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米国大統領選挙投票日の少し前、ニューヨーク・タイムズは、ケリー候補が有権者の「頭」に訴えようとしているのに対し、プッシュ候補はかれらの「心」を狙っているようだ、という意味の解説記事を載せていた。ケリー氏はどちらかといえば理詰めで語りかけ、イラク戦争や経済問題についてのブッシュ政権の対策を批判した。対照的に、プッシュ氏は、道徳観、信仰心などを強調し、その点で自分のほうが指導者にふさわしい、というメッセージを繰り返していたからである。
結果は、確かに「心」が「頭」を制したような印象を与えた。出口調査でも明らかになったように、有権者の多くが具体的な政策よりは、宗教意識や道徳的価値観にもとづいて投票したことは、彼らの過半数が、ブッシュ大統領との「心」のつながりを意識していたことを示すかのようであった。
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これは何を意味していたのか。現代のアメリカにおいて、理性よりは感情を重んずる人が増えているのだとしたら、その現象をどう解釈するかが、これからの行方を探る上でも重要となるように思われる。
一つには、恐怖感、嫌悪感、侮蔑(ぶべつ)感といった、いわはネガティヴな感情が、ここ数年高まってきた、ということ。それにはもちろん9・11事件以降のテロヘの恐れに根ざす部分もあり、テロ行為を感情的にとらえているからこそ、イラクのサダム政権と9・11テロとの結びつきを信じて疑わない人が、依然として米国有権者の過半数もいるのだといえよう。
一方国内問題についても同様に、家庭生活の基盤(ファミリー・ヴァリュー)がこれほどまでに強調されるのも、それを脅かすものがある、という感情のためである。家庭生活の維持を根本的価値観とする人たちの多い南部のほうが、実際にはニューイングランド地方よりははるかに離婚率が高いのにもかかわらず、家庭を守ることによってアメリカのコア・ヴアリユーを外部や内部の敵から守るのだ、といったイメージが定着している。そして妊娠中絶や同性結婚を支持するものに対し、宗教的、道徳的保守主義者はあからさまな嫌悪の惰を表明してきた。
そのような恐怖感や嫌悪感に対し、ケリー氏はアメリカ人の良識に訴えようとした。彼は選挙を通して、プッシュ政権が市民のあいだに恐怖感を植えつけようとしていると批判し、我々は逆に希望の政治をもたらそうとしている、と繰り返し主張していた。テロ攻撃の危機を強調して「脅しの戦術」に終始するプッシュ大統領は、アメリカ市民に将来への希望を与えてくれない。われわれは「恐怖の中に生きるのを拒否する」ことを明確に示すためにも、民主党を支持してほしい、というのがケリー氏のメッセージであった。
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しかしそのような姿勢は知的すぎて、一般市民の感情にアピールすることができなかったのではないか、という反省が、選挙後民主党支持者のあいだで見られた。もっとも、大統領選挙に敗れた後の民主党支持者の反応は、選挙中の共和党の姿勢とも似ていて、きわめて感情的だった。プッシュ氏に投票した有権者に対する失望、侮蔑、あるいは怒りが各地で見られた。私は仕事と家庭の関係で、ボストンとシカゴをひんばんに往復しているが、今回の選挙でも圧倒的に民主党を支持したマサチューセッツ、イリノイ2州での知人の感情は、まさに怒りそのものだった。宗教右派の姿勢への怒り、そしてそのような姿勢に賛同してプッシュ大統領を再選させたかにみえる米国有権者への怒りである。特にインターネットに書き込まれたケリー支持者の感情の高まりは、共和党支持者の感情と相通ずるものがある。アメリカ市民が、かってないほどの数で共和党候補に票を投じたことに対し、怒りを抑えきれないでいる。信仰心や感情に流され、常識のかげらもない彼らが、ブッシュ政権をあと4年も温存させてしまった、という憤りである。
現今の米国は、感情の季節に入ったかのような印象を受ける。これからも、共和党と民主党、あるいは保守派とリベラル派のあいだの感情的な対立は、容易に消え去らないであろう。
しかしながら、政治における知性と感情、あるいは理性と宗教とのあいだの対立というテーマは、今に始まったものではない。近代政治の基礎を築いたともいえる18世紀の啓蒙主義時代にも、すでにその問題は意識されていたのである。フランスにおける啓蒙思想は、既存の宗教に対して合理主義や科学思想を鼓吹し、政治に対する教会の干渉を排除すべきだ、と唱えた。
しかしイギリスやアメリカでは、近代政治と伝統的な宗教とは必ずしも相いれないものではなく、自然や社会の問題に対しては合理的な方法で解決策をはかると同時に、個人の単位では、神への信仰心、あるいは他者に向けての道徳や感情を保つことが重要だ、とされていたのである。フランスにおいてすら、啓蒙時代の代表的な思想家コンドルセも、社会の基盤にあるのは道徳観であり、道徳の基礎が個人の感情なのだ、と主張していたことは、歴史家エマ・ロスチャイルドが『経済的感性』の中で指摘するとおりである。
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感情や信仰のみに訴えるのでもなく、同時に理性の力だけを頼りにすることもせず、両者を適合させ社会の問題を解決しようとするのが、啓蒙主義時代以来の欧米、そして日本その他の民主主義国家が歩み、あるいは歩もうとしてきた道である。現在の米国指導者や世論が、感情や道徳を強調するあまり、科学的合理主義を軽視しようとするかに見えるのは不幸なことである。が、今必要とされるのは、そのような姿勢の全面的な否定ではなく、人間の持つ感情が、社会にとって、ひいては世界にとって、建設的なものとなるよう、努力することである。
これからの国際秩序も、各国間の利害関係(それはそれぞれの「国家理性」のからみあいである)によってではなく、感情的連帯によって培われていくのが好ましいのではなかろうか。その場合、怒りの気持ちもそれなりの意味をもつようになるのではないか。理不尽なテロ行為への怒り、無知や偏見への怒り、貧困や迫害への怒り。このような怒りは、国際社会の道徳的基盤となりうるかもしれない。
(出典 朝日新聞 2004.11.29 夕刊)
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[Last updated 11/30/2004]