に似ているかもしれない。風景をよく観察した上で、それをドラマチックに再構築して語る手腕に驚いた」という。
 荷風の下宿の揚所をつきとめたのも収穫の一つだ。
「住人は旅人と独身者ばかり、窓から通りが見える。……」。断片的な記述を手がかりにして当時の住所録にあたり、絵はがきを探し出し、マイクロフィルムの山と格闘した。散歩の達人で卓越した路上観察者の荷風は、「人を歩かせる名人でもあった」と笑う。
 大学卒業後に勤めた大手銀行を「性に合わない」と退職した。荷風と同じ理由である。ヴォルテール研究のため渡欧するが、いつの間にかスイスのフランス語圏の文学にのめりこんだ。同じ仏語で書かれているのにスイスの作家は「地方作家」と片付けられてしまう。
「国民的作家の夏目漱石に比べると荷風の評価はまだ低い。つい、知られていないもの、弱いものをもり立ててやろうと思ってしまうのは、性分なんでしょう」
(白水社・2,600円)
(出典 日本経済新聞 2005.3.20)

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7 著者紹介
加太宏邦(かぶと・ひろくに)
1941年生まれ、京都育ち。大阪外国語大学大学院修士課程修了。
法政大学社会学部教授。専門はスイス文化論・文化表象論、観光文化論。
論文に「スイスが溶ける日」、「スイス・ロマンド文学という制度」など、著書に『スイスの旅』(ガイドブック)など、翻訳にテプフェル『アルプス徒歩旅行』、アーリ『観光のまなざし』などがある。

8. 読後感
 何と云っても面白かったのは、第一部の「三 下宿」で、荷風が住んでいた下宿を探す項です。P.58〜94をこれに当てています。たまたま5月下旬リヨンに行った際、ヴァンドーム通りが泊まったホテルの直ぐ近くだったので、下宿の位置を確認して来ました。詳細は次項「荷風の下宿」をご覧下さい。

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[Last updated 6/30/2005]