本の紹介  昭和天皇(上)(下)



ハーバート・P・ビックス著
(株)講談社

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目 次

0. 概 要
1. 日本の読者へ
2. 謝 辞
3. 本の目次
4. 監修者あとがき
5. 書 評-1
6. 書 評-2
7. 著者紹介
8. 監修者紹介
9. 読後感

0. 概 要
 2001年ピユリッツアー賞受賞作。
 上巻では幼少時の教育、大元帥になるための軍事教育を通して人格はどのように形成されたのか。神格化されたベールの下の人間像とともに、病弱の父・大正天皇の摂政を経て即位、日中戦争のなかで政治的君主に変貌していく過程を克明に描く。下巻では太平洋戦争前後の昭和天皇を描く。

1. 日本の読者へ
  本書は、昭和天皇、天皇制、およびかつて「天皇イデオロギー」を構成していた概念、価値、信念に焦点をあて、日本の20世紀を再検討したものである。本書で読者が出合うのは、ゆがめられた公的な天皇像とはまったく異なった天皇である。
 この伝記で取り上げた昭和天皇は、受け身の立憲君主でも、日本きっての平和主義者・反軍国主義者でもなかった。それどころか天皇は、昭和時代に起きた重要な政治的・軍事的事件の多くに積極的に関わり、指導的役割を果たした。その指導性の独特な発揮の仕方は、「独裁者」か「傀儡(かいらい)」か、「主謀者」か「単なる飾り」かという単純な二分法では理解できない。
 天皇が全権を握ったり、独力で政策を立案したりすることはなかったが、天皇と宮中グループは、内閣の決定が正式に提出される前に、天皇の見解や意思が決定に盛り込まれるよう尽力した。そして、天皇の賛否こそが決定的だった。天皇が賛否を口にしなくとも、何も言わないという行為自体が、天皇の意思を実行に移す当局者を大きく左右した。
 昭和天皇は、私が本書で示したように、次第に日本の戦争政策の絶対的な中枢になっていった。日本政府もアメリカ政府も、それぞれの思惑から、戦時中の天皇の役割をあいまいにするため、多大な努力をしなければならなかった。日本国憲法下に天皇を在位させたこと、以前の政策決定に果たした役割を追及しなかったこと、戦犯裁判の可能性から救ったこと、それらが結局は、さらに多くの問題を生み出す結果となった。こうして歴史の事実が歪められ、戦争と降伏の遅延をもたらした政策決定過程の解明が妨げられ、日本の民主主義の発展も制約された。

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 私は、できるだけ状況を再現したこの伝記が、敗北に終わった戦争をめぐる日本での議論を前進させることを願っている。さらに、本書が政策決定のプロセスに焦点を当て、日米両政府が昭和天皇を欺瞞の構造の中に埋め込んだその方法を述べたことによって、現代日本の手づまり状態の理解が深まることも望んでいる。
 本書では、さまざまな問題を取り上げた。彼はどういう人物なのか。なぜ、またいかに日本の政治と軍事に積極的な指導力を発揮するよう入念に教育されたのか。1920年代後半における政党内閣の凋落に、天皇と「宮中グループ」はどのような役割を果たしたのか。政治的・軍事的決断を迫られた、1930年代初頭の満州侵略から1945年8月の帝国軍隊の降伏まで、そして降伏直後の段階にどのように行動したのか。天皇と日本国民との関係はなぜ、どのように時代とともに変わったのか。そして何よりも、昭和天皇の独自の過去を新たに批判的に解釈することが、現代日本が抱える諸問題への我々の理解と対応に役立つのはどうしてなのか、などである。

 私が昭和天皇に関するこの研究害を書いたのは、1991年から2000年の冬にかけてである。このタイミングは重要だった。1989年の天皇の死後、学術書は言うに及ばず、天皇に身近に接した人たちの日記や回顧録がいっせいに出版された。20世紀末まで研究が続いたため、私はこれらの情報を大量に入手することができた。ただし天皇の私的な記録は、宮内庁が国民への公開を拒み続けている。
 さらに、その時期に冷戦が終結し、軍国主義者と軍国主義が退潮し、とくに先進工業国における政治改革の推進要因になった。世界のいたるところで、民主主義的な思想・行動が息を吹き返した。私が昭和史の研究に没頭していたとき、日本の指導者たちは、バブル経済崩壊への対応と、銀行の経営陣、大蔵省の役人、周辺の利権屋たちの癒着が引き起こした不良債権問題への対策に追われていた。高級官僚や経営トップに対する刑事罰を含む民主主義的な説明責任制度がない日本では、政権与党は公共の利益より既得権益の擁護を優先してきたのである。
 日本の経済状況が悪化の一途をたどる中、国民は政治改革を求め、それが主要な政治課題となった。これと時を同じくして、国家主義を促進する新たな動きが現れ、その声は次第に大きくなった。新旧の国家主義者は、社会的基盤を広げて政治の主流となり、国の安全保障や憲法改正をめぐる論議に影響力を発揮しはじめた。軍が重要な役割を演じることはもうないだろうし、日本の国際的立場と東アジアにおける戦略的地位は第二次世界大戦前とは異なっているが、過去の重い歴史が消え去ったわけではない。本書の英語版が刊行されたとき、日本では、アメリカの提督ペリーが開国を迫った時代から続けられてきた議論が再燃し始めていた。すなわち、国内の民主主義を深化させる要求と、対外政策の実施におけるいっそうの自立性の発揮とをどう結合させるか、である。

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 本書の執筆中、私の念頭を去らなかったことがもうひとつある。アメリカ合衆国の指導者たちが、国際法を蹂躙(じゅうりん)してべトナム戦争を推進したにもかかわらず、そのために死んだ何百万人ものベトナム人に対してまったく責任を取らなかったことである。
 1930年代後半、第一次・第二次近衛内閣のもとでの日本と同様、1960年代後半から1970年代初頭にかけてのアメリカでも、戦争を継続させ、南ベトナムでの行きづまりと敗北を公に認めなかったのは政府当局者だった。
 私が神秘に包まれた昭和天皇に焦点を当てたのは、20世紀のそれぞれの時期における日本の政策決定を把握し、日本という国家全体の権力構造をさらによく理解するためである。さらに、民主主義的な変化が少数特権集団による権威と権力行使とを脅かすたびに、そうした変化を封じ込めるのに果たしてきた近代天皇制の役割についても私は検討を加えた。このテーマの追及にあたって私は、日本社会をひとつに結び、昭和天皇とその官僚の政策に浸透していった政治的思考と道徳的信念とを議論の対象とした。つまり、国体、皇道、天皇親政、そして精神的に優れ、神に加護された民族として均質の比類なき日本といった観念に対してである。こうした特徴が、天皇崇拝やさまざまな抑圧制度、言語習慣などとともに、無答責のエリートによる戦時下の権力行使を正当化してきた。
 これらの思想のあるものは、1945年8月の敗戦後に復活し、敗北に至った戦争の本質をあいまいにするために利用されていることは否定できない。したがって本書は、敗戦国の元首が、間接的にせよ著しい暴虐に加担したのに、処罰をまぬがれ名誉と権威のある地位に留まることを許された場合、その国がどうなるかの研究でもある。
 今日、我々は天皇の免責に異議を唱える必要性をいっそう強く自覚しているが、その取り組みは、世界秩序を維持する時代の戦略方針によって踏みにじられているのである。

 本書の優れた日本語版を産み出すのにお骨折りくださった翻訳者、岡部牧夫、川島高峰、永井均の諸氏に深く感謝申し上げる。吉田裕氏には細部にいたるまで入念に本書全体を監修していただき、田畑則重氏と編集スタッフ一同は本書をみごとに完成させてくださった。昭和天皇を題材にした本書が講談社から日本の読者に提供されるのは私の大きな喜びである。
 2002年7月                          ハーバート・P・ビックス

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2. 謝 辞
 まず、はじめに本書を妻敏枝に捧げて感謝したい。彼女の献身的な働きのおかげで、資料が豊富になり、それを文章にどのように生かせばいいのかという洞察力の点でも貢献してくれた。
 パージニア州ミルボローのシェナンドー渓谷に閑居する元編集者で画家のサム・ハイルマン、原稿の細部にわたる彼の才気あふれる論評は、特別な賞賛に値する。文章の流れを良くしてくれたばかりか、色々なアイデアをもたらし、鋭い批評を寄せてくれた良き友である。本書を豊饒な作品にするという点で、大きな借りができてしまった。ハーパーコリンズ社のティム・ダガンは卓越した編集者である。鋭い批評眼を持ち、忍耐力があり、あらゆる面で支えとなってくれた。彼にはとても恩恵を被っている。同社で全文にわたって見事に校閲してくれたスーザン・ルーエレンには、とくに感謝を申し述べたい。著作権代理人のスーザン・ラビナーは、本書の立ち上げから関わり、完成まで支えてくれた。
 ジョン・ダワーは、相談相手となってくれ、また戦争に関するふたつの章の草稿に価値あるコメントを寄せてくれた。10年以上も前、イギリスのシェフィールドを訪れた際に、旧友の中村政則は戦後日本の君主制についての著書を贈ってくれたが、同じ頃、シェフィールドに住むグレン・フックが私に『昭和天皇独白録』を送ってくれた。私は、このふたつの著述に突き動かされて本書の仕事に取りかかったのである。デイビッド・スウェインには初期の調査、執筆段階で貴重な意見を頂戴した。マーティン・シャーウィンは原稿の初期段階で手厳しく批評してくれたし、長年にわたって惜しみなく援助を与えてくれているマーク・セルデンは最終章を論評してくれた。本書のどこかに協力の痕跡を残してくれた彼らおよびフェロズ・アーメッド、ブライアン・ヴィクトリア、エド・フリードマン、ジョン・ハリデイには感謝の意を捧げたい。ノーム・チョムスキーは快く、最終チェック段階で洞察に満ちた示唆を与えてくれた。アンドリュー・ゴードンは、ハーバード大学に一年間舞い戻って教鞭を取る手助けをしてくれた。
 さらに、調査研究の場を与えてくれたハーバード大学燕京研究所図書館と一橋大学図書館、第7章の初期草稿を読んでくれたエリー・クレイ、ハーバード大学図書館所蔵資料への度重なる請求にこたえてくれたジョナサン・ドレスナーとクリスティーン・キム、そしてコンピュータ技術にひいで、昭和の君主制に関する講義に出席して役立ってくれた菊池信輝にも感謝したい。
 日米教育委員会の研究奨励金(フルブライト・プログラム)のおかげで、1992年に東京の一橋大学で本書の計画を開始することができた。そこで出会った吉田裕と渡辺治のふたりは、近代君主制の変容について、浩瀚(こうかん)にしてすぐれた著作を発表していた。ふたりは昭和天皇についての見解を闘わせ、近代日本の軍事、政治、憲法史の該博な知識を私にも分け与えてくれた。長年にわたって彼らは私の疑問に答え、常に理解を示し、惜しみない援助を与えてくれた。もうひとりの大切な旧友である粟屋憲太郎は東京裁判に関する資料を提供してくれたうえ、多くのアイデアと示唆を与えてくれた。彼らがいなければ、本書は貧弱で、多くの重要な資料を見落としたものになっていたのは間違いない。1990年代末に私は一橋大学大学院教投となり、まことに理想的な環境で研究をまとめ、原稿の最終稿を仕上げることができた。
 資料を共有し、意見交換をした岡部牧夫と山田朗にも心からの謝意を表明したい。そのほかにも数多くのすぐれた歴史研究者の膨大な著作に支えられて昭和天皇の生涯を知ることとなったが、田中伸尚と藤原彰の名は特筆に値する。未刊だった奈良武次の回顧録を提供してくれた田中宏巳も同様である。赤川博明には資料探しを手伝ってもらい、感謝する。
 10年以上にわたり、本書というプロジェクトを追求してきたが、義父の渡辺重明は昭和初期の思い出を語ってくれたし、吉田了子も、日本語資料を間断なく送付して協力してくれた。
 第13章の一部分はDiplomatic Histoy誌(1995年)に私が書いた「日本の遅れた降伏-再解釈の試み」がもとになっている。第14章と16章の多くの箇所は、Journal of Japanese Studies誌(1995年)に発表した「日本における象徴天皇制の創出」を使っている。原稿の使用を認めてくれた両誌に感謝したい。

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3.本の目次

 日本の読者へ
  凡例
  謝辞

 序 章……………………………………………………………………………………………17

第一部 皇太子の教育
    1901(明治34)年−1921(大正10)年
 第一章 少年と家族と明治の遺産……………………………………………………………33
 第二章 天皇に育てる…………………………………………………………………………59
 第三葦 現実世界に向きあう …………………………………………………………………79

第二部 仁愛の政治
    1922(大正11)年−1930(昭和5)年
 第四章 摂政時代と大正デモクラシーの危機……………………………………………… 113
第五章 新しい皇室、新しい国家主義………………………………………………………… 145
 第六章 政治的君主の誕生…………………………………………………………………169

第三部 陛下の戦争
   1931(昭和6)年−1945(昭和20)年
 第七草 満州事変……………………………………………………………………………193
 第八章 昭和維新と統制 ……………………………………………………………………245
 第九章 聖戦…………………………………………………………………………………275

 地図・満州1931(昭和6)年−1933(昭和8)年 ………………………………………………197
 写真………………………………………………………………………………………… 209
 上巻注……………………………………………………………………………………… 309
 訳者略歴…………………………………………………………………………………… 356

  下巻目次
(第三部 陛下の戦争・続き)
 第一〇章 戦争の泥招化と拡大………………………………………………………………9
 第一三章 真珠湾への道 ……………………………………………………………………31
 第一二章 試練の大元帥……………………………………………………………………73
 第一三章 遅すぎた降伏……………………………………………………………………115

第四部 内省なきその人生
    1945(昭和20)年−1989(昭和64)年
 第一四章 創り直された君主制……………………………………………………………155
 第一五章 東京裁判 ………………………………………………………………………197
 第一六章 神秘性をとりもどす ……………………………………………………………231
 第一七章 静謐な日々と昭和の遺産 ……………………………………………………253

  地図・東アジア1930(昭和5)年−1941(昭和16)年………………………………………13
     目本の南進1942(昭和17)年 ………………………………………………………35
     太平洋戦争1941(昭和16)年−1945年(昭和20)年 ………………………………75

   下巻注 …………………………………………………………………………………284
   監修者あとがき…………………………………………………………………………331
   索引 ……………………………………………………………………………………339
   訳者略歴 ………………………………………………………………………………366

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4. 監修者あとがき

                    一
 昭和天皇の戦争責任の問題については、国民感情と政府の公式見解、あるいはマスコミの論調との間に、微妙なずれが常に存在し続けてきた。国民感情の面でいえば、一方で、昭和天皇に対する強い崇敬の念や、同時代を生きた人間としての共感が幅広くみられる。しかし、その反面で、この問題に関して深いわだかまりを抱き続けてきた人々が、数多く存在しているのも事実である。一例をあげるならば、天皇の死去直後の1989年1月に行われた朝日新聞社の世論調査では、天皇に第二次世界大戦の責任が「ある」とする者=25パーセント、「ない」とする者=31パーセント、「どちらともいえない」=38パーセント、「その他・答えない」=6パーセントであり、「ある」と「どちらともいえない」の合計は、63パーセントにも達する。
 それにもかかわらず、日本政府は、昭和天皇の戦争責任を一貫して否定し続けてきた。また、マスコミでも、天皇の戦争責任の問題を正面から追及することは、長い間、タブーとされてきたのである。
 こうした状況に変化がみえ始めるのは、やはり、「昭和」から「平成」への改元前後の時期からだろう。「昭和の終焉」は、昭和天皇の歴史的評価をめぐる論争を、この国の内と外で再燃させることになったからである。注目する必要があるのは、この論争の過程で、天皇の戦争責任に関するマスコミのタブーが、しだいに崩れていった事実である。例えば、『読売新聞』は、連載記事「20世紀 どんな時代だったのか アジアの戦争」の中で、4回にわたって、昭和天皇をとりあげている(同紙1998年11月17日付〜11月20日付)。そして、「人々の意識の中で、天皇の戦争責任は今も、探究することのはばかられる深いよどみとなっているようだ」とした上で、昭和天皇にも責任があるとする立場の研究者の見解と、ないとする立場の研究者の見解を「両論併記」する形で、戦争責任問題に言及している。慎重な形ではあれ、ここでは、タブーヘの挑戦が意識されている。
 さらに、印象的だったのは、2001年8月15日付の『朝日新聞』の社説である。この社説では、「戦後の原点に立ち返るとき、どうしても避けて通れないのは、昭和天皇の戦争責任をめぐる問題である」としながら、「陸海軍を統帥し、すべて天皇の名において『皇軍』への命令が下されたことを考えてもやはり天皇の戦争責任は免れない、というほかあるまい」と結論づけている。主要全国紙の終戦記念日の社説の中で、昭和天皇の戦争責任の問題が正面から論じられたのは、これが初めてである。
 日本社会自体が、こうした変化の途上にある中で、本書は刊行された。そうした変化によって、日本での本書の刊行が可能になったともいえるし、本書の刊行が変化をさらに加速させることになればと思う。

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                    二
 本書は、アメリカ人の日本史研究者、ハーパート・ビックス(ニューヨーク大学ビンガムトン校教授)の大作 Hirohito and the Making of Modern Japan(HarperCollins, N.Y., 2000)の全訳である。著者のピックスは1938年生まれで、1972年に論文「日本帝国主義と満州」でハーバード大学の博士号を取得している。また、1997年から2001年まで、一橋大学大学院社会学研究科の教授をつとめ、2001年には、本書でピュリッツアー賞を受賞している。以下、ここでは、監修者としての立場から、本書の意義や歴史書としての位置づけについて、簡単に整理してみることにしたい。
 本書の第一の特徴は、昭和天皇が、能動的君主として、しだいに国策の決定や重要な軍事的決定に深く関与するようになっていった事実を、豊富な史料に基づいて具体的に解明していることである。その際、分析の手法としては、次の二点が重要だろう。一つには、ビックスが、昭和天皇の言動を記録した諸史料の分析を通じて、天皇の思想と行動の特質を明らかにしようとしているだけでなく、天皇に影響を及ぼすことのできる立場にいた人々の思想からも、天皇の思想と行動の特質を読み解こうとしていることである。具体的にいえば、侍従長、内大臣、「御学問所」で教師の役をつとめた軍人や学者、「御進講」を担当した官僚や学者などである。こうした直接・間接の二つのアプローチを併用することによって、昭和天皇の行動の特徴、その背後にある彼の思想や思考様式、さらには性癖に至るまでを、実に生き生きとえがき出すことに、本書は成功しているといえよう。
 もう一つは、ビックスが、昭和天皇のある意味では矛盾にみちた意識のありようを、特定の理論的枠組みによって裁断してしまうことを、慎重に回避しょうとしていることである。この点に関しては、従来の日本側の研究には、私自身のそれも含めて、昭和天皇の意識や行動の一貫性を強調しすぎる嫌いがあったように思う。戦後の日本社会において、昭和天皇の歴史的評価について何らかの形で発言しょうとする人は、戦争責任の有無という問題を避けて通ることはできず、昭和天皇に対するその人の態度がどうであれ、ある意味では、戦争責任という枠組みの下でしか、昭和天皇を論じることができなかったからである。
 外国人研究者であるビックスは、こうした枠組みから相対的には自由であり、そのことによって、時には状況に流されながら、不安にかられて妥協をくり返し、時には、「大元帥」としての自負に支えられながら軍部に対してさえ主体的なリーダーシップを発揮し、その結果、戦争への道に傾斜していった昭和天皇の等身大の実像を過不足なく、えがき出すことができたのだと思う。
 本書の第二の特徴は、日米両国政府の政治的思惑が交錯する中で、昭和天皇の戦争責任が封印されてゆく過程を、日米両国の彪大な史料に基づきながら、具体的に解明した点にある。アジア・太平洋戦争の終結直後から、昭和天皇の免責に関しては、日米両国政府は共通の政治的利害を有していたのであり、その結果、東京裁判にみられるように、両者は水面下では連携しながら、天皇の戦争責任の免責に大きな力を注いだのである。
 最近、ビックスは、天皇の戦争責任を追及する際の基本概念として、「アカウンタビリティ」を意識して使用しているようだが(本書上巻307ページの「著者ノート」参照)、当然の事ながら、この概念は、アメリカの国家指導者にも適用可能である。事実、本書でも、ビックスの批判は、昭和天皇の免責に加担したアメリカの国家指導者にも向けられている。その意味では、本書は、日本的システムの欠陥や、日本の国家指導者の政治的資質だけを外在的に批判あるいは非難する、いわゆる「日本たたき」の論者の著作とは、明らかに異なっている。

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                    三
 それでは、このような、すぐれた昭和天皇論が、アメリカで生まれたことの背景をどのように考えたらいいのだろうか。まず指摘することができるのは、「昭和」から「平成」への改元前後の時期から、天皇の生々しい言動を記録した側近や政府高官の日記などの新史料が次々に公刊され、さらに、そうした新史料に基づく研究が、日本側で大きな進展をみせたことである。本書の注をみれば明らかなように、ビックスは、実に丹念に日本側の史料や研究に眼を通しており、こうした日本側の先行研究がなければ、本書の完成には、さらに長い年月を要したことだろう。また、ビックスは、昭和天皇の戦争責任を否定する立場の研究も丁寧に読みこんでいて、この点での彼の貪欲さには、率直に言って、脱帽の他はない。
 見逃すことができないのは、この間における昭和天皇研究の進展が、日本社会の静かな変化を反映していることである。右に述べた昭和天皇関係史料を中心にした「昭和史ブーム」については、そうした新史料の発掘を精力的に行つてきた『中央公論』の青柳正美編集長が、その背景について、「昭和天皇が亡くなったことに加え、史料の継承者が当人の子どもから孫の世代に替わり、遠慮感が薄れてきた」と説明している。さらに、青柳によれば、「史料に価値判断を加えず発表するイデオロギー・フリーな雰囲気になってきている。〔中略〕読者の方も昭和天皇が亡くなって、単なる懐古趣味ではなく、昭和を歴史としてみる視点が強くなってきている」という(『朝日新聞』1990年11月18日付)。
 また、この点では、「天皇制の社会的実体を、右翼的、左翼的なプリズムを通すことなく」解明しょうとした加藤雅信『天皇』(大蔵省印刷局、1994年)が参考になる。加藤は、この本の中で、若年層の中に皇室に対して親しみや関心をもっていない者が多数存在することに着目して、次のように書いているのである。

 戦前においては、熱烈な天皇制支持と部分的ではあれ熱烈な反天皇感情が渦巻いていたわけであるが、戦後はそれほど関心を払うわけではない微温的天皇制支持とそれに対応する部分的な微温的天皇制反対が並存している傾向がだんだん強くなりつつあるように思われる。したがって、世論調査の数値の上での支持率の数は変わらなくとも、天皇制の支持基盤が風化し、天皇制が社会制度としてより脆弱なものに変化しっつあるといえるであろう。

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 こうした変化の中で、日本の研究者も、従来よりはずっと自由に、昭和天皇の戦争責任について研究したり、議論できるようになった、ということなのだろう。
 もう一つの重要な背景は、アメリカにおける日本史研究の大きな進展である。中村政則「現代歴史学の課題」(『年報 日本現代史』第8号、2002年)によれば、アメリカにおける日本史研究は、四つの世代に分けられる。第一世代は、エドウィン・ライシャワーなど宣教師の子弟や外交官で、日本史研究のパイオニアとなった人々である。第二世代は、第二次世界大戦中に軍の学校で日本語の訓練を受け、占領期に来日した人々である。そして、第三世代は、ビックスやジョン・ダワーなどのベトナム反戦世代であり、彼らの教え子たちが、第四世代となる。現在、アメリカの日本史研究の中心となっているのは、この第三世代であり、彼らは、戦後のアメリカ社会の中で支配的だった伝統的な日本像に対する意識的な挑戦者という意味では、「再解釈学派」(リヴィジョニスト)ともよぶべき潮流に属している。
 ビックスの場合でも、ステレオタイプ化された日本像を拒否して、天皇制に対して批判的な、あるいは非同調的な日本人の言説をきめ細かく紹介しているし、すでに述べたように、彼にとっては、天皇の戦争責任問題の解明という研究課題は、その免責に加担したアメリカ政府の対日政策の批判的再検討という課題と常に一体のものとなっているのである。
 この点は、邦訳『敗北を抱きしめて(上)・(下)』(岩波書店、2001年)などで、日本でもよく知られているジョン・ダワーの場合も全く同様である。ダワーの姿勢は、「戦争責任問題に取り組むことがこれほどおくれたことについては、当然のことながら日本人自身に第一の責任がある。とはいえ、中国との国交回復がおくれとことと、天皇裕仁が玉座にいつづけたことに結びつくタブーには、戦後日本において言論と行動を形づくる上でアメリカがはたした、微妙で逆説的な役割があったのである。アメリカは、日本のことを『歴史健忘症』だといいたがるが、その『歴史健忘症』は数十年間、日本とアジアにおけるアメリカ政府の目的と合致していたのであ」る、という一節の中に端的に表現されている(「三つの歴史叙述」トム・エンゲルハートほか『戦争と正義』朝日新聞社、1998年)。
 ビックスやダワーの著作が、日本で感情的な反発をほとんび呼び起こさず、むしろ好意的に受けとめられているのは、こうした複眼的な視角に支えられたバランスのとれた歴史叙述が大きな魅力となっているからだろう。

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                四
 もちろん、本書に対しては、日本人の日本史研究者からも、様々な異論がありうるだろう。私自身も、特に満州事変から日中戦争に至る時期のえがき方に関しては、紙幅の関係があるにせよ、やや平板にすぎるという印象を持つ。この時期は、英米との協調から、軍事力によるベルサイユ・ワシントン体制の打破という方向への路線転換に伴って、国内の諸政治勢力間で激しい対立が生じ、政局が揺れ動いたことで知られている。昭和天皇の場合でも、とりわけ、この時期は、遅疑と逡巡、不安と動揺の渦中にいたはずだが、その点の本書の分析は必ずしも充分なものではない。
 また、升味準之輔『昭和天皇とその時代』(山川出版社、1998年)の問題提起も忘れることができない。升味は、昭和天皇が、実際にも「政策決定過程の中枢」にいて、「政府を動かすことができ」るだけの「絶大な権威と権力を保持していた」ことを認めた上で、次のように論じている。

 だが天皇は、平和主義者だったわけではない。絶対平和は、思想家や宗教家の信条である。帝国主義指導者は、平和を願うとしても、国益の増大と防衛のために、権謀術数を忘れることはない。天皇がその例外であるはずはない。帝国主義指導者の行為基準は、理念的な戦争か平和かではない。この戦争に勝てるか否かである。
 日本は、戦争の放棄を規定したパリ不戦条約や中国の主権の尊重を規定した九ヵ国条約の締結国である。その国の元首が、ビックスが強調しているように、これらの条約を「行為基準」としていないのは、確かに大きな問題である。かし、升味の問題提起を積極的に受けとめるならば、昭和天皇のこうした思考様式が、当時の「帝国主義指導者」の中でどこまで普遍的なものであったのか、あるいは、どこまでが昭和天皇に固有のものであったのか、という問題が検討されなければならないだろう。いわば、「帝国主義指導者」の国際比較ということになるが、この点の解明も今後の大きな課題として残されていることを指摘しておきたい。
 最後に、本書の翻訳について、簡単に述べておきたい。監修者として一番悩んだのは、翻訳を英語の専門家にまかせるか、それとも日本史の専門家にまかせるかという問題だった。専門の語学能力という点を重視するならば、当然、前者ということになるが、本書のような著作の場合、とくに皇室についての深い知識がなければ、ビックスが日本語から英語に置きかえた概念や用語を、もう一度日本語にもどすのは、非常にむずかしいからである。結局、本書では、日本史の専門家に翻訳を依頼し、監修者と編集者とが、英語の専門家の手も借りながら、翻訳草稿の内容を細かくチェックする方式をとった。また、ビックスが典拠としている日本語史料や日本語文献については、正確を期するため、すべてコピーをとって翻訳者に手渡し、文意が取りづらい箇所については、翻訳者が直接ビックスと連結をとって協議することにした。そのため、翻訳者には過重な負担を強いることになったが、結果的には、この方式をとったのは、正解だったと思われる。あらためて、翻訳者の岡部牧夫、川島高峰、永井均の三氏に感謝したい。
 また、編集者の田畑則重氏の仕事ぶりも忘れることができない。田畑氏には、編集面で精力的に私たちを支えていただいただけでなく、著者・監修者・翻訳者という個性のかなり強い五人の研究者の間に立って、チームワークの要(かなめ)の役割を果たしていただいた。彼の存在がなければ、私たちの船は、恐らく山に登ることになっただろう。記して感謝の意を表したい。
  2002年10月
                                 吉田 裕

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5. 書 評-1
昭和天皇(上・下) ハーバート・ビックス著
政治的役割を客観分析

 本書は、昭和天皇の波乱に満ちた生涯を米国の学者が描いた本格的評伝である。天皇の性格形成の過程や政治指導における心理と思想信条の分析を背景に、これまで隠されてきたその能動的政治活動の実態に迫った力作である。
 昭和天皇は、開戦については、立憲的原則に忠実たらんとしたために、軍部の独走に歯止めをかけることができなかったものの、終戦においては例外的に指導力を発揮しえた「平和主義者」であったというのが、歴史家の間での通説であった。大方の国民もその解釈を受け入れてきている。ところが本書は、この通説に真向から批判を加える。すなわち、天皇は、勝利の見込みが少ないとの判断から英米との戦争には慎重であったが、中国への植民地的侵略には積極的帝国主義看であったし、敗戦の早期受け入れについても、必ずしも熱心ではなかったと主張する。
 そしてその事実を、詳細な第一次史料と日本人研究者による研究蓄積とをもとに立証しようとしている。評者の見るところ、本書のこの狙いはかなりの程度成功裡に達成されている。しかし、監修者の吉田裕も示唆しているように、同時期のチャーチルやドゴールなどと較べて、天皇がより反動的な帝国主義者であったかどうかには、改めて検討の余地がある。
 元来寡黙な人であり、皇室という秘密のベールに包まれてきただけに、天皇の心理や思想についての本書の判断は、多くが状況証拠に依存しており、説得力が弱い。しかし、その政治指導のあり方についての分析と関連づけることで、論理的一貫性を与えている。
 ところで、これまで、昭和天皇が重大な戦争責任をもつことを指摘した研究は少なくない。しかし多くが、天皇批判に性急なあまり、実証的、客観的裏付けが弱く、学界では無視される傾向にあった。本書は、その弱点を克服する客観性の高い分析とバランスのとれた叙述とを備えていると評価できる。
 しかも、構成と訳文の良さで全体として読み易く、一般の読者にとっても、日本現代史上の最重要問題の一つを考える上で必読文献となろう。
  京都大学教授 大嶽 秀夫

(吉田裕監修、講談社・各2,300円)
▼著者は38年生まれ。ニューヨーク州立大ビンガムトン校教授。元一橋大教授。本書で昨年、ピユリッツアー賞。
(出典 日経 2002.12.8)

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6. 書 評-2
昭和天皇 上・下
 Hirohito and the making of modern Japan
 ハーバート・ビックス [著]        [評者]外岡秀俊(本社ヨーロッパ総局長)
失敗の時代を振り返る史料として

 年改まり、昭和がまた一歩遠ざかった。
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」
中村草田男の句作は明治から約20年後という。今や昭和の残像もセピア色に褪(あ)せ、「歴史」になりつつある。そんな時節、昭和を鮮やかに切り取る大著が届いた。本書は、昭和天皇の戦争責任を前面に掲げた点で異彩を放ち、多くの議論を呼ぶだろう。
 歴史論争の主題は二つある。天皇の聖断で戦争は終わった。ではなぜ日中戦争の拡大を防ぎ、太平洋戦争の開戦を阻止できなかったのか。戦後の天皇の回想『昭和天皇独白録』は、立憲君主制では天皇が不賛成でも、国務と統帥が一致して上奏した場合には裁可するしかなかったという。第二は、天皇の名のもとに行われた戦争で、なぜ天皇が責任を問われなかったのかという点だ。『独白録』に従えば、戦争を防ごうとした天皇の責任を問うこと自体、論外となる。
 だが『独白録』が、東京裁判での天皇不訴追を確かなものにするため、側近と占領軍の連携で編んだ弁明書である可能性が強まり、論点は絞られた。昭和天皇は軍部に抵抗し、最後の決断で平和をもたらしたのか。あるいはその像は、英米派の重臣や側近が占領軍と織り上げた虚構だったのか。
 後者の視点から、能動的に戦争を主導した天皇像を描いたのが本書の特徴だ。幼少時の教育にあたった学者や重臣、側近らの回想や膨大な文書を突き合わせ、ひた押しに歴史に迫る力業は見事というはかない。
 にもかかわらず読後、疑問は片づかなかった。著者は、至高の権力者である天皇に軍部を抑える責任があったという。「不作為」や「放任」も戦争責任にあたるとの考えだ。そのため日中戦争拡大を防ごうとする姿勢すら優柔不断の象徴となる。歴史のふくらみを鋭利な倫理で裁ちきり、水晶のような論理の一貫性を保った分だけ、実像は歪(ゆが)めらた感がある。また『独白録』の政治性を批判的に検証しながら、同じ史料を「内省なき天皇」像の論拠として援用するのは、歴史家として公正とはいえまい。
 本書は、日本が無謀な戦争に突き進む過程で、見逃されがちだった皇室や海軍の役割に光をあてた。半面、陸軍の独走やマスコミの翼賛、政党政治の自壊など、当然語られるべき時代の主調音は、聞き取りにくい。本書は、先行研究と共に読まれて初めて、その正当な位置を占めるだろう。
 私たちは「第二の敗戦」を目撃している。昭和の失敗の本質が何であったのか、今こそ振り返るべきだろう。本書を昭和天皇の評伝ではなく、「昭和」の評伝としてお薦めしたい。
(出典 朝日 2003.1.5)

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7. 著者紹介
ハ-バート・ビックス−Herbert P. Bix
 1938年、米国マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学にて歴史学および東洋言語学の博士号取得。  30年にわたり日本近現代史に関する著述活動の一方、日米の大学で日本史を講じてきた。
 2001年まで一橋大学大学院教授をつとめた後、現在はニューヨーク州立大学ビンガムトン校教授。

8. 監修者紹介
吉田裕−よしだ・ゆたか
 1954年、埼玉県生まれ。一橋大学教授、専攻は日本近現代史。著書に『天皇の軍隊と南京事件』『現代歴史学と戦争責任』『日本人の戦争観』『昭和天皇の終戦史』などがある。

9. 読後感

1. 従来、日本ではタブーとされていた、昭和天皇の戦争責任について、正面から取り組んでいる。
2. 皇太子時代の教育から摂政の時代を経て、満州事変、支那事変、太平洋(大東亜)戦争に至る天皇の政治との関わりを順を追って、沢山の資料に基ずいて延べている。
3. 特に戦後のマッカーサー司令部と関連して、天皇の戦争責任に対する弁明工作は圧巻である。
4. 玉音放送により、戦争の終結を知った我々の世代には、重くのしかかるテーマである。
  (2003.5 鈴木靖三)

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[Last updated 5/23/2003]