藤原宮(ふじわらきょう)跡


耳成山の南方に藤原宮跡がある。第2日の最初に訪れた旧跡である。

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藤原宮跡(ふじわらきょうあと)[日本最初の条坊制(じょうぼうせい)の残る]

 持続天皇8(694)年12月から文武(もんむ)・元明(げんみょう)天皇和銅(わどう)3年(710)3月の平城遷都(へいじょうせんと)までの前後16年という短い期間で終焉(しゅうえん)した都である。この都のことは飛鳥の宮々や平城京ほど、その重要さが知られていない。
 百人一首に歌われている
  春すぎて 夏来にけらし
   白妙(しろたえ)の 衣ほすてふ 天香具山   (持続天皇)
の歌がうたわれた宮としてなじみが深い。
 この地は、大和三山の中央部、飛鳥川流域に位置している。東は天香具山の頂を通る中ッ道(なかつみち)、西は畝傍山(うねびやま)の東麓を走る下ッ道(しもつみち)の東、南は桜井(さくらい)から飛鳥に至る山田(やまだ)道の延長上、北は耳成山(みみなしやま)の南、東西約2.1km、南北約3.1kmが京(みやこ)の大きさだったと推定される。
 宮城の周りは大垣(おおがき)で囲まれており、規模は南北907m、東西925mである。それは平城京に比べてそれぞれ100mほど短いが、ほぼ匹敵した大きさである。飛鳥の宮殿とは、だいぶん規模の面で違いがある。
 藤原宮は、唐(とう)の長安(ちょうあん)をまねて造ったとかで、天皇が住む内裏(だいり)、政務をとる大極殿(だいごくでん)と朝堂(ちょうどう)政実務を執行する役所が、約1km四方の大きな区画の中に整然と配置されていたと思われる。短期間ではあるが、日本最初の条坊制を残している宮で、律令制(りつれいせい)にもとづく中央集権的な古代国家の基礎ができた宮として、わが国古代史上忘れることのできない大切な宮である。
(出典 「明日香」 (株)編集工房 あゆみ)

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[Last Updated 10/31/2005]