本の紹介 僕の叔父さん 網野善彦

  目 次

1. 本との出会い      
2. 本の概要
3. 本の目次
4. 著者紹介
5. あとがき
6. 読後感
7. 週間ブックレビュー


中沢新一著

集英社新書

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1. 本との出会い
 この本のことを知ったのは、新聞の書評で、早速図書館で借りて読みました。読んでいる途中で良い本だと判ったので、本屋で買い求めました。読み終わった頃、NHKの「週間ブックレビュー」でも採り上げられました。
 網野善彦さんのことを知ったのは、昨年の春の新聞に載った追悼記事です。図書館で検索し、手軽な本として「古文書返却の旅−戦後史学史の一齣」(中公新書)を借りて読み、身近な人となりました。その後、網野善彦・阿部謹也共著「対談 中世の再発見 市・贈与・宴会」を拾い読みし、中沢新一・赤坂憲雄共著(二人の対談)「網野善彦を継ぐ。」を読み、網野善彦さんの業績の概要がわかりました。


2.本の概要(本のカバーより)
 日本の歴史学に新たな視点を取り入れ、中世の意味を大きく転換させた偉大な歴史学者・網野善彦が逝った。数多くの追悼文が書かれたが、本書の著者ほどその任にふさわしい者はいない。なぜなら網野が中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきたからだ。それは学問であり人生であり、ついには友情でもあった。切ないほどの愛を込めて綴る「僕と叔父さん」の物語。

3. 本の目次
第一章 『蒙古襲来』まで………………………………………………9
    アマルコルド(私は思い出す)/民衆史のレッスン/
    夜の対話/鳥刺しの教え/
    キリスト教・皇国史観・マルクス主義/
    「トランセンデンタル」に憑かれた人々/
    飛礫(つぶて)の再発見/網野史学の誕生/
    真新しい「民衆」の概念

第二章 アジールの側に立つ歴史学…………………………………67
    『無縁・公界・楽』の頃/
    若き平泉澄の知的冒険−対馬のアジール/
    自由を裏切るもの/未来につながる書物/
    仮面と貨幣

第三章 天皇制との格闘………………………………………………107
    コミュニストの子供/昭和天皇に出会った日/
    宗教でもコミュニズムでもない道/愛すべき「光の君」/
    国体とCountry's Being/魔術王後醍醐/
    天皇制と性の原理/コラボレーション/異類異形の輩/
    葛の花 踏みしだかれて

終 章 別れの言葉……………………………………………………175

    あとがき…………………………………………………………180

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4. 著者紹介 中沢新一(なかざわ しんいち)
 1950年、山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。宗教学者・哲学者。中央大学教授。『チベットのモーツァルト』(せりか書房)でサントリー学芸賞、『森のバロック』(せりか書房)で読売文学賞、『哲学の東北』(青土社)で斎藤緑雨賞、『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社)で伊藤整文学賞、『カイエ・ソパージュ 対称性人類学』(講談社)で小林秀雄賞を受賞。他に『緑の資本論』(集英社)『精霊の王』(講談社)など著書多数。

5. あとがき
 私は記憶力にあまり自信のあるほうではないのだけれども、子供の頃から、網野さんと会ったときのことやそのときの会話の内容などを、じつに鮮明に憶えている。このことは自分でも驚くほどである。
 たとえば、五歳になるかならないかの頃、はじめて網野さんが自分の目の前にあらわれた朝のことなどは、記録映画の画面のようにはっきり憶えている。その日、新しい親族へのひととおりの挨拶をすませた網野さんといっしょに、私は庭の散歩に出た。庭には白いハナニラが咲き乱れ、その花の向こう側を飼っていたニワトリがせわしげに歩き、飼い猫は寝たふりをしながら、その様子を縁側から目で追っていた。さわやかな空気の感触に包まれて、私は新しく叔父さんになったこの背の高い男の人と手をつないで庭を歩きながら、幸福を感じていた。そのとき自分の目が見ていた光景を、はっきりと思い出すのである。
 名古屋時代の網野さんとの数々の思い出も、じつに鮮明だ。あれはたしか、いとこの徹哉君や房子ちゃんといっしょに、はじめて名古屋大学の研究室に出かけた日のことだった。研究室の本棚にはまだ本がまばらにしか並んでいなかったから、赴任して一年もたっていない頃だったかもしれない。網野さんは私たちを名古屋城見物に誘った。自分もまだ行ったことがないので、いい機会だねと、網野さんは言った。私たちは地下鉄に乗ってウキウキと名古屋城に向かった。
 天守閣に登ると、そこには望遠鏡が備えつけてあった。望遠鏡はおあつらえ向きのように、相生山団地の方角に向けてすえられていた。百円玉をつぎつぎと投入しながら、網野さんもいとこたちも夢中だった。「おいおい、見えるぞ。うちの団地だよ。ああ、前にある棟が邪魔になって、うちの棟が見えない」
「ねえねえ、お父さん、小学校も見えるよ。ああ、お金が切れちゃった」。みんなできゃあきゃあ言ってひとしきり楽しんだあと、新ちゃんはなにが食べたいかい、と網野さんがたずねるから、やっぱり山本屋の味噌煮込みうどんでしょう、と答えると、みんなも大賛成して、そのままにぎやかに階段を駆け下りて、また地下鉄に乗り込んだのだった。

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 味噌煮込みうどんを注文してできてくるのを待っているときだった。急に網野さんが慌て出した。「あれ、ぼくはたしかに大学を出るときは鞄を提げていたよなあ」「うん、たしかもってたよ。あれ、どこいったんだろう」「ないんだよ。どこへやったんだろう」「あのときじゃない。お城で望遠鏡のぞいてそのまま置いてきちゃったんじゃないの」「そうだ。それに違いない。困ったなあ、ぼくは大学を首になっちゃうかもしれないぞ」「ええ、どうして」「あの鞄の中には、大学院の入学試験の答案用紙が入れてあったんだ。参ったなあ、ぼくは首だよ」
 運ばれてきた味噌煮込みうどんをそのままにして、お代を払うと私たちは大急ぎでタクシーを飛ばして、名古屋城に向かった。網野さんの顔は真っ青だった。「もうないだろうなあ。誰かがもっていっちゃったに違いない」「そんなものもってく人いないよ」「いや、わからないぞ。そうなったら、ぼくは首だ」。私たちは天守閣への急な階段を大慌てで駆け上った。
 顔を引きつらせて階段を駆け上るこの一団を、のどかな表情の観光客たちが驚いたような表情で見ていた。心臓をドキドキさせながら、天守閣の最上階に着いた。すると、黒光りをした床の向こうには青空を切り取って小さな窓が開かれ、そこにすえつけられた望遠鏡の足許には、網野さんがいつももち歩いているあのよれよれの黒い鞄が、置き忘れられたときのまま、きちんとした表情をして静かに置かれていたのだった。私たちはみんなで顔を見合わせて笑った。さっきまで青くなっていた網野さんはたちまち元気を取り戻して、またうどんを食べ直そうと言った。そのときの天守閣の黒光りのする床に反射していた光を、私はまざまざと思い出すのだ。
 網野さんが亡くなってまだ間もない時分、この追悼文を書きはじめた私は、こうした光景がつぎからつぎへと記憶の奥からよみがえり、自分に向かって押し寄せてくるのを体験して、少しばかり怖くなっていた。この文章の大半の部分を、私は山梨の実家で書いた。夜更けにこれを書いていると、仕事をしている部屋の隣の座敷部屋から、昔のように父親や護人叔父や網野さんが議論し合っている声が聞こえてくるような幻想に、何度も襲われた。この文章を書いていたとき、私は少々異常な精神状態にあったようだ。
 私がそっと襖を開けると、人のいないはずの座敷には皎々と白色電球が灯り、そこに父親や網野さんが座って私のほうを見上げているのが、見えてくるようだった。「新、どこへ行っていたんだ」と父親が話しかけてくる。「新ちゃん、今まで勉強かい。入ってきていっしょに話をしよう」と網野さんが微笑みかけてくる。死んでしまったはずの人たちが、また昔のようにそこにいるように感じられ、忘れていたはずの思い出が、つぎからつぎへと驚くほどの鮮明さでよみがえってくるのだった。
 この文章を私は、死者たちといっしょになって書いたような気がしてしようがない。時間と空間が序列をなくして、記憶の破片が自由に飛び交うようになっていた。そして死者たちが自分の思いを、私の書いている文章をとおして、滔々と語り出したのである。ものを書いていてこんな体験をするのははじめてだった。『フィネガン徹夜祭』を書いているときのジョイスや、夜中にひとり『死者の書』を書いている折口信夫の精神の中で進行していた事態を、私ははじめて内面から理解することができたように感じた。

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 古代人が「オルフェウスの技術」と呼んだものをとおして、人は亡くなった人々や忘れ去られようとしている歴史を、現在の時間の中に、生き生きと呼び戻そうとしてきた。墓石や記念碑を建てても、死んでしまった人たちは戻ってこない。それではかえって死んだ人たちを遠くに追いやってしまうだけだ。リルケの詩が歌っているように、記念の石などは建てないほうがよい。それよりも、生きている者たちが歌ったり、踊ったり、語ったり、書いたりする行為をとおして、試しに彼らをよみがえらせようと努力してみることだ。
 網野さんの歴史学が、まさにそういう行為をめざしていたのではないだろうか。実証的な歴史学は、すでに消え失せた世界のために記念の石を建てることはできるが、それが真実の歴史学となるためには、まだそこにはなにかが決定的に欠けている。網野さんが豊かな想像力と批判精神をとおして創造しょうとした歴史学は、墓石も記念碑もなく土の下に埋葬されてきた人間たちのために、記憶の大地にみずみずしい花を咲かせようとすることだった。
 来るべき歴史学は「オルフェウスの技術」から、多くのことを学ばなければならないだろう。歴史はつねに自分が語りたかったことを語り損ねる。その語り損ねた思いや欲望を掘り起こしつつ、歴史学は実証的な現実というものを越えていかなくてはならないのではないだろうか。人はみな運命に抗おうとする自由が、自分の内面に動き続けているのを知っている。それと同じように、歴史学は現実の世界をつくりあげる運命だけではなく、それに抗って別の世界を切り開いていこうとする自由な意志が、たえまない活動を続けていることをも語ることができなくてはならない。網野さんの創造しょうとした歴史学にあっては、その自由への意志が鋼鉄のような強さをもって、現実原則への執拗なたたかいを続けていた。私は自分なりの「オルフェウスの技術」をもって、網野さんのその思いをよみがえらせたかったのである。
 この文章は、はじめ文芸雑誌「すばる」に三回にわたって連載されたものをもとにしている。編集の長谷川浩さんにはじめ依頼されたのは短い追悼文だったが、それを書いているうちに、追憶はあとからあとからあふれかえり、とうとう一冊の本になってしまった。それにしても長谷川さんの勧めがなければ、こういうものは生まれなかっただろうと感謝する。集英社新書編集長の鈴木力さんは、かつて私が困難のうちに苦しんでいたとき、「週刊プレイボーイ」の編集長の立場にあって、文字どおり身を挺して私に救いの手を差し伸べてくれた人である。自分が最上の文章を書けたと思うときに、それを鈴木さんの手で本にしていただくことで、私はいつかその友情に報いたいと願ってきた。それがこのようなかたちで実現できたことに、私は深いよろこびを感じている。網野真知子さんは、私には叔母にあたる人であるが、この人が私の記憶違いや不正確な記述を指摘してくださったおかげで、この本は事実に関しても信用度の高いものになることができた。そればかりではない。この叔母が網野さんと出会い、恋愛をして結婚にまでこぎつけ、その後の長い人生をともにしてくださったおかげで、私は網野さんを「僕の叔父さん」にもつことができたのである。だからほかの誰よりも感謝しなくてはならないのは、この真知子叔母ではないかと思う。
 さて最後に、この文章はたしかに「極私的網野論」としての、特殊に私的な性格をもっているが、私としては、将来網野さんの評伝などを書こうという人があらわれたとき、そういう人の役にも立てるようにと心がけて書いた。この中で網野さんが語っている言葉は、実際に語られたままではないかもしれないが(記憶が現在の私の思考のフィルターを通過してくるときに、変形されている部分がかならずできるはずである)、そのとき網野さんが語ろうとした「思想内容」については、できるだけ等身大のものであるようにと心がけている。事実の正確さと「オルフェウスの技術」を結合することが、この本での私の挑戦だった。

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6. 読後感
 第一章の「飛礫(つぶて)の再発見」に出てくる話は感動的です。新一さんのお父さんの厚さんは、1968年の佐世保港においてデモ隊が機動隊に対して行う投石をテレビ・ニュースで見て、子供の頃行っていた投石合戦のことを思い出します。それが契機で厚さんと網野さん二人の飛礫研究へと発展して行くのです。
 本全体が「僕の叔父さん 網野善彦」に捧げる著者の追悼文になっています。

7. 週間ブックレビュー 佐藤忠男 (映画評論家)
 著者が5才になった時に、叔母が結婚した相手が、後に日本の歴史学に新たな視点を取り入れ大きな反響を呼ぶ網野善彦でした。
 『最初の出会いの日から、私と網野さんは、人類学で言うところの「叔父−甥」のあいだに形成されるべき、典型的な「冗談関係」を取り結ぶことになったわけである。』(本文より)
 著者が高校、大学へと進学し、宗教学者となる道のりと、「網野史学」の姿が明らかになっていく過程が重なります。
 40年以上続いた「叔父さん」と「僕」の共に過ごした時間を振り返り、網野善彦が伝えたかったことは何かを、読者に問いかける一冊です。
(出典 週間ブックレビュー 2005年1月23日放送)

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[Last updated 3/1/2005]