3 上山さんのCD



上山 高史さん(CDのジャケットより)

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  目 次

2 タイトルと曲名
 CDのタイトルと収録された唄の数々をご紹介します。
3 伴奏者等
 伴奏者等のご紹介です。
4 山下洋輔氏・上山高史対談
 「ライナーノートに代えて」とうたわれた、ピアノ奏者で作曲家の山下氏との対談で、上山氏の素晴らしい経歴がよく判ります。


2 タイトルと曲名

タイトル ALLEGIANCE
ヴォーカル TAKASHI KAMIYAMA

曲 名
 1 BLUE MOON 5:47
 2 MONA LISA 5:50
 3 LONDON BY NIGHT 4:36
 4 I CAN'T GIVE YOU ANYTHING BUT LOVE 4:39
 5 MOON SONG 6:38
 6 I'M GONNA SIT RIGHT DOWN AND WRITE MYSELF A LETTER 2:31
 7 P.S. I LOVE YOU (DUO WITH YOSUKE YAMASHITA) 5:46
 8 ANGEL EYES (DUO WITH YOSUKE YAMASHITA) 4:47
 9 A DAY IN A LIFE OF A FOOL (DUO WITH KAZUHIKO TSUMURA) 4:55
 10 THE GIRL I LOVE 5:36
 11 STARDUST 7:38
 12 I'VE GOT YOU UNDER MY SKIN 3:45

3 伴奏者等
 Accompanied by HIROSHI TAMUA TRIO
 Hiroshi Tamura - Piano
 Kazuhiko Tsumura - Guitar
 Koichi Yamazaki - Bass
 SPECIAL GUEST - YOSUKE YAMASHITA - PIANO
 Design : Fumio Shizu
 Photographs : Fumio Shizu
 Recording Engineer : Hiroyuki lkari
 Recording Studio : SOUND STUDIO- TWO-UP

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4 山下洋輔氏・上山高史対談

  1999年11月20日13時
  栗山一色・如雪庵一色

山下 ライナーノートの代わりに僕と上田さんで対談します。レコーディングの次の日です。では色々質問させて頂きます。
上山 よろしく。ところでここは葉山御用邸前にある日本一のお蕎麦屋さんでの対談です。
山下 上山さんは、レコーディングというのは生まれて初めてですか。
上山 いいえ。
山下 ということは?
上山 私が11才の時キングレコード専属の童謡歌手をしており、2年間で15枚の瓦版(78回転のSP盤)のレコードを作りました。その3分の1は運動会用の歌でした。ところが残念なことに殆どその瓦版は紛失してしまいました。今残っているのは「日の丸の歌」位ですか。私は7才から山田耕作先生の一番弟子でいらした乗松昭博先生にクラシックの声楽とピアノを教えて頂いていたんですよ。
山下 ええ? それは今まで聞いたことがなかったですね。そのキングレコードっていうのはソロで?
上山 そうです。
山下 じゃあ、11才でデビューした少年歌手だったわけですね。
上山 そうですね。9才の頃は音羽ゆりかご会に入っておりました。ご存知でしょう、当時のNHKラジオ番組「鐘の鳴る丘」。古閑祐而さんのハモンドオルガンの伴奏で主題歌のソロを歌っていたのは実は私なんです。
山下 わ、それはすごい!当時の日本人で知らない人はいないんじゃないですか。国民歌手ですよ。(笑い)
上山 いやいや、恐れ入ります。
山下 それじゃあ、レコーディングは子供のころから数えたら50年振りですか。
上山 ええ。そうなりますね。年がすぐわかりますね。(笑い)
山下 時代は下がって僕と知り合ったきっかけというのは、1962年グァム島への演奏旅行。
上山 そうですね.
山下 演奏旅行といっても米軍慰問ですよね。立川基地からチャーターのプロペラ飛行機に来って、グァム島のアンダーセン空軍基地に行ったんですよね。バンドが二つあって別の組だったんだけど、なぜか二人で気が合ったんですね。
上山 そうでしたね。どうして気があったんだか覚えていますか?要するに飛行機に乗って向こうに着くまで、貴方は私の歌のことは何もご存知なかった。
山下 ええ、聴いてませんもんね。
上山 それなのに何で意気投合したかというと、飛行機の中での会話ですよ。明治維新のこと。つまり、日本歴史、近代のあけぼのの頃をいろいろ話してた。そしたら貴方が「芸能界でもこういうこと知っている人がいるんだ」ってね。そこで仲良くなっちゃった。島に着いてリハーサルの時に歌わせて頂いたら、これは面白い唄歌いだっていうようなことを言って下さった。それからでしたよね。
山下 そうでしたね。その頃から「明治維新」なんて言っていたのか。それで後年僕の明治維新にも触れるご先祖探求本「ドラバダ門」に上山さんが登場するんだ(笑い)。あの時グァム島の食堂でフィリピン人達のボーイがいたでしよう。貴方は英語がペラペラだし、顔もどこか似てるんで、皆、寄ってさて話してましたよね。「私はフィフティーパーセント、フィリピーノ」とか言ってますますもててた。
上山 もててはいませんでしたけど。

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山下 その頃からペラペラだったんだけど、英語は何故出来るのですか?
上山 なんでしょうね。別にレッスンした事もないし。
山下 子供の頃から英語に接していたんですか?
上山 私の場合は発音から入ったんです。ただ、学校の教科書「JACK AND BETTY」を丸覚えして、そこから、いろんなフレーズやイデオムを覚えたんです。後は発音でしょ。でも当時の学校の先生の発音は失礼ながら上手くない。そこで、発音には何がいいかと考えたわけですよ。そして進駐軍音楽を片っ端から聴いたわけです。すると、とりわけフランク・シナトラのディクションがクリアーで、これが一番いいっていう事になったわけです。他にナット・キング・コールもきれいだったけど発音の勉強のお手本だったら、シナトラがいいということになったわけです。
山下 それはいくつ位なんですか?
上山 中学に入って少し経った位ですから、13才の頃ですか。
山下 えー! いや、ませた子ですね。不思議な子ですね。それで発音をマスターしちゃって。
上山 マスターはしないけど、まあーこんな具合かなって。
山下 日常会話がペラペラ出来るのはいつ頃なんですか?
上山 ペラペラではないけれど、中学2,3年頃ですね。
山下 それは友達がいたんですか? 外国人の。
上山 そうです。
山下 やはりそうなんですよね。
上山 勿論片言には違いはないけど。
山下 それじゃあ、つまり、シナトラを聴いてジャズの勉強と、歌の勉強と、言葉の勉強が一緒になったわけですか?
上山 いいえ。13才で変声期を迎えて音楽とは縁を切ろうと思ったんです。ジャズの勉強をしようと思ったことはありませんで、ただレコードを聴いたり、もっぱら気ままな付き合い方でした。ところが友達が「スカウトショウ」という文化放送主催の番組に勝手に応募しちゃったんです。
山下 あ、かすかに覚えているな。
上山 ミッキーカーチスさんが司会だったんですけど。 そのコンテストで一位になって。
山下 それがいくつの時でした?
上山 23才、大学4年の年です。歌は好きで知人の紹介でジャズ・ピアニストの小川俊彦さんにジャズ・ボーカルの手ほどきをして頂いてましたが・・・
山下 あ、小川さん。先輩だ。
上山 今思い返すと私にとっては大変貴重なレッスンでした。又、ティーブ・釜萢さんにも紹介して頂きました。いろんな歌を覚えていましたけど、最初に歌ったのが「オンリーユー」だったと思います。ロック調でなく、スロー・バラードで。プロデューサーは櫻井葉子さんでした。ご存知?
山下 文化放送の? 僕も一度聴いて貰っているんですよ。こういう子がいるけど、どうしたらいいかって、母親が連れて行ったんです。
上山 お会いしたいなー。あの方には良くして頂きました。公開録音の会場では審査員として、牧 芳雄さん、瀬川呂久さん他のジャズ評論家の方々や、長尾正士さん、馬渡誠一さんがいらっしゃった。この番組に出場する度に優勝して、コール・ポーターの「アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー」等を歌ってました。
山下 ああ、シナトラの歌だ。

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上山 大体そうでしたね。そして、その年の暮れにチャンピオン大会があり、70人程集まったんです。
山下 かつての優勝者ばかり。
上山 そうです。その時の課題曲はニール・セダカの「ダイヤリー」と自由曲で、2曲を披露するわけです。ピアノは宮川 泰さんでした。私は課題曲をフォービートで、自由曲は「スイート・スー、ジャスト・ユー」を歌ったんですが、そしたら一位になってしまいました。
山下 やったね。じゃ、優勝者中の優勝者。
上山 そうなんですよね。ピックリしてしまいました。その時、審査員の長尾正士さん、当時日産の常務取締役でいらしたんですが、ブルーコーツ・オーケストラの創始者のお一人で、音楽界でも大変有名な方で、またご自分でプロダクションもお持ちで、スリーグレイセスなどが所属していました。その方が音楽界入りを薦めて下さったんです。長尾さんは今86才位かなあ。今でもオルフェアンというオーケストラのリーダー兼アルトサックス・プレイヤーとしてバリバリ演奏しておられます。
山下 いい光景ですね。
上山 このスカウト・ショウのグランド・チャンピオンになると、テレビ8チャンネルの人気番組の「ザ・ヒット・パレード」に出演させてくれて、渡辺プロダクションにも入れて、その上、賞金、賞品も頂けるわけです。ところが、「上山さんのルックスは商品的価値がありません」とはっきり言われちゃいました。
山下 アハハハ。あの渡辺美佐さんですね。シビアーなものですね。ビジネスというのは。
上山 これにはショックを受けましたが、後になって、テレビや、ビデオを見たら全く日本人には見えない。変な日本人。(笑い)
山下 とくにテレビでは謎の外国人だよね。
上山 後になって、渡辺美佐さんという人は商才のある人だなって納得しましたけれど。「ザ・ヒット・パレード」の番組には約束通り出演しました。丁度、水原 弘さんが出た時でした。「学生歌手登場」のキャッチ・フレイズで、新聞にもこのように掲載されたんです。この時に歌ったのが「フオー・ユー・マイ・ラバー」だったんですが、日本語で歌えと言われてね、英語の方を覚えていたので、歌いにくくて、紙に書いてチラチラ見ながら歌った記憶があります。「エイト・ピーチェス・ショウ」にも出演しました。
山下 「エイト・ピーチェス・ショウ」、ありましたね。
上山 そうSKDのね。
山下 ちなみに、あの時期って、ジャズ歌手って誰がいたんですか?
上山 笈田敏夫さん、青山ヨシオさん、武井義明さん、小割まさえさん、マーサ三宅さん、上野尊子さん、細川綾子さん、後藤芳子さんとか。
山下 そういう人達がマスコミに出ていたんですね。
上山 スカウト・ショウの話なんですが、1回優勝すると4千円貰えるわけ。その時のサラリーマンの月給が約1万2〜3千円なんです。
山下 それはすごく沢山ではないですか。
上山 家からの小遣いと合わせるとすごくいい生活でした。金に目がくらんで。(笑い)
山下 その理由は強いよ。僕だってそうだったもんね。
上山 当初、プロになろうとは全然思ってもいなかったんだけど。
山下 ちなみに、大学は慶応でしたよね。
上山 そうです。

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山下 あ、そうですか。勉強もできたんだなあ。それで、いよいよ卒業で、進路を決めなきゃという時に、どうしたんですか? 一旦はプロになったわけでしょ。
上山 その時は未だプロにはなっていませんでしたが、就職は決まってはいました。両親と話して一応3年位やらせてもらうように説得して、長尾さんの所でお世話になることにし、プロ生活に入ったわけです。と同時に松谷穣先生(数年前に他界されましたが、門下生にはナンシー梅木さん他数多くの有名なジャズ歌手を育てられた)の門下生になり、コーリューブンゲンなどポーカリストの基礎や、歌唱技術を徹底的に教えて頂きました。
山下 それでいろんなテレビに出たんですね。僕も見ているよきっと。あの謎の外人なんだ。(笑い)
上山 テレビは10回位出ましたね。NHKでは日曜日夜の「花の星座」がありました。
山下 すごい番組じゃないですか。
上山 新人5人衆として出させて頂いたし。それからTBS,NTV,東京教育テレビなどです。又その頃の一番の思い出は労音でした。
山下 労音に出られたら、当時、たいしたものでしたよね。
上山 芸能プロダクションのマネージメントも良くて、山陰労音、東北労音に藤家虹二さん、横内章二さん、スリーグレイセス達とご一緒させて頂さました。自慢話になりますが山陰労音で、或るとき会員の方々に新人歌手の評価アンケートを行ったところ、それまでは中島 潤さんがトップだったんですが、「上山さん、これを凌駕しましたよ」って言われました。 これもピックリでした。こんなことをしている内に両親と一応交わした約束の3年間も経ち、あんまり仕事もないし、プロダクションに迷惑をかけられないので、芸能界を止めて「日揮」という会社に就職したのです。
山下 それはいつだったかな。
上山 63年ですね。
山下 そうか。グァム島の翌年だ。その頃はもう家族づきあいしてましたね。それで、語学力を買われて海外生活が随分あったんですよね。
上山 ええ、海外生活合計14年。
山下 僕、殆どのところへ遊びに行ってるな。インドネシアにも行ったし、ロンドンにも行ったし。ロンドンにいる時のことが「ドラバダ門」の中に出てくるんですよね。古い刑務所につれて行ってもらったんだ。
上山 女性っぽい口調で書かれていたからね。

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山下 上山さんの口調って、丁寧が度が過ぎて、なんか妙な世界になりかかる時があるんだよね。(笑い) 興味のある方は、そちらの本の方をということで。 でも勤め人になってからも、よく会って歌ってたよね。
上山 そう、貴方のピアノにインスパイヤーされて、どっちかというと貴方の音のとり方が私の感性にものすごく合っていたわけ。私よりいくつも年下だけど音楽以外のことも含めて尊敬していましたよ。この人はスゴイって。
山下 ただ、僕は69年からムチヤクチヤなフリージャズをやり始めたので、あのあたりはちょっと、そういう意味の接触が少なくなった時期があったね。
上山 でも、貴方は基本的に変わらない方だから。
山下 まあ、会えば必ず伴奏したくなるわけで。気持ちがいいんです。僕は、歌伴っていうのは、修行時代はそれこそ上野尊子さんやマーサ三宅さんとハコで仕事したこともあるんですよ。 でも以来、公にレコードになっているのは浅川マキだけですね。
上山 ええ、ですから、大変な事だと非常に光栄で、恐縮しております。
山下 いやいや、そういう意味じゃなくて、すごい上手い上山っていう歌手を若い頃聴いちゃったってのは、すごい体験ですよ。
上山 それはツーマッチですが。話を戻しますが、勤めた会社では海外出張や駐在を経験したわけです。
山下 そうか。 海外に行ってもいろいろのところで飛び入りして歌ったりしてたんだ。
上山 出張の場合でも、時間が出来ると泊まっているホテルのバーなんかでバンドがいると歌わせてくれ、なんて言って。
山下 バンドに曲名とキーを言って、客の前で歌っちゃう。そうすると、こいつはスゴイぞってなことに。
上山 それはどうか分かりませんが楽しみました。 いずれにしても、音楽を趣味として持てたことはとても幸せでした。暇をつぶす手段だけでなく、音楽は世界共通語のようなものですから。この趣味を通じて仕事の関係だけでなく、音楽の世界でも友達の輪を広げるのにも大いに役立ちました。トルコではテレビ局の関係者が出演依頼をして来たとか、いろいろ面白いことがありましたね。さて、今だから公言出来るのですが、実は会社に入ってからも3回程リサイタルをしてたんです。マーサ三宅さん、上野尊子さん達から誘われて「グループ・フォー」と名前をつけて、ビデオホール、農協ホール、厚生年金小ホールでやりましたね。
山下 会社にいながらね。
上山 会社の人にもチケットを買ってもらって、役員の所まで図々しくも売りに行ったりしてヒドイ奴ですね。こんなサラリーマンは、まずいないでしょうね。

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山下 あまりいないかな。
上山 自慢にもならない。
山下 結局何年勤めたんですか?
上山 36年いました。
山下 もう悠々自適っていうやつだね。
上山 とんでもない。
山下 日本でよく行って歌ってたのは赤板の「リトルマヌエラ」ですね。
上山 同好の士が集まって。
山下 僕も連れて行ってもらって、ピックリしたけど、とにかくスタンダードを英語で唄う日本人のための生オケ場所といいますか、同好クラブといいますか。
上山 マヌエラの社長で、ピアニストでもある中田さんは、慶応ジャズクラブのライトミュージックで活躍した人で、知らないスタンダードがない位いろんな曲をご存知で、お客さんは気持ちよさそうに歌ってますよ。
山下 そういうところなんだ。すごいところなんだね。
上山 それと西麻布でピアニストの大原江里子さんが経営している「インディゴ」(注残念ながら2000年3月末閉店)
山下 そこにも行きましたね。そういうところで上山さんが歌うとやはりだん突になっちゃうという感じがするんだけど、あたりまえなんだ。すごいキャリアのプロなんだからね。
上山 いや、そう言って頂けるのは有難いですけど、ところが、アマチュアの人で上手い人が沢山いるんですよ。だから、プロの人もうかうかしておれません。
山下 確かにね。プロのジャズ歌手って難しいですよね。やっぱり歌っていうのは言葉だから、まずネイティブに喋れなきゃ英語の歌なんか歌うのは恥ずかしいと僕なんか思っちやうんですよね。
上山 ネイティブの英語も勿論必要かもしれないけど、そんな人は少ないですよ。若い人の中にはこの頃増えて来ていますが。それを論ずる以前に、やはり、歌の意味、内容がわかって、その上で言葉をどう旋律に乗せて発音し歌うかっていう事をよく考えるんです。その点演歌歌手、全部とは言いませんが、これほど上手く日本語を歌う人達はいません。英語も同様だけど、日本語も難しいですね。
山下 ああ、そうか。
上山 特に思うことは、歌う時の言葉、発音というか、話す時の言葉とは違うということです。これをしないと説得力が出ない。 演歌歌手はよく鍛えられているのでしょう、この点は完璧です。最高ですよ。
山下 なるほど。

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上山 だから、歌は難しい。いつも苦闘してますよ。
山下 なるほどね。演歌まで、ちゃんと聴いているんだ。
上山 楽器の場合もそうじゃないですか?
山下 それはそうです。楽器も結局は自分の言葉のようにフレーズを出さないと説得力ないですよね。でもその場合のネイティブっていうのは、自分自身でいいようなところがあって、歌よりそういう点では、楽だと思うんですよ。
上山 あの、ちなみに録音のリプレイを聴いた時、繰り返しのところで、いわゆる山下洋輔風というのを弾かれましたでしょう。「ピー・エス・アイ・ラブ・ユー」でもそうでしたけど、聴かせる時にやっぱり何ていうんだろう、その時の曲のイメージを当然頭に入れて山下流というのを展開していたんでしょう。
山下 そうなんですけど、でも上山さんと比べると、もうちょっといい加減といいますか。
上山 言葉があるなしではね。
山下 うーん、一瞬、どうでもいいやって、もとから離れちゃう。上山さんと久し振りでデュオをやってみた時に、それから調整室で録音風景を見てた時にやっぱり一語、一語、噛み締めて歌っているでしよ。あれが上山流の神髄でね。だから本当にあだやおろそかに伴奏出来ない人なので、コワイんですよ。
上山 何をおっしゃいますか。
山下 全部英語も理解して、歌詞も理解して、その上じゃないと伴奏出来ない怖さがあります。
上山 いや、いや。今回録音してすごく反省したというか、勉強になったことがあるんです。自分がこの言葉にアクセントをつけようと思って、一応苦心して自分ではそうしたつもりでも、プレイバックを聴きますと、何とそれが全然なっていないんです。結局、それは何かと考えてみたら、自分の声質が大きな要因で、かつ自分で思い描いたように歌うためには口の開け方、発音の仕方が影響するのかなと。
山下 フルバンドとかストリングスとか、そういう伴奏でも聴きたいと強く思いましたね。
上山 弦楽四重奏とか、それは夢、夢ですよ。
山下 ええと、じゃ、バンドの方に話がいったんで、今度共演しているミュージッシヤン達とは、どういうきっかけで知り合ったんですか?
上山 ピアノの田村 博さんとは、私の勤めていた会社の忘年会が開かれた時、ある女性歌手が出演していましたが、彼がその伴奏をしていたんです。次の曲の時私がそこへ近づいていったんですよ。
山下 あ、得意の乱入だ。
上山 そう、一言でいうと乱入。彼女が「フライ・ミー・トウ・ザ・ムーン」を歌ったので私がハーモニーをつけました。彼女の出番が終わったので、バンドの人達に、すみません、素人の伴奏をってお願いしたら承知して下さって、図々しくも「アンディサイデッド」を歌わせて頂いたんだけど。
山下 あ、さらっちゃったんだな。悪いアマチュア。いや、アマチュアではないんだけど‥。貴方の「アンディサイデッド」はスキヤツトばりばりのシャバドバ、ドゥビアだから。
上山 そう、そうしたら、嬉しいことに皆さんが一生懸命伴奏して下さって。
山下 それは、ミュージッシヤン、特にリズムセクションというのは、そういう体質なんで、うまい人が前に立っているなと思えば、とことん乗りますよ。
上山 そうですか。

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山下 きっとそういう現象が起きたんだと思いますよ。
上山 それで、田村さんと知り合って、日頃演奏していらっしゃる横浜のジャズメン・クラブに伺ったりするようになりました。当時はライブハウスにあまり行ったことがなくて、実際には1年位たってからですかね。
山下 そんなにたってからですか。
上山 はい。そんなわけで彼とはかれこれお付き合いして15年位かなあ。
山下 それで行くたびに歌うことになって。
上山 彼との波長も合ったものですから。余談になりますが、ここで貴方もよくご存知のベーシストの金井英人さんを紹介されたんです。
山下 あの人は僕にとっては修行時代のバンマスですからね。
上山 そうですか、知らなかった。金井さんが97年の暮れ、川崎ジャズフェスに私を誘って下さって、前田憲男さん、杉浦良三さん、ドラムの渡辺 毅さんとご一緒させて頂いたんです。その時、金井さんから川崎ジャズフェス主催者の川崎ジャズ協会会長の宇田川彰さんを紹介されました。「珈琲専科"あきら"」というお店のオーナーで、それからのご縁で年4回そちらでライブをさせて頂いているんです。
山下 お店でね。なる程。
上山 男性歌手の市場は昔と変わらない。
山下 男性歌手の市場ね。
上山 ライブハウスに出演している男性歌手は昔同様に限られていますね。これ解からなくはないですよ。歌はどうあれ、若いきれいな女性歌手の方がいいに決まっていますし。(笑い)勿論素晴らしい女性歌手の方は沢山いらっしゃいますが。
山下 ウーン、難しいところだなあ。
上山 先の宇田川さんの店のライブに出演することになったんですが、ピアノがないため田村さんにギターリストの津村和彦さんを紹介して頂いたわけです。そして、今回のレコーディングに彼等がベーシストの山崎弘一さんを紹介してくれました。
山下 あ、そうだったんだ。
上山 こんな風にだんだんとバンドの関係者の方々とも輪が広がって行ったというわけです。
山下 その昔のラジオのコンテストやテレビに出演した時と、今度は又違うミュージッシヤンとの付き合いが始まったわけだね。
上山 そうですね。昔ご一緒した方々の中にも覚えていて下さる方もおいでです。 先にも述べましたが、私のオッショサンの小川俊彦さん。 先日、久しぶりにお会いした時は懐かしかった。
山下 あとはどんなミュージッシヤンを思い出します?
上山 八城一夫さん、渡辺貞夫さん、原田長政さん。西銀座にあった不二家ミュージックサロンに出させて頂いたことがあるんですが、それも貴方との事と同じように宝ですよ。いい思い出でね。残念ながら八城さん、原田さんはお亡くなりになっちゃったんだけど。
山下 ええ、僕も渡辺貞夫さんのセッションバンドで原田さんと出来て光栄だったんですよ。でもすごい共演のキャリアーだよね。上山さんの。
上山 キャリアー? そんなに厚くはないけれど。
山下 一度聴けば、ミュージッシャンは、「こいつはうまい」って解っちゃうから。
上山 そう言って頂ければ、私はうれしいけど。
山下 随分前にね、電車で結構有名な男性ジャズ歌手に会って話をしたんですよ。
上山 へえ、誰だろう?

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山下 それで、僕は昔からずっと「カミオ」っていってた上山さんと友達だって言ったら、やはり知っていてね、「ああいう人が素人でいられると困る」って言うんですよ。「あの人にはかなわない」って言っていたよ。
上山 誰かな、そんな冗談を言う人は?
山下 やっぱりそうかなって思ってね。あの野球の野茂投手っているでしょう。
上山 ええ、ええ。
山下 あれがず一つと素人でいるようなもんだよね。
上山 アッハッハッハッ……。
山下 たまったもんじゃない。そういうのってあるんですよ。だから上山イコール野茂がずーっと会社勤めしているわけでね。やはり、出てきてくれなければ困る。アルバムに戻って、選曲とかそういうことはどういうふうにしてやりました?
上山 選曲は始めてのCDですので、これまで比較的多く歌っている曲を選びました。「ムーン・ソング」という歌を入れましたが、これは古い曲で,未だ歌い込んではいないんですが、田村さんからのリクエストがあったので。
山下 なるほど。そういうのって、いいんだよね。 レコーディングを機会に新しい曲が自分のものになっていく。それでバランスはどうですか? アップテンポやバラードの配分などは。
上山 そうですね。アップテンポとバラードは半々位。 今回は曲の細工は自分でアレンジまがいの事をしましたが、伴奏のアレンジ、イントロなどを含めいろんな個所で田村さんにヘッドアレンジをしてもらいました。なかなかのアイデアマンで、歌う方も気持ち良く出来たので、彼には感謝しているし、満足しています。 それと皆さん丁寧な伴奏作りをして下さってね。幸せでした。
山下 よかったですね。
上山 津村さんとは、オルフェをデュオしました。
山下 あ、いいですね。彼のギターサウンドは定評があります。
上山 割合面白く出来上がったと思ってるんですけど。他に出来がよかったのは「スターダスト」で、これはかなり遅いテンポで歌いましたから7分以上かかってしまいました。
山下 それは大作ですね。
上山 よく言えばそうですね。
山下 あと、上山さんのスキャットは抜群なんだけど、あれはどうやって練習というか、会得するんですか?
上山 スキャットを歌に組み込もうと考えた時は、先ず、プレイヤーだったらどんなフレーズをつくるかなあと思い巡らせるのです。しかし、名案が浮かぶまでには苦労します。ピアノでそのコードを展開して、あーだ、こーだと演習してみるのですが。全く窮した時はプレーヤーの演奏を聴いたりして模索するわけです。最近は昔のポピュラーソングにスキヤツトを入れてみたりしているんですが、その代表的なものがモナリザの曲。貴方がプロデュースした林栄一さんのCDアルバムを参考にしました。
山下 聴いてくれたとは嬉しいな。じゃ、どっかに入ってくるんだ、それが。
上山 曲の出だしで悩んだので、前半のデューダ、デュダ、デュダ、デューダ、デュリダ、デュダ、デュダーダダの個所。
山下 はあ。
上山 それを私は、あ、これ、これとか言って無料で拝借。これはいいとか思って、あとはティタ、ティタ、シヤバドビヤー、デュ、デュード、ドビヤー、とかね。お世話になりました。もう楽しくなって。又後半のエフ・マイナー・セブンの下りはどの人もやる部分なので、自ずとおなじようなフレーズが出てくる。通常スキャットを作る場合は出だしでいいフレーズが思いつくと、後は不思議と展開が出来るんですが、モナリザには参りました。

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山下 へえー、これは面白い。それ、一度ある曲についてあるスキャットと決めるといつでもそうなります?
上山 歌い慣れた曲は余り問題はないのですが,そうでない時は苦しむ事が多いんです。バリエーションも当然考えたいと思って、いいフレーズがないかなと試行錯誤するんですが、これが大仕事、大仕事。この間題を何とか解決したいと思い立って「インデイゴ」の大原さんについて今、楽典とかジャズピアノを習い始めています。60の手習いで、これが又大変面白くも難しい勉強でね。
山下 そうなんだ。でもしっかりやっているね。
上山 私の幾つかのスキャットで今はなき槙内章二さんから誉められた「アイ・キャント・ギブ・ユー」のスキャットがあるんだけど。
山下 はい。
上山 このスキャットにテンションノートを取り混ぜて作ってみたんですよ。これが彼に気に入られて、小生内心大喜びしたものです。違ったバージョンを作らなさゃと思いつつ何年たってしまったかなあ。未だにこのスキャットは80パーセント同じものです。プレーヤーと同じように毎回フレーズを変えてみたいというのが私の念願なんですが。
山下「アンデイサイデッド」なんかやるでしょう、バリバリに。
上山 あれも私のオリジナル版。
山下 あれはその場だよね。
上山 それ程自由奔放には残念乍ら出来ません。その場の一寸した思いつき程度で。全体のストラクチャーは余り変わらないので、そのうち何とかしたいものです。
山下 今度のアルバムに入っていないのが残念だけど。
上山 今思うと何故入れなかったのか、忘れちゃったのかもしれないですが、次回のCDを制作する機会があればこれを冒頭に持って来たいですね。いろいろフレーズを展開したりして。だけどスキャットは本当に難しい。一曲の中で起承転結ってあるでしよう。だからどこでどう盛り上げるか考えてしまうわけ。勿論気の利いたフレーズを歌いたいですからね。ところで、貴方のCDの「プレー・ガーシュイン」があるでしょう。この中の「フォギー・デイ」のイントロが痛く気に入りまして、私の歌のイントロに使おうと思っているのですが、使わせて下さいよ。
山下 特に免じて"宜しいことにしましょう"。いや、冗談です。気に入ったものがあったら使って下さい。歓迎します。
上山 恭悦至極にぞんじまするー。(笑い)今回の録音を聴いてみて思った事は、原曲の旋律を変えて、つまりフェイクして歌っている曲が多いのです。原曲通りに歌わないということではないのですが、自分なりの解釈で歌いたいと思う曲が多いのです。特に歌詞との関連で、ここはこのようなフレーズが自分には合うと思いつくと、どうしても使いたくなって。私のスタイルというか、昔からの癖みたいなもので。
山下 どこで思いつくんですか?
上山 そう、いろんなところです。主には練習している時が多いですが、時には寝床の中とか、散歩の時とか、ライブを聴いている時とか、本当に様々です。外で思いついた時は家に帰ってピアノでコードに合っているかどうか確認したりして。一番困るのは、譜面に書くのを忘れて、これこそ最高のフレーズを忘れてしまった時。もうこれは最悪。やはりコードの分析が出来ないことに一番の原因があるんでしょうね。充分な音楽上の教養をつけなければ駄目ですね。痛感します。
山下 今度のCDにはスキャットが随所に?
上山 「アイブ・ガット・ユー」、「ザ・ガール・アイ・ラブ」、「アイ・キヤント・ギブ・ユー」等ですね。ジャズボーカルはこの辺が面白いですね。
山下 それが出来ないとジャズボーカルじゃないと思うんですよ。でも、こういうのって教えるのは難しいですよね。
上山 私も難しいと思います。スキャットだけでなく、ボーカルには、ミディアムテンポだけでなく、バラードにもリズム感が求められるので、先ずはどうリズム感を教えるか、これも大変でしょうね。
山下 親戚関係とかで皆で飲んでいる時に、居酒屋でもなんでも、そこに上山さんがいるとかならず歌ってくれってなるのね。
上山 そう、そう。
山下 なんの伴奏もないところで、アカペラで歌うでしょう。そうするとシーンとなって皆聴いてしまう。
上山 礼儀をわきまえていらっしゃるから、ご無理なさって、皆さん。
山下 あれ、いいんだよね。皆に分かち合いたい世界だと思うんです。このアルバムも皆に聴いてもらえるといいですね。
上山 ありがとう御座います。そうあって欲しいです。今回のことで、貴方をはじめ、田村さん、津村さん、山崎さん、写真家の静さん、PAの猪狩さん他の本当に良い友人、仲間の協力・支援を頂いて、私の一大プロジェクトが叶いました。対談の最後にあらためてお礼申し上げます。
(出典 CD"Allegiance"のジャケットへの掲載文)

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[Last Updated 10/30/2002]