岡山旅行
      目 次

1. 概 要
2. 第1日 王墓山古墳群など
3. 第2日 吉備津彦神社など
4. 第3日 頼久寺など


 備中国分寺
 五重の塔
          

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1. 概要
 0) 名称      「岡山の歴史旅行」
  岡山市西部の備前一宮から総社市へかけての長円形のエリアが吉備路です。このあたりは強大な勢力を誇る古代吉備国の中心地でした。大和朝廷の律令体制が確立すると、吉備国は備前、備中、備後、美作(みまさか)に分割されました。第1日と第2日の訪問先は吉備路です。
 1) 主要訪問地  岡山市
 2) 期間      2013.9.25〜27
 3) 参加者     NMCの「歴史に学ぶ会」14名
 4) 交通機関   新幹線、レンタカー
 5) 訪問場所(地図を参考にして下さい)
 [第1日]
  (1) 岡山県吉備文化センター
  (2) 犬養木堂生家・記念館
  (3) 王墓山(おうぼさん)古墳群
  (4) 楯築(たてつき)遺跡
  (5) 岩倉神社
  (6) 岡山県立博物館
 [第2日]
  (7) 後楽園
  (8) 吉備津彦神社
  (9) 吉備津神社
  (10) 鯉食神社
  (11) 造山(つくりやま)古墳
  (12) 備中国分寺
  (13) こうもり塚古墳
  (14) 作山(つくりやま)古墳
  (15) 角力取山(すもうとりやま)古墳
  (16) 宝福寺(ほうふくじ)
  (17) 鬼ノ城(きのじよう)
 [第3日]
  (18) ぶどう狩り現地一新見市(にいみし)
  (19) 満奇洞
  (20) 頼久寺(らいきゅうじ)
  [地図の注意事項]
   1. 経路は実際の運転経路とは必ずしも合っていません。
   2. 黒線は1日目、鼠色は2日目、薄い鼠色は3日目の経路を表します。
   3. マーカーの色は、左側の場所との対応を見易くするためで、特に意味はありません。
 6) 特記事項
  (1) 岡山出身の奥田氏が企画してくれ、とても充実した3日間でした。
  (2) 岡山にこんなに多くの古墳があるとは知りませんでした。
 7) 印象に残ったこと
  (1) ホテルやレストランで「おもてなし」の心を感じました。
  (2) 東京、岡山間は新幹線、現地の移動はレンタカーでした。とても効率的に廻ることができ、疲れも少なく助かりました。
  (3) 2日目の夜(チェーン店の飲み屋)を除いては、美味しい食事が食べられました。とくに鰆(さわら)のさしみ、おつくりは瀬戸内海が近い岡山ならではと感じました。
  (4) 3日目のぶどう狩りはピオーネやシャインを充分に食べ、おみやげも喜ばれて、ありがたかったです。
 8) ホテル
 岡山駅に近い「三井ガーデンホテル岡山」で、個室だったため夜は自由に行動できました。
[今後の宿題]
 今回は、出掛ける前はほとんど勉強していなかったのですが、これから学ぶべきことが沢山あると思っています。岡山のガイドブックが無いのには驚きました。こんな良い場所のPRが足らないと痛感しました。
 9) 参考図書
  9.1) 「岡山県の歴史散歩」 岡山県の歴史散歩編集委員会編 (株)山川出版社 2009.8.20 第1版
  9.2) 「吉備の古代史−王国の盛衰」 門脇禎二著 日本放送出版協会 1933.8.20 初版
  9.3) 「吉備の古墳 下」 備中・備後 葛原克人・古瀬清秀編 吉備人出版 2000.8.25 初版
  9.4) 「吉備路」 写真・難波 浩、文・生咲恭仁彦 1990.1.14 第1刷 山陽新聞社出版部 

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2. 第1日 王墓山古墳群など
  新幹線でJR岡山駅に着き、駅前で昼食をとりました。駅近くでレンタカー2台を借り(セダンとバン各1台)奥田、馬場の両氏が運転してくれました。次の順序で廻りました。天気は晴れでした。
  (1) 岡山県吉備文化センター
  ここでは係員から地図や展示されている出土物を見ながら、県の遺跡や出土物の説明をしていただきました。地理も説明していただいたので、今回の旅行の概要がわかりました。すぐ近くにある黒住教の本部に寄って、記念の品を見せていただきました。
  (2) 犬養木堂(犬養毅さんの号)生家・記念館
  駐車場から生家・記念館までは案内の立札があり、焼いた板壁の建物や、静かな地区を通り抜けて行きます。犬養毅(つよし)さんはとても良い環境で育ったことを感じさせました。
  (3) 王墓山(おうぼさん)古墳群
  公園の中に古墳が点在しており、石棺も見ることができました。案内してくれている奥田さんと駐車場で別れたため、古墳を見て歩くコースがよくわかりませんでした。それでも地図板や案内板は立っているので、次々と古墳を見ることができました。
  (4) 楯築(たてつき)遺跡
  王墓山に隣接していますが、古墳の状態が少し異なります。
  (5) 岩倉神社
  小さな社ですが巨石がゴロゴロしており、神社の由緒を感じさせました。右の写真は神社の正面やや右側から撮ったもので、右側に巨石が見えます。
  (6) 岡山県立博物館
  時間が遅くなり、最後に立ち寄る予定であった岡山市立オリエント美術館には間に合わなくなったので、後楽園の一画にある博物館を訪ねました。

[ホームページなどから得た情報]
(1) 岡山県吉備文化センター
 岡山市北区西花尻1325-3
 当センターは、「古今和歌集」にも謳われ、「枕草子」では名山の一つにあげられた「吉備中山」の南山腹に所在します。今なお緑豊かな自然環境のなか、岡山県の埋蔵文化財保護・保存を図る拠点施設として、発掘調査をはじめとする調査・研究、出土品の収蔵管理や活用、埋蔵文化財に関する普及啓発などに努めています。当センター1階展示室では、これまでの発掘調査で出土した出土品の中から、厳選した約400点の出土品を常設展示しています。
(2) 犬養木堂生家・記念館
 岡山市北区川入102-1
 犬養木堂記念館は、我が国の政党政治の確立に大きく貢献し、5.15事件で凶弾に倒れた犬養毅(号・木堂)の人柄、功績を広く顕彰する為、木堂の生家(国指定重要文化財)に隣接して平成5年に開館しました。直筆の書や手紙、愛用の筆や硯、5.15事件の時の血染めの座布団など木堂ゆかりの資料8,000点のうち約120点を常設展示し、また、選挙の為に録音したレコードで、木堂の肉声を聞くこともできます。記念館の中はなまこ壁と焼板に囲まれた路地が設けられており、その両側に常設展示室と企画展示室があり、木堂翁の遺徳を偲ぶにふさわしい雰囲気をかもしだしています。
(3) 王墓山(おうぼさん)古墳群
 倉敷市庄新町
 王墓山地区は、南から東谷古墳群、真宮古墳群、大池上古墳群、赤井西古墳群の四つの古墳群 からなっており、公園内には現在25基の古墳が残されています。
 なかでも北端に位置する王墓山古墳(県指定史跡)は、家形石棺を伴い、豊富な副葬品を 出土するなど、この地域においてかなり傑出した存在であったことをうかがわせます。
 他の古墳については、ほとんどが未調査のため詳しいことは明らかではありませんが、いずれも 横穴式石室をもち、おおむね古墳時代後期(6世紀後半頃)に築造されたものと 思われます。 

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(4) 楯築(たてつき)遺跡
 岡山県倉敷市矢部
 王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓です。墳丘の各所から出土した土器片の多くは壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片です。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで、同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級です。
(5) 岩倉神社
 岩倉=磐坐ではないでしょうか。田んぼの中に、こんもりとした木立が立っており、そこが岩倉神社です。その一画だけ巨石がごろごろしており、田んぼの中になぜこんな巨石があるのかと、疑問を投げかけます。
 境内に入ってみると、巨石でできた丘です。奇妙な形に割れた石、スライスされたような石、立石・・・・何とも不思議な場所です。
 すぐ北には王墓山古墳群、そしてストーンサークルで有名な楯築遺跡があり、真東に吉備の中山があります。小さい神社ですが、巨石ファンにはたまらない神社です。
(6) 岡山県立博物館
 原始・古代から近世に至るまでの文化遺産を収集保存して、代表的なものを展示しています。

3. 第2日 吉備津彦神社など
 今日も2台の車に分乗して、各地を巡りました。天気は快晴です。
  (7) 後楽園
  開園を待つようにして後楽園に行きました。遠くに岡山城も見え、名園を鑑賞しました。
  (8) 吉備津彦神社
  しばらく車に乗って吉備路を下りました。吉備津彦の名前の元となる神社です。
  (9) 吉備津神社
  この社は吉備津彦神社から直ぐです。約400m続く廻廊の先にある御釜殿に行き、鳴釜神事を拝見しました。御釜を竃(かまど)にかけて暫くするとウォーンという音が鳴り出します。これで吉凶が占えるそうです。
  (10) 鯉食神社
  吉備津彦の関係する神社です。
  (11) 造山古墳(つくりやま)
  後で出てくる作山古墳と並ぶ前方後円墳です。これだけ大きい前方後円墳を、近寄って見られることはありがたいことです。右の写真は古墳の説明板で、岡山市教育委員会が設置しました。
  (12) 備中国分寺
  昼食は「吉備路もてなしの館(やかた)」でとりました。ここからは午後一番に訪ねようとしている国分寺の五重塔がよく見えました。国分寺は観光ボランティアの方が案内して下さいました。国分尼寺跡は近くまで行きました。
  (13) こうもり塚古墳
  次にこの古墳に移動しました。古墳とあわせて、石室や石棺が見られるのはありがたいことです。 

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  (14) 作山(つくりやま)古墳
  造山古墳の項でも書きましたが、こんな大きな方後円墳が間近に見られることは、ありがたいことであるとともに、吉備の歴史が偲ばれます。
  (15) 角力取山(すもうとりやま)古墳
  大きな松の生えている古墳です。
  (16) 宝福寺(ほうふくじ)
  なかなか立派なお寺です。雪舟のねずみの話は親しみが持てます。
  (17) 鬼ノ城(きのじよう)
  忽然と現れた山城にはびっくりしました。総社市を見下ろす位置にあり、眺めが良いのですが、もう一つ地図が判らないのが残念でした。

[ホームページなどから得た情報]
(7) 後楽園
岡山市北区後楽園1-5
 岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみました。その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる地方では稀な大名庭園となっています。後楽園は、かつて藩主の静養の場、賓客接待の場として使われましたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。昭和27年には後世に伝える歴史的文化遺産として「特別名勝」に指定されました。

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(8) 吉備津彦神社
岡山市北区一宮1043
 古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し、その後も吉備中山の東麓に永住し、諸民と国を深く愛し、吉備の国をすばらしい国にしたので、人々は現人神として崇め奉りました。それが、吉備津彦神社のはじまりとなります。後に佛教が入り正宮、本宮、摂末社合わせて51社を具え、神宮寺や法華堂も建ち、古代気比大神宮・大社吉備津宮とも称され朝廷直属の一品一宮、吉備大明神として武将庶民に至るまで厚く崇敬されてきました。夏至の日には朝日が鳥居の正面から登ることから「朝日の宮」とも呼ばれています。
(9) 吉備津神社
岡山市北区吉備津93
 吉備津神社の御祭神・大吉備津彦大神は四道将軍として山陽道に派遣され、温羅という悪者を平定し、吉備国に平和と秩序を築きました。吉備国の総鎮守で、県内では最も古く大きな神社です。
 創建について詳しいことは分かっていませんが、社伝によれば仁徳天皇がこの地に行幸された時に御創建になったもので、延喜式では名神大社で、やがて一品の神階を授けられました。三備(備前・備中・備後)の一宮として全国の人々から深く信仰されています。現在の吉備津神社の本殿及び拝殿は1425年(応永32年)に室町幕府三代将軍・足利義満が、天皇の命により再建されたものです。30数年の歳月をかけて完成しました。室町時代初期の代表的建造物で『比翼入母屋造り(ひよくおもやづくり)』と言いますが、全国唯一の造りとして『吉備津造り』と呼ばれ、国宝に指定されています。
 また、御本殿から南の本宮社をつなぐ約400m続く廻廊(県指定文化財)や随神をお祀りする南・北随神門や御釜殿、木造獅子・狛犬は国の重要文化財に指定されています。
 御釜殿には、御祭神により退治された鬼の首が埋められているという伝説があり、現在でも鳴釜神事が執り行われています。御釜の鳴り具合によって吉凶禍福を占うという神事であり、その霊験は少なくとも室町時代には天下に有名であり、江戸期の怪奇小説『雨月物語』にも登場します。
温羅伝説
 崇神天皇(または垂仁天皇)の頃、異国の鬼神が吉備国に渡来してきた。彼は百済(くだら)の王子温羅(うら)といい、足守川の西方の新山に城を築き、そのそばの岩屋山に楯を構えた。人びとはこの山を「鬼ノ城」とよんだ。
 温羅の形相は恐ろしく、身長は1丈4尺(約4.2m)あり、きわめて凶暴であった。航行する船をおそっては品物や婦女子を略奪していたので、朝廷は吉備津彦を派遣した。吉備津彦は大軍を率いて吉備国にきて、吉備の中山に陣を構え、西には片岡山に石の楯を築き防戦の準備をした。戦いが始まると矢合戦となったが,温羅は強く、両方の矢が空中でぶっかって落ちてしまった。そこで吉備津彦は2本の矢を一緒に発射したところ、一本は温羅の目に当たり、たくさんの血が流れ、血吸川となった。温羅は雉となり山に逃げたが、吉備津彦は鷹となって迫った。今度は温羅は鯉となって血吸川口逃げたので,吉備津彦は鵜となって彼を咥えあげ、ついに温羅の首をはねて曝(さら)した しかし、首が何年も大声で吠えたので、犬飼武に命じて犬に食わしたが、髑髏がまだ吠え続けた。このため吉備津彦は、吉備津神社の御釜殿の竈の下8尺の深さに理めたが、13年間唸り続けた。ある夜吉備津彦の夢に温羅があらわれ、「吾が妻阿曾媛(あそひめ)」に御釜殿の神饌を炊かせれば、この釜で古凶を占おうといった。御釜殿は今も温羅の霊魂をまつり、温羅の精霊は「丑寅みさき」として恐れられている。温羅伝説は、童話桃太郎の原型となったといわれている。
10) 鯉食神社
倉敷市矢部109
 温羅伝説ゆかりの地であり、傷を負い、鯉に姿を変えて逃げる温羅を、鵜に変化(へんげ)した吉備津彦命が喰いあげて捕らえたという伝説の残る神社です。

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(11) 造山古墳(つくりやまこふん)
岡山市北区新庄下
 古代吉備王国の首長の墓といわれる県下最大、全国でも応神、仁徳、覆中に次ぐ4番目の規模を持つ全長350mの大前方後円墳です。造営当時は日本一の規模で、その存在は畿内政権と肩を並べる古代吉備の勢力を物語っています。前方の径40mの円墳からは鏡、砥石、鈴、多量の鉄器などが出土し、一部が宮内庁に所蔵されています。しかし、その多くは謎に包まれたままの古墳です。
[ウイキペディア]
 造山古墳は、岡山県岡山市北区にある古墳時代中期の巨大前方後円墳である。墳丘の長さでは、全国第4位であり、墳丘に立ち入りできる古墳としては日本最大である。1921年(大正10年)、陪塚とされる中小古墳6基とともに国の史跡に指定されている。
 墳丘の長さ約350メートル、後円部復元径約190メートル、後円部高さ約29メートル、前方部幅215メートル、高さ25メートル、前方部の頂が壇状の高まりになり、三段築成の墳丘をもつ超巨大古墳で、岡山県では1位、全国では大仙陵古墳(約486メートル)、誉田御廟山古墳(約420メートル)、上石津ミサンザイ古墳(約360メートル)につぐ4番目の大きさである。周囲には榊山古墳(造山第1号墳)や千足装飾古墳(造山第5号墳)など6基の陪塚がある。現在に至るまで、本格的な学術調査が行われておらず、内部は未発掘である。特徴として、墳丘の長さに対して後円部の割合が大きいことが挙げられる。
 大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある。一方で、吉備の首長ではなく、中央の大和王権が造った古墳であり、その被葬者も倭王の一人ではないかと見ている研究者もいる。天皇陵に比定されている上位3古墳をはじめ近畿地方の巨大古墳が宮内庁により国民はもちろん学者・専門家も内部への立ち入りが禁止されているのに対し、ここは立ち入りできる古墳では国内最大のものであり、全国的に見ても貴重である。
 なお、総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と区別して呼んでいる。
 墳丘形状・埴輪などから考えて、本古墳の築造時期は5世紀前葉末から中葉はじめ頃と推定されている。
 周濠は長い間発見されず、有無をめぐって議論があったが2010年(平成22年)に行われた岡山大学文学部考古学研究室の試掘調査で存在が確認された。幅約20メートルと推定されている。また、葺石は角礫のごく一部が現れている。
(12) 備中国分寺
 岡山県総社市上林1046
 奈良時代に聖武天皇の勅願によって諸国に建てられた国分寺の一つです。南北朝時代に焼失しましたが、江戸中期以降に再建されました。緑あふれる田園にそびえる五重塔は重要文化財です。
(13) こうもり塚古墳
岡山県総社市上林
 岡山県総社市にある古墳で、形状は前方後円墳です。黒媛塚とも呼ばれていました。国の史跡に指定されています。箭田大塚古墳・牟佐大塚古墳と並んで、岡山県下三大巨石墳の一つに数えられます。
 古墳時代後期から終末期にかけての6世紀後半に築造されたと考えられています。自然の丘陵を利用して築造されています。墳長約100m・後円部径約55〜60mであって二段で構築されていたと推定されます。葺石や埴輪は確認されていません。
 後円部南側に花崗岩の巨石を組み合わせた横穴式石室が開口しています。石室は両袖式で全長約19.4m、玄室は奥行7.7m・幅3.61m・高さ3.6m、玄室の天井石は3枚の巨石で構成されています。玄室には長さ2.38m・幅1.4m・高さ1.31mの刳抜式家型石棺があります。石棺は貝殻石灰岩製で岡山県井原市浪形山にて産出されたものです。単鳳環頭柄頭・大刀・鉄鏃など武具、馬具、ガラス小玉・水晶製切子玉・金環など装飾品、鉄滓、須恵器類などが出土しました。1967年(昭和42年)2月15日、国の史跡に指定されました。

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(14) 作山(つくりやま)古墳
岡山県総社市三須
 岡山県総社市南東部に位置する古墳時代中期の前方後円墳で、国の史跡です。
 ごく低い丘陵上に築造されていて、墳丘の長さは約286メートル、後円部の最高地点24メートル・直径174メートル、前方部の長さ110メートル、前面部幅174メートル、高さ22メートルです。独立した小さい丘陵を加工した、三段築成の前方後円墳です。各段には密接した円筒埴輪が立ち並んでいたと推測されており、斜面は角礫が葺かれています。北側(前方部から見て左側)に造り出しがあります。外周には周濠がありません。後円部の外周には幅約20メートルの段が巡っていました。前方部前面と南東部に小さな丘が残っていて見栄えに欠け、巨大古墳としては陪塚を伴っていません。
 5世紀の中頃、古墳時代中期に造営された古代吉備王国の豪族の墓と思われます。全国で9位の規模の古墳で、岡山県下では造山古墳に次いで2位の規模です。
 大正10年(1921年)3月3日に国の史跡に指定されました。なお、これまで発掘調査は行われていません。
 前方部左隅に無料の駐車場、トイレ、岡山県の観光案内看板があります。陵墓等に指定されていないことから、自由に墳丘に立ち入ることができます。交通アクセスは良好とは言えませんが、吉備路自転車道が近くを通っています。
(15) 角力取山(すもうとりやま)古墳
岡山県総社市岡谷
 角力取山古墳は、南北30メートル、東西37メートル、高さ7メートルの方墳で、方墳としては、吉備国で最大です。
 この古墳の名称は、古墳の西側で、御崎神社の秋祭り最終日に奉納角力が戦前まで行われていたことに由来するといいます。
 この古墳の頂上には、推定樹齢約400年、高さ約20mのクロマツが生えており、大松と呼ばれています。昭和5年〜6年頃までには、4本ありましたが、現在は1本だけとなっています。岡山県指定天然記念物です。
(16) 宝福寺(ほうふくじ)
岡山県総社市井尻野1968
 岡山県総社市井尻野にある臨済宗東福寺派の寺院です。山号は井山(いやま)、本尊は虚空蔵菩薩で、宝福禅寺とも呼ばれます。室町時代の画僧雪舟が修行したことで有名な寺院です。
 宝福寺は創建の年代は不明ですが天台宗の僧・日輪によって開かれたとされ、元来は天台宗の寺院でした。鎌倉時代の貞永元年(1232年)に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められました。
 当時の天皇であった四条天皇は病気となっていました。鈍庵が天皇の病気平癒のために祈祷を行ったところ、壇前に客星が落ち、天皇の病気は平癒したといいます。星が落ちた場所に井戸を掘り「千尺井」と名付けました。これが山号「井山」の由来となりました。その後、寺院は天皇の勅願寺となり発展しました。一時は塔頭・学院55、末寺300寺を数えるほどの巨刹となり隆盛を誇りました。
 戦国時代に起こった備中兵乱のため、天正3年(1575年)には三重塔を残し伽藍のことごとくを戦火により失いました。その後、江戸時代に至るまでの間は荒廃していましたが、江戸時代初期に復興され、再び山門・仏殿・方丈・庫裏・禅堂・鐘楼・経蔵の禅宗様式七堂伽藍を備える本格的な禅寺となりました。本堂にあたる仏殿は享保20年(1735年)に再建されています。

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雪舟の鼠
 室町時代、備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた雪舟は、少年時代ここで修行を行いました。幼少より絵が上手でした。雪舟のエピソードとして鼠の絵の話が残されています。絵を描くことが好きであった雪舟少年は修行もそこそこに絵ばかり描いていました。修行に身を入れさせようと禅師は雪舟を柱に縛り付けて反省を促しました。夕刻、様子を見に来た禅師は逃げようとする一匹の鼠を見つけ捕まえようとしましたが動きませんでした。よく見るとそれは雪舟が流した涙で足の親指を使って描いたものであったといいます。それ以来、禅師は雪舟の絵を咎めなくなったといわれています。現在この時の床板は、取り外されています。
三重塔
 総高18.47mで、寺伝によれば弘長2年(1262年)鎌倉幕府の執権・北条時頼が寄進して建立したといわれていました。しかし、昭和42年(1967年)に行った解体修理の際、永和2年(1376年)の墨書銘が発見され、実際にはもう少し時代が下った南北朝時代の建築であることが確認されました。岡山県下では2番目に古い三重塔です。昭和2年(1927年)4月25日指定され、附(つけたり)指定の銘札は昭和45年(1970年)6月17日の追加指定です。
(15) 鬼ノ城(きのじよう)
総社市黒尾・奥坂
 動乱に明け暮れる7世紀後半の朝鮮半島で、百済に援軍をおくっていた日本は、663 年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。唐・新羅の日本侵攻を恐れた朝廷は、早急に北九州から瀬戸内沿岸、畿内にいたる国土防衛の施設を築く必要がありました。鬼ノ城もそれらの一つとする考えが有力です。鬼ノ城は、標高 400〜 600mの吉備高原の南縁に築かれています。眼下には古代吉備の中枢地たる総社平野と足守川中流域平野を望み、快晴時には瀬戸内から遠く四国の山並み望見され、遠望絶景の地に立地しています。攻めるに難しく、守るに易い地に、堅牢で緻密な城づくりをした難攻不落の古代山城です。

4. 第3日 頼久寺ほか
  (18) ぶどう狩り−新見市(にいみし)
  桃とぶどうは岡山県が誇る果物です。最終日に奥田氏友人の大倉さんの案内で、ぶどう園でぶどう狩りをしました。ぶどうの樹の、頭くらいの高さに実ったピオーネなどのぶどうを鋏で切って試食すると共に、お土産にしました。
  (19) 満奇洞
  ぶどう園近くの鍾乳洞に寄りました。
  (20) 頼久寺(らいきゅうじ)
  小堀遠州公は備中奉行ですから、地元のお寺の庭を造ったことになります。若い頃の作品のようです。右の写真は縁側から見たお庭です。
 見学はここで終わり、高速道路で岡山市に戻ってレンタカーを返し、新幹線で帰京の途につきました。大変に充実した3日間でした。
[ホームページなどから得た情報]
(18) ぶどう狩り−新見市(にいみし)
  山陽自動車道北房インターチェンジで奥田氏友人の大倉さんと合流し、彼が経営する新見地区のぶどう園に行きぶどう狩りをしました。前はタバコ畑だったものを葡萄園に切り替えてピオーネやシャインを生産しています。
[ホームページなどから得た情報]
(19) 満奇洞
岡山県新見市豊永赤馬2276-2
 鍾乳洞です。与謝野晶子が『奇に満ちた洞』と詠んだことから命名されました。最奥の洞内湖にかかる竜宮橋がみどころです。洞内は、一年中14、5度のため夏は天然クーラーのようです。
(20) 頼久寺(らいきゅうじ)
高梁市頼久寺町18
 天柱山安国頼久寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳ですが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号しました。当時、中国から帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖としました。後に永正年間(1504年)備中松山城主、上野頼久公は寺観を一新しました。
 頼久公は、大永元年に逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称しました。平生はただ頼久寺と呼んでいます。尚、当山の御本尊は聖観世音菩薩で、備中西国第5番の札所であり、昭和63年3月に開創された瀬戸内観音霊場第13番の札所でもあります。
庭 園
 この庭園は、蓬莱式枯山水庭園で、愛宕山を借景し白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現したお庭です。備中国奉行小堀遠州公の作庭によるもので昭和49年に国の名勝庭園に指定されました。

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[Last Updated 10/31/2013]