米欧関係の行方

画一化路線と対話型
深まる心理的な亀裂

入江 昭 ハーバード大教授

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 パリ大学でアメリカ史を教えるジャック・ポルト教授は、最近「ヨーロッパ連合があまり大きくなりすぎると、米国のようになってしまうのではないか」と心配していたが、今日の複雑な米欧関係を的確に表現していたように思われる。
 つい最近までは、米国は主としてヨーロッパの多数の国からの移民がつくり上げた国として、いくつもの小国に分割されたヨーロッパと比べて、えてしてうらやましがられる存在だった。約100年前、フランスのジャーナリスト、ウルバン・ゴイエは、ヨーロッパ諸国も米国に見習って一つにまとまるべきであり、20世紀が終わるころには、必ずやそれが実現するであろう、と希望的な観測をしていた。やはりフランスのギュスタヴ・エルヴェも、同じころ、やがてはヨーロッパとアメリカが一つとなって「米欧合衆国」が生まれるかもしれない、と記していた。
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 米国にならって一つの連合体となってはじめて、ヨーロッパに平和と繁栄が訪れるであろう、という信念は、その後ヨーロッパ共同体をへて、今や15カ国からなる欧州連合(EU)へと発展してきた。近い将来にはさらに10カ国が参加する予定であり、まさにゴイエやエルヴェが願望したような「ヨーロッパ合衆国」ができあがりつつある。
 しかし、そのヨーロッパで、米国との対比や相違を強調する人たちが増えているように見えるのは、皮肉な現象である。極端にいえば、かりにヨーロッパの大規模な共同体化が実現しても、アメリカのようにはなりたくない、という気持ちがある。その違和感の直接の原因が、ブッシュ政権の外交政策への反発であるにしても、それだけではなさそうである。しはらく前から、ヨーロッパ内部の統合が進めば進むはど、米国との格差が認識される、という逆説が成り立ってきたのである。
 もともとヨーロッパということばが一般化したのは、15世紀なかば、ビザンチン帝国がオスマン帝国の進出によって崩壊したころからで、オスマン帝国の支配する東の勢力に対する、自己防衛的なアイデンティティーの表示でもあった。十字軍時代のような、イスラム対キリスト教といった、宗教上の対立にもとづくものというよりは、地理的歴史的な存在としてのヨーロッパという概念が根底にあったのである。たまたまこの世紀の終わりに、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の発見ということもあって、ヨーロッパという言葉は新大陸に対する旧大陸という意味合いももつようになるが、大部分のヨーロッパ人にとって、アメリカはヨーロッパの延長線上にあり、異質な存在だとは見なされていなかった。
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 その後西洋文明の担い手としてのヨーロッパとアメリカの自己意識は、帝国主義や世界戦争、冷戦などを通じて一層強固なものとなる。20世紀後半には、大西洋文明とか大西洋時代とかいうことがいわれるようになった。歴史学者のあいだでも、アメリカ史とヨーロッパ史とを別個なものと見ず、大西洋史という枠組みの中でとらえるべきだ、という動きが強くなってくる。
 ところが、現在ではヨーロッパとアメリカは逆の方向に漂流するような傾向を見せ始めている。その乖離(かいり)感は、ただ米国の単独主義的外交方針にヨーロッパがついていけないとか、唯一の超大国米国の力を恐れているとかいうことだけではない。両者のあいだには別個の歴史や伝統があるのだ、という意識にもとづいているようである。
 興味深いことに、アメリカではここ二、三十年ほど、多文化主義とか多様性とかが強調され、ヨーロッパのみならずアフリカ、アジア、中東、中南米などにルーツを持つアメリカ人の多いことが意識されてきた。ヨーロッパにおいても、ギリシャ、ローマ時代から始まって、イスラム教やアラブ民族、トルコ民族などが形成してきた多様な文明が存在してきた、という実感がある。その意味では、アメリカとヨーロッパのあいだには共通点があるように思えるが、それにもかかわらず両者のあいだの違和感が高まっているように見えるのは、どうしてだろうか。
 この夏、イタリア南部からシチリア島、さらにアドリア海沿岸のアルバニア、モンテネグロ、クロアチアなどを訪れてみて、その事情の一端がつかめるような気がした。この地域に象徴されるように、ヨーロッパ全般が、古代ギリシャ時代からの長い歴史を共有している。同時に、この歴史は多くの文明が出会い、抗争し、あるいは共存してきた歴史でもある。実に長い時間をかけて、ようやく今、EUによって象徴されるような一つの地理的共同体ができあがりつつある。この共同体を支える原理は、文明の多様性であり、異文化間の対話である。トルコがEU加入を認められるようになれば、このような意識は一層強くなることであろう。
 つまり現在のヨーロッパを形成しているのは、多文明の出会いと対話という原理である。この原理が、軍事力や経済力を盾にして世界の画一化を図っている、あるいは対話よりは自己の信条や宗教への改宗を目指しているかのような印象を与える米国とのあいだの、心理的距離をつくり出しているのではなかろうか。
 現代のアメリカが、テロリズムとの戦いにすべてのエネルギーを傾けているように見られるのに対し、ヨーロッパが歴史的遺産を守りつつ、一つの大きな共同体をつくりあげていくようになれば、両者間の亀裂が長続きすることは避けられそうにない。しかしそれは国際社会全体にとってまことに不幸なことである。世界がいくつかのブロックに分割されてしまう可能性を秘めているからである。そのようなことにならないためにも、ヨーローッパとアメリカとのあいだに、新しい対話が始められなければならないであろう。
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 日本と米国との乖離ということも、かなり前からいわれてきたが、米欧関係の深刻な事態に比べると「たわいもないもの」である。少なくとも日本の場合、貿易とか安全保障とかの次元で、米国との関係が語られることが多いが、その次元で形成される関係は、もともと皮相的なものである。日本が真に国際社会に対して貢献をするというのであれば、文化や文明の面で、いかにして諸外国との対話を促進していけるのかを、考えていかなければならない。
(出典 朝日 2003.9.1 夕刊 思潮21)

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[Last updated 9/30/2003]