利尻・礼文島

  目 次

1. 旅行の経緯
2. 感 想
3. 長姉の旅行記

礼文島に向かうフェリーから撮った
秀峰利尻富士です。こんなに三日
間も見えることは少ないそうです。

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1. 旅行の経緯
 二人の姉に誘われたので夫婦で参加しました。近畿日本ツーリストのパック・ツアーです。
[スケジュールとコース](無記名箇所はバス)
 第1日 羽田空港 (全日空)→ 稚内空港 →バス 稚内 稚内公園(氷雪の門、九人の乙女の碑) →  浜知勇園(コウホネ沼[コウホネは睡蓮の仲間]) ノシャップ岬 稚内港(北防波堤ドーム) →フェリー 利尻島(鴛泊港−秀峰利尻富士) → 沓形岬公園(泊ホテル利尻[町営])
 第2日 利尻島内観光(姫沼、オタトマリ沼など) →フェリー 礼文島(香深港)島内観光(スカイ岬、スコトン岬、桃岩展望台など) →フェリー 稚内港 → 猿払[さるふつ]温泉(泊)
 第3日 猿払温泉 → 宗谷岬[日本最北端、間宮林蔵の立像] → 宗谷丘陵(旧海軍望楼、牧畜[黒牛]) → 稚内空港 (全日空)→ 羽田空港

2. 感 想
 天気に恵まれ、素晴らしい三日間でした。日向は暑いけれど、朝夕はセーターを着ても寒いほどでした。
 利尻富士が3日間見えました。但し最終日には台風6号が本土を襲い、半日遅れたら東京に帰れないところでした。
 ホテルと食事は一日目[ホテル利尻; 町営]はよく(かになど)、二日目(猿払[さるふつ]温泉[ほたて貝が主])は今一でした。
 新鮮なウニや、おいしい昆布を沢山食べられました。
 本土では珍しい花が随所に見られました。緯度が低いので、本土なら高山植物に類する花々が見られるのだと思います。
 北海道と二つの島を結ぶ、フェリーでの船旅も面白い経験でした。餌に群がるうみねこ[鴎に似ている]や一等・二等の区別などで、甲板に出れば殆ど一・二等の差はありませんでした。

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3. 長姉の旅行記 [北海道(利尻−礼文−稚内)の想い出]
 77才(喜寿)をどうやら元気で迎えられそうな夏のはじめ、ここにしか咲かないという花々を一度見たいと思っていた場所。北海道の゛利尻・礼文″の旅を淑子[次姉]に話してみた。賛成してくれたので、それからいろいろ調べて二泊三日で年寄りでも行けそうなツアーをさがした。花の具合(レブンウスユキソウ等)は6月の末頃がよさそうだったが淑子のコーラスの都合で6月中は無理。で7月のはじめに予定をたてた。靖三に話したら、僕たちも一緒にと云うことで(悌二[兄]は仕事があるので駄目とのこと)7月8日出発、(2泊3日)四人で行くことになった。二人より心強くなり楽しさが倍増した。東京は暑い毎日だったが、北海道でも北の端になるので16〜7度位との事、何を持っていったらいいのか迷った。暑くても困るし、と出掛ける日は夏用の、次の日は厚手のパンツ(ズボン)にした。長袖のブラウス・カーディガン、それから成人[なりと; 筆者の次女の長男]から大樹[ひろき: 筆者の長女の長男]がもらい、もう小さくなったと云うその上着(風よけのためフード付きのものを、ということで、そのおさがりの上着、私には丁度サイズがよかったんです)まで持って行くことにした。靴はすべらぬ運動靴(スニーカー)等との事、私は軽い皮の、厚手の靴下(ひざ下やソックス)を重ねても甲のマジックベルトで融通のきく普段、履き馴れている靴にした。

7月8日
 羽田まで便利になり、中延[都営地下鉄浅草線]乗換えで空港まで行かれる[泉岳寺で京浜急行に乗換え]。
 9時15分発、羽田から一路稚内[わっかない]へ。ありがたいことに快晴に恵まれ離陸した。機の右側の窓から真っ青な富士山が見え幸先よし。
 稚内に近付くと右窓の雲海の中に利尻富士の姿が見えた。来たんだ−と嬉しかった。11時20分、羽田から1時間40分で稚内空港に到着。他に機影もなく、空港っぽくない静かな所。一面敷きつめたように咲いた黄色い「タンポポモドキ」が迎えてくれた。このまっ黄色の花は他国から入ってきて増えたという。タンポポに花はそっくりだが、背が高く、茎、花のつき方、形も違う。で「タンポポモドキ」という名をいただいたらしい。でも広い場所に黄色一色、きれいだった。

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 空港からは添乗員の伊東さんに導かれてバスに乗る。外はさすがに涼しい。東京から着てきた半袖のTシャツの上に長袖のブラウスを二枚、重ねて着て丁度いい位。昼近かったので先ずは食事を、それから見物ということで、バスガイドさんの話をききながら「稚内北波止場ドーム」近くのシーフードセンターの二階レストラン?で「ウニ、一折付き」の昼食をとる。「ウニは苦手で…」と云っていた淑子も、さすが本場の採れたての「生ウニ」(この時期しか生ウニは食べられないとのこと)は甘くて美味しく、そのままでも、柳川のように小さな鍋に入れ、とき卵でとじても中々いけるおいしさに、一口食べてみて意外や意外、オイシイ、オイシイと全部食べてしまった程だ。ここ一ヶ月位しか味わえないというここでとれた生ウニ、地方へ出すには「生ウニ」と云っても、みょうばん等を使って鮮度を保たせるために味が変わってしまうとのこと、一番いい時にきてよかったナーと食いしん坊はホクホクした。ここのウニと翌日行く礼文で採れるウニの味は又違って一層美味しいので是非味わってみて、とのこと、翌日の昼食は「カニめし」だが千円追加して今日中に予約しておくと、その注文分だけ採ってくるのだそうだ。さぞかし美味しかろうと注文。淑子と半分づつ食べることにした。明日の楽しみが増えた(又、肥るぞ ! ) 。お腹一杯になって乗客一同、満足そうな笑顔でバスに乗り込み、浜勇知[はまゆうち]展望所へ向かう。
 そこはいろ鮮やかな「ハマナス」が目をひいた。「月見草」「ナデシコ」等々、名前の判らない色とりどりの原生植物が咲いている。沼もあり、そこには一面、睡蓮のように「ネムロコウホネ」が小さな丸っこい黄色の花を葉の間から突き出して咲いている。コウホネ沼の向こうに「こうほねの家」があり、参考資料・おみやげ・アイスも売っていた。その屋上からの展望は、前が海で美しい眺めだった。そこから海のほうへ、だらだらとくだり海岸へ出た。ここは日本海の海だ。海は静かで砂浜がずっと続いている。波打ち際をちょっと歩いた。貝殻は落ちていない。きれいな石を一つ拾った。次、ノシャップ岬へ行く(根室半島の納沙布岬=ノサップ=とは違い、ここはノシャップという)。日本海と宗谷海峡の間に突き出た岬のため風が強い。海を隔てて遠い雲の上に利尻富士が見える。ここは恵山泊漁港公園と云うらしい。イルカが跳ねている像の時計台が可愛い。右に目を移すと、岬の先端に赤・白に塗られた灯台が建っている。高さは北海道で一番(427m)、全国では二番とか。映画の「喜びも悲しみも幾年月(灯台守の夫婦愛の物語)」に使われた灯台なので有名になったそうだ。ご苦労様でした。

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 稚内公園に行く。「氷雪の門」を見る。高い二本の石柱の間に女性のブロンズ像が立っている。膝をちょっと曲げた女性の顔は空を仰いでいる様に上を向いているが、泣いているのか、涙も出ない程の辛い悲しい顔をしているのか下の方からしか見られない私たちには全然見えない。戦後多くの日本人が樺太(現サハリン)から内地に、なくなく引き揚げ、それらの人々の望郷の念と、樺太で亡くなった多くの日本人の慰霊のために建てられたモニュメント、その二本の柱の間から見える海の向こうにサハリンの島影が見えることもあるという、そう云う所に建っている。近くに「九人の乙女の碑」もある。戦後、樺太で旧ソ連(現ロシア)の侵攻のため、内地に帰国することもできず最後まで郵便局での任務に当たり「皆さんこれが最後です、さようなら、さようなら」との電話の声を最後に残して自決した九人の若い女性交換手の慰霊碑。碑のまわりには花が美しく咲いていたが、もう終戦後のことなのに、どんなにくやしく、情けなかったことか。父母、兄弟に会いたかっただろう。国のためと、ここまで頑張った若い自分の命を自らの手で絶つ。そこまでもしなければならなかった愚かな戦争。でも私達には、どうすることもできず、ただ従うよりすべはなかった日々。私と同じ歳ぐらいだったのでは?と思うと一層、何とも辛い悲しい話だった。戦争の犠牲者の血をはく様な苦しさの最後の言葉が刻まれているその碑。娘時代に厭でも戦争の体験をさせられた私たちは、幸い無事に通り抜けて来られたが、いろいろ思い起こすと胸が痛くなる。「これも国のため」と信じ込まされ散って行った彼女らの無念さを考えただけでも辛い。戦争は一部の人が得をしたかも知れないが、余りにも犠牲が大きすぎる。絶対に反対と声を大にして叫ばなければならないと改めて思った。
 ここから尾山台[本人と長女一家が住んでいる]と戸塚[次女一家が住んでいる]に葉書を出す。最北の地から出したかったので。ツアーの旅は忙しい。葉書を買う暇もないので、もしやと思い東京から持って行ったはがきに、ゆっくり文も書けないので、近くの土産物屋の前に置いてあった「氷雪の門」のスタンプ(すりへっていてはっきり押せなかったが)を押し、一筆やっと書き加えただけで近くに止まっていた郵便局の車で切手を買い、その車に葉書を頼んだ。淑子達は「タロー・ジロー」達の碑を見に行ったらしいが、私は大樹達への葉書にとりくんでいた。文を書くひまもなく、スタンプをポン。切手を買い急いでバスに戻り宛名を書く。バスをおりて駆け足で郵便局の車に葉書を頼み、また駈け足でバスに飛び乗った。転ばないでよかった。その辺を歩いても見たかったが、大樹達の顔を思い浮かべ葉書のために駆け回ったひとときだった。足がガクガクしたが二度と出せない所から出せたのでよかった、と満足、でもつ・か・れ・た。

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 稚内港から利尻島の鴛泊(おたどまり)港に向かう。船(フェリー)が稚内港を離れ遠くに見える利尻島に向かって進む。風のあるデッキに出て灯台、テトラポット等がだんだん小さくなって行くのを見ていたら、あらあらどうしたのでしょうか、進んで行く船をめがけて「カモメ」が追って来るではないか。撒いた餌にハトが寄ってくるように、二羽、三羽、いや後から後からどんどん集まってくる。不思議?何?どうしたのかとびっくりした。ミュウミュウと猫のような声で鳴きながら集まってくるので、「ウミネコ」かな−とも思った。カモメの声もウミネコの声も知らないので判らなかった (後でこれはウミネコと判ったが) 。横を見ると乗客が一人、二人手を高くあげている。パンか何かを持っているらしく鳥たちはそれをめがけて集まって来るのだと判った。船尾のほうから船の速さに合わせて飛びながら乗客が投げる餌を上手に嘴で受け止めるカモメ達、うまくキャッチできず海面に落ちてしまうと、すばやく鳥も海に降りて食べる。一人、二人が四人、五人と増えて見ている人達も応援して大騒ぎ、自然をこわす行為で本当はよくないのだろうけど、青空の下で白い羽、きれいで可愛いい鳥達の乱舞に、急いでプリッツを買いに売店に走る人も出てきた。人々は上手にくわえる鳥に拍手をおくり、感嘆の声をあげる。皆、子供のように何もかも忘れて夢中になったひとときだった。
 あっ、利尻島が見えてきた。海面のすぐ上にはうっすらと雲。その上に利尻富士の姿が浮かんでいるように見える。じーっと見つめてしまう。美しい。稚内から利尻までは1時間40分、羽田から稚内までの飛行時間(1時間45分)と余り変わらない。二等船室で足を投げ出してらくに坐ったり、風のあるデッキに出て近づいて来る島を見たり、お菓子を食べたりしているうちに利尻島鴛泊(おたどまり)港に着いた。日本の最北端の島、島の中央に標高1,721mの利尻山が聳え立っている。
 港からすぐバスに乗り、ガイドさんの説明を聞きながらホテル利尻へ向かう。町の街灯が黄色い下向きの花びらの中に電球が付いている、きれいで珍しい。後で知ったが、この街灯は、この島特有の高山植物「リンリヒナゲシ」形をしているとのことだった。途中、役場・郵便局・病院もあったが、大きな建物はなく到着した「ホテル利尻」(町営で鉄筋6階建)が大きく見えた(旅行案内のパンフレットには他のホテルものっていたけど)。

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 4階の和室に荷物を置き、四人はホッと一息、淑子・靖三は階下の大浴場へ、和子さんと私は部屋の風呂で疲れを流した。夕食は階下の広間で二列に並んだ食卓で。ホタテ、ウニ、フノリ、ホッケ等、とれたての海の幸がいっぱい出た。ビール(ほんの少し)で乾杯。美味しいので皆も残さず食べた。ここは緯度が高いので夏は朝が早く、三時半頃には外が明るくなると聞いたので、どんなかと気にしていたせいか、丁度三時過ぎに目がさめた。皆を起こさぬ様に、そーっと窓のカーテンの端からもぐり込み外を見たら、もううっすら明るい。窓を細めに開けて見る。寒い。けれど清い感じの外気が顔に当たりいい気持ち。眠っている人達が寒くてはいけないと窓越しに外を眺めることにした。窓の外はホテルの建物(低い)が少しあり、その先は一面の海。広い海の色はまだ青黒いが、その先の水平線のすぐ上は青、その上はピンク、ピンクに上はうすい青色の空になっている。そのきれいな三色が見渡す限りの広い海の向こうで横縞を作ってどこまでものびている美しさ、皆を起こして見せたかったが、疲れて眠っているのに…とやめて、一人で静かに眺めていた。やっぱり早くから明るくなるんだなと思いつつ、刻々と色が変わって行く空を凝視していた。ピンクもブルーも次第に色が薄くなっていった。
 靖三君一人で濱のほうへ散歩に行ったと帰ってきた。昆布を沢山干していたとのこと、さすが利尻昆布の土地だと思った。ホテルの売店で「ここにしかない」という小さな角切りの、そのまま食べられる昆布「北の健生(げんき)くん」と「とろろ昆布」を買った。何と云っても地元の利尻昆布なので美味しい筈(帰京してから食べたら本当においしかった)。
 朝食後、早目に宿を出てバスに乗り込む。今日は沢山見る所があるので忙しい。先ず沓形岬(くつかたみさき)へ向かった。時雨音羽(しぐれおとわ)の作詞「出船(でふね)の港」の碑がある。この碑に近づくと、その歌の出だしの言葉の「ドント、ドントドント波のり越ーえーてーええ」の曲が流れ出す様になっている珍しい碑だった。昔有名だったその歌(私の若い頃、藤原義江[よしえ]という男性オペラ歌手が歌って有名になった)にちなんで、ここ沓形岬を「ドント岬」と呼ぶようになったとか。近くのみやげものやの前庭には高山植物がいろいろ植えられていた。もう時期が遅かったと云われた「リシリヒナゲシ」も咲いていた。背の低いクリーム色の小さい花だった。ここにしかないと云う街灯にもなった花はこれだった。丈は低いが、その細い茎でよく強風にも咲くなーとしみじみしゃがみこんで眺めた。小さくて可愛らしい「ケシ」の花だった。「レブンソウ」「リシリオウギ」「ヨツバシオガマ」「ハクサンチドリ」他、名前の分からない花も沢山咲いている。色とりどりできれい。時間があれば花・葉の形、色、生え方等、詳しく見たかった。ただ自然に生えたのではなかったのが残念だった。

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  道路には車の姿も見えず、ずんずん進める。で信号もない。何箇所かつけたそうだがいつも青信号。小学校の子供達の信号を知るためにつけたが、赤になることがなく、余り役にも立ってもいないらしい。そのくらい静かなのんびりしたところだった。島をまわる、と云っても周囲は68km、利尻山のまわりをまわる訳。畠もない、で野菜は作れない。家々の前にはアルメリア等の草花がちょっと植えてあるが、空気がきれいなせいかどれも色が鮮やかできれいだ。住民は昆布とホタテ等で生活している漁業の島だ。今は昆布が取れる時期なので昆布漁に忙しそう。有名な「利尻昆布」。本当に走っているバスの左側の海に面した家々(右側は利尻山なので)の間の地面には、昆布が所せましと干してある。並べられた昆布の上には風で飛ばされぬ様にネットがかけてある。今はウニ漁が出来る時期なので、それも大切な島の産業だ。
 ガイドさんが話してくれた、昔、ラナルド・マクドナルドさんと云う(ハンバーガーとは違う)アメリカ人が1848年利尻島に来て(どうして鎖国中の日本へ渡って来たのか分からないそう)日本人に英語を教え、後、アメリカへ帰り、死ぬ時に日本語で「サヨナラ」と別れの言葉を云ったという。その昔、この離島で日本のために尽くしてくれたアメリカ人をたたえる碑を車窓から見て感謝、冥福を祈った。
 オタドマリ沼へ。静かな、大きな、そして美しい沼。沼に沿って、やっと二人で歩ける位の細い道を歩く。「ナデシコ」「アザミ」「キスゲ」「アヤメ」等が咲いている。沼の中には「コウホネ」、名前が分からないが、まるで「トクサ」の様に真っ直ぐな細い棒のような茎?が並んで水中から何本も出ているものもあった(近づいて見ることが出来ないので、何と云うものか分からない)。一周してアヤメの咲いている所に並んで写真をとってもらった。それから利尻富士をバックに、ツアー一同記念写真をパチリ。あいにく山頂は霧にかくれていたが。次は姫沼へ。少し疲れ、まだまだ後があるので姫沼一周はやめて「甘露水」へ湧き水を汲みに行くことにした。大木の繁った道を通りだらだらと下って行くと土が湿ってきた。そこに「甘露泉水」と立て札が立っている。この辺は何となくひんやりしている。自然の冷たい水が出ていて汲みやすいようになっている。先ず飲んでみる。おいしさが体にしみ込んでいく。冷たい。いくらおいしくてもそうは飲めず、持っていたペットボトル一本に汲んだ。このおいしい水は、このあと礼文に行ってからもちょこちょこかわいた喉を潤してくれ、とても助かりありがたい水だった(ここで鳥のポストカードを買った)。

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 バスで沓形港へ戻り、これから礼文行きのフェリーへ乗る。乗船時間は約40分。船が港を出ると間もなく、又「ウミネコ」達が船に向かって集まってきた。今度はもう驚かない。バスガイドさんに『足の赤いのは「カモメ」黄色いのは「ウミネコ」です。』と教わり、この鳥達はウミネコだったのだとはじめて知った。又暫くの間ウミネコ達と遊ぶ。今度は又々面白いことがはじまった。それは「カラス」。カラスが船に三、四羽、手摺に止まっていたのは乗船時から知っていたが、まさか? ウミネコの餌取りにこのカラス達も加わったのだ。進んでいる船の速さに合わせて飛んでいるウミネコの群にまじって真っ黒なカラスも真似をして同じように飛ぶ。が、利口なカラスは乗客がウミネコに向かって投げた餌を口にくわえようとすると「どけーっ」と云うようにウミネコを押しのけて自分がパクリと上手に横取りしてしまう。「ずるいずるい」と私達は思わず叫ぶが、カラスは知らん顔でズルを決め込む。風を切って進む船。ウミネコ達はきれいに揃った羽をゆうゆうと拡げ、向かい風に逆らいながらも船に沿って飛んでいるが、カラスの黒い羽は作りが違うのだろう、強い風に当たるとバラバラと拡がってしまう。いくら頑張ってもウミネコ達にはかないそうもないのに必至に頑張って飛んでいる。都会ではゴミをちらかし困ったカラス達だが、真似する智恵に驚くやら、おかしいやら。そんな思いをしてどの位お腹が満たされるのか分からないのに、風に抵抗しながら一生懸命餌の横取りをくり返しているカラス君、お腹一杯になる前に疲れ果てるのではないか、それとも自分もウミネコだと思っているのかしら、などと考えてしまったひととき。船上は風がすごかった。
 礼文島の香深(かふか)港に着きバスで説明を聞きながら昼食の場所へ。ここの「生ウニ」の味は随一、との事(昨日予約しておいた)。「生ウニ」一折がつく。ワサビ醤油で食べたが、本当に甘く、とろける様なおいしさは、この上もなし。淑子の「カニ丼」と分けっこする。淑子も「おいしい、おいしい」と生ウニをよく食べた。採れたてのこの「生ウニ」なら"ウニはちょっとねー"と云っている人でもきっと、おいしいと舌鼓を打つに違いない。一年のうちで今だけしか口に出来ないと云う生ウニを毎日食べられるとは……。食いしん坊の私、これだけでも来た甲斐があったというもの、幸せ……。その時、小丼に薄味で煮た昆布が付いた。それがとても美味しかったので買いたいと思ったが、悪くなるので煮たのは売っていない。「これがその昆布ですよ」という干し昆布を買った。(帰ってから煮てみたが、やわらかくしすぎてこの時の味のようにはいかなかった。再度挑戦してみよう。)そこの近くに"ウニむき"をさせる所があると云うので、起登臼の「ウニむきセンター」へ寄る。大きな「アザラシ」の剥製が迎えてくれた。体は大きいが可愛いい。つい「いいこ、いいこ」と頭を撫でてしまった。靖三君、五百円払って「ウニむき」に挑戦。昼に食べたのは(昨日のも)「バフンウニ」だったが、ここで剥かしてくれるのは葉山の磯にもいる「ムラサキウニ」(トゲの長くて痛いあれ)だった。きれいに剥くのは中々むずかしいらしく形はくずれてしまったがおいしかった。

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 スコトン(須古頓)半島へ向かう。途中、海岸寄りに小さな発電所だという建物があったが、燃料は本土(稚内?)の方から船で運んで来るので、嵐などで海が荒れれば船が来ず、十五日分しか備蓄が無く、それ以上船が来ないと即、停電。一切電気のない生活になってしまうと聞き、あ・そうか、と離島の厳しさの一つを知った。車窓の右側は海。海。どこも美しい。島はせまいし、住民も五千人位。車は勿論、家はあっても歩いている人も見かけない。が、丁度お祭りの時期で子供達が手作りのお神輿を嬉しそうに担いでいる姿を見た。子供達といっても六、七人位。小学生も中学生も、校舎の大きさの割には人数が少なく、最近高校がやっと出来、バスガイドさんは、その高校の卒業生とのこと。それまでは高校になると島を出て、本土(稚内か)の方へ行かなくてはならず、いろいろ経済的にも大変だったそうだ。礼文の人も今はホタテの養殖が盛んで潤っているが、それ以前は大変だったらしい。魚や貝がだんだん採れなくなって、どうしようもなくなり漁師をやめた人も何人もいたという。残った人達は大きな借金をし本土から養殖用のホタテを仕入れて苦労の末、やっと養殖に成功し今に至ったという。今はホタテ天国で万々歳。一時は、生活が楽になったので息子達が遊びほうけて困ったこともあったが、今は落ち着いて仕事に励んでいるという。
 海上に海馬島が見えてきた。この辺の海には「ゴマアザラシ」が来るそうだ。トド島とも云うらしい。間もなくスコトン岬、バスを降りて登る。スコトン岬展望台まで、だいぶ、のぼり坂。見晴らしのよい所に出る。あおーい海の向こうに海馬島が横たわっている。風があって寒い。お土産屋が一軒、「この店だけでしか売っていないアザラシのぬいぐるみですよ」と店の人は大声で叫んで客を呼んでいたが、ほこりがつくぬいぐるみは買わない。大樹達には毛皮のキーホールダーを四ヶ(ゴマアザラシの赤ちゃん=真白い。とキタキツネの子供を二匹づつ)買った。淑子も大樹君にとゴマちゃんを買ってくれた。どれも可愛いかった。
 それから澄海岬(スカイミサキ)へ。途中の家々の玄関には、お祭り用のお飾りの花が立ててある。濃いピンク色の花形に切った紙が、細くさいた竹にはってあるらしい (バスの中から見たのでよくは分からないがこんなかんじ(右端の図参照) 。ところどころに、小さなお宮が建っていて、お祭りらしい飾りがしてある。この辺の家は冬の風雪に備えての事らしく、どの家の玄関もガラス戸をはいると、もう一つガラス戸がついている。吹雪を、そして体についた雪を家の中に持ち込まぬためなのだろう。それを見ても冬の生活は大変なんだなあ、と思った。私にはとても住めそうにない。

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 澄海岬もバスを降りてから展望台までは結構登り道だった。登り切ったところは又、眺めがすばらしく、目の前をカモメ(足が赤かった)がゆうゆうと舞っていた。バスで通ってきた道が小さく見える。こんなに登ったんだと驚いた。下の道の向こうに小さく神社が見える。やっぱりお祭りらしい色とりどりの幟らしきお飾りが見えた。静かに澄んだ海の深い青、山の緑、岩の茶色、そして空の青、お互いが引き立て役なのか、気持ちがすっきりする程美しい眺め。孫達が今の私の歳になってもこのままの美しさがあります様に、と祈りたくなるほどの美しさだった。展望台から下ってきたところに手作りの木彫りの店があった。時間がなくて店内を見ることもできなかったが、若い夫婦が手作りの作品を売っている。急いで小さなペンダントを三本買った。どれがいいか等と考える暇もなく、でもイニシャルを彫ってくれた。教子、克子、私(N,K,T)のおみやげにと思い。帰ってからよく見たら、教子のは「レブンウスユキソウ」と「クリオネ」、克子と私のは「レブンウスユキソウ」と「レブンアツモリソウ」が表・裏に彫ってあった。小さいけれどきれいに彫ってあり記念になると思う。
 バスで次の桃岩へ向かう。山の形が桃のような形をしているそうだ。バスを降り、左右の花を見ながら桃岩展望台へと登りはじめる。もう少し早いと「レブンウスユキソウ」が咲いていたらしいが、ちょっと残念。伊東さんが窪んだ陽かげに真白く咲いている何輪かがそれらしいと教えてくれたが、柵の奧で近寄れず、はっきり確かめることはできなかった。でも道の両側にはピンク、紫、白、黄、ダイダイ、濃いの、淡いのと珍しい花が色鮮やかに咲いていてきれい、きれい。都会と違って空気が澄んでいるせいか、どの花も色が濃く見えて一段と美しい。この道は急な登り道・段になっているところもあって仲々大変だ。立ち止まって花を見ていると他の人達に遅れてしまう。日差しは強くても長袖で暑くなく気持ちがいい。大分疲れてきたので展望台まで登るのはあきらめ、案内所のあるところで淑子と二人は残った。もう一組、ご夫婦の方も、そこから下りられた。その辺の花をカメラに収めた。名前は殆ど分からなかったけれども。乗ってきたバスがはるか下の道に見える。結構高い所まで登ったのだと驚いた。下りは早い。上の展望台まで登った人達は登りと違う道を下りて、もうバスの近くに集まっていた。途中までしか行かなかった私達二人のほうが下山が遅くなってしまった。

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 バスで再び香深(かふか)港へ戻り、フェリーで稚内へ向かう。稚内までは1時間55分、時間がかかるので船室で一休みする。二等船室(代金を足して一等に替えてもいいのだが、船室にばかりいる訳でもないのでそのままにした)は広い場所がいくつかに仕切られ、それぞれにカーペットが敷いてある。場所はどこでも空いているところへ坐っていい。寝ころんでいる人もいれば、食べている人、お喋りしている人いろいろだ。私達もしばらく壁に寄りかかって足を投げ出してくつろぐ。それからデッキに出てみた。ひどい風。ウミネコが来るかも?とポッキーを買って来たけれど期待は外れ、来てくれずがっかり。そして、とうとう礼文の島も見えなくなり、近くに見えていた利尻島も少しづつ小さくなり離れて行くのがわかる。沢山の幸(しあわ)せを与えてくれた島たち、ありがとう。もう再びここまでは来られないだろう、と思うと感無量。淋しい。別れがたい気持ちだった。…… 稚内の堤防の突端にある燈台が見えて来た。と反対に利尻富士が小さくかすんで見えるほどになってしまった。じっと見つめていたが、その姿もとうとう港のかげにかくれて見えなくなってしまった。さようなら礼文・利尻、すばらしい景色、美しい色とりどりの花達、子供に返ったような気持ちにさせてくれたウミネコ達、美味しかった海の幸の数々、ガイドさんの話もよく分かって楽しかったし、天気にも恵まれたおかげで自然の美しさが一段と堪能できたのかも知れない。利尻富士があんなにきれいに、はっきりと見えるのは珍しいことだとはなしてくれたが、よかった。
 18時15分稚内港に着いた。バスでホテル猿払(さるふつ)に直行する。稚内の町を抜け、夕暮れの海を横に見て、途中、家もまばらな淋しい道路を走る。車内の私達は疲れて静か、うとうとしているうちにホテルに到着、一同、ホッと嬉しそう。ここの近くには、他にホテルの様なものは何もない静かすぎる位の、そして暗い場所だった。時折、ホテルの前の道路を走り去る車のライトがいやに明るく感じる。そんな淋しい怖いような所だ。それに引きかえホテルの中は明るく賑やかだ。部屋は洋室だった。例によって淑子・靖三は大浴場へ、和子さんと私は部屋で。夕食はホタテづくし。さしみ、鍋(牛乳で煮る)、熱々のバター焼、魚はホッケ等々。淑子はとうとう「おさしみもういらない」と残してしまった。いくら採れたてで美味しくても飽きる程ホタテを出された夕食だった。食後売店で一つ二つ買い、不要になった荷物と一緒に宅急便に頼んだ。
翌十日、朝食後八時、バス出発、宗谷岬に向かう。「北防波堤ドーム」の前を通る。北の荒波と強風を防ぐために建てられた長さ427mの半アーチ型の波よけドーム。バイク等で来る若者達が、ここをいっときの寝ぐらに使ったりする時もあるとのこと。テントも置ける位広い1/4円形の建物だ。この辺も風が強いので風力発電用の風車がそこ、ここの丘の上に建っている。ゆっくりまわったり、止まっているのもあったが、近くで見たのは、はじめてで、大きなものだった。緑の小高い丘に白い風車が二つ三つと並んで立っているのは美しい。青空をバックにして絵になる美しさだ。「日本最北端の地の碑」のある北緯45度31分と云う最北端の地、宗谷岬に着く。岬の突端に造られた三角形の碑の下の円形台座の中央には「N」の字があり「北」を表している。碑の背後・左・右の三方は静かな海だった。が、冬はどんなに厳しいところに変わるのだろうか。この日は穏やかな夏の海だった。伊東さんに四人での写真をとってもらった。この辺は広い公園のようになっていて、「宗谷岬の音楽碑」や「世界平和の鐘」、「宮沢賢治の文学碑」、「子育て平和の鐘」、大きな折り鶴を形どった「祈りの塔」、そして間宮林蔵の立像が樺太(現サハリン)の方角を見つめて立っている。小高い所には旧海軍が使っていたというロシアとの国境防衛のために建てた望楼があった。コンクリートで造った小さな見張り場所。狭い階段を登って見た。ずーっと見渡す限りの海、実際に使っていた重要な場所だったのだろうか。冬、風雪のひどい時にはどんなに辛い役目だったことか、とその苦難を思うとそら怖ろしさを感じた。ここでも戦争の恐怖に今の幸せを思う。
 丘の下の売店に行き「最北端の地」へ行ったという証明書を買った。二百円。店の正面入口の上に、その時の時刻、9時、温度14゚C、北緯45度31分14秒を表示してあった。おみやげは時間がなくて、何も買うことができなかった。バスに乗る。その辺は一面緑の丘で黒い牛が放牧されている。親牛のそばには仔牛が寄り添っている。食用牛とのこと、この、のどかな様子に憐れを感じるが、生ある間は幸せにと念じる。放牧地を抜け稚内へ戻る。一日目に昼食をとったシーフードセンターへ寄り、各自おみやげを買う。私は、さも、おみやげっぽい「ウスユキソウ」の絵のハンカチと利尻・礼文の花・リスの絵柄のバンダナ。怪獣の卵(卵形の中にはいっている。一ヶしかなく残りものだったみたい)も買った。帰京後、大樹がこの卵を開けたら、ピンクのスポンジでつくった怪獣の赤ちゃんが出て来た。卵の中にギューッと押し込まれていたので、ひどい形だったが大樹君がお風呂で温めてあげたので、とがった口と、羽をのばし、風呂場の蛇口の上で今も坐っている。
 その店で作ったお弁当を受取り、ウニ瓶詰のおみやげももらった。稚内空港で出発までの僅かな時間に大急ぎで又、おみやげを買い足した。空港も狭く、売店も少ない。日もちのするものをとさがし、「タロー・ジローせんべい」(南極昭和基地に前年、置き去りにしてきた樺太犬達の悲劇。置き去りにされた犬達の中で、翌年、次の越冬隊員が基地に着いたら、去年別れた時は仔犬だった二頭だけが生き残っていて隊員達を迎えてくれたという日本の南極観測のための犠牲になった親犬達を乗り越えて、生きながらえてくれた樺太犬のタロー・ジローの名を使った瓦せんべい)を買った。この樺太犬達の記念碑と供養塔は稚内公園にある。十二時発の飛行機で出発。窓外に見えた利尻富士にサヨナラをして、お弁当を食べ、十二時五十分無事羽田に着いた。東京は真夏のさなか。それが中延で乗換のため外に出たら雨がザーザー降り。尾山台に着いた時には殆ど止んでいたので助かった。
 思い切って出掛けて本当によかった。天候に恵まれ、まあどうにか歩けたし、お腹の具合も良好、暑さも忘れ、いい空気を存分に吸った。そのせいか、出掛ける前までは、時々のどがかさついて咳が出、飴をなめずにはいられなかったのに、帰京後は咳が出なくなった(いつまで続くやら)。よく歩いた割には疲れも出ず、利尻・礼文へ行って元気をもらって帰ってきたみたい。ありがとう。自然って有難い。何よりの薬なんだ…としみじみ実感した二泊三日の北海道の旅。同行の淑子・靖三・和子さんに感謝、親切に案内してくれた添乗員の伊東さんにも遠くからお礼を云いたい。今後のご健闘を祈る。

 天気は快晴続き、気温は30度以下だったと思う。船上は勿論、バスから一歩外へ出ると強い風に吹かれ、真夏なのに寒いと思ったこともあった。できれば美しい花々をもっとゆっくり見て名前もおぼえたかった。「うぐいす」は鳴いていたが他の鳥の声は聴けなかった様に思う。赤いベレーをかぶったような「クマゲラ」もいるといっていたが余り見られないので道路の端に、杭を立てそこに、作った(木彫りかな?)「クマゲラ」を止まらせている(何本か立っているのを見たが)所があったが、どこだったか覚えていない(バスの窓から見ただけでどこを走っていた時だか想い出さず残念)。

 喜寿の思い出、 北海道、利尻・礼文の旅は 無事終了した。

 平成14年7月8日〜10日 思い出すままに。      倫 子

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[Last Updated 12/31/2003]