本の紹介 「三陸海岸大津波
シリーズ日本古代史@

   目 次

1. 本との出会い
2. 本の概要
3. 本の目次
4. まえがき
5. あとがき文庫化にあたって
6. 再び文庫化にあたって
7. 解 
8. 著者紹介
9. 新聞での紹介
10. 読後感



石川日出志著
岩波新書
「本の紹介5」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る


1. 本との出会い
 今回の東日本大震災を機に、この本は津波の記録として見直されています。新聞の書評などにも取り上げられています。古い本なのですが、一読の価値はあると思い載せることにしました。

2. 本の概要
 明治29年、昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。大津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか―前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに再現した震撼の書。この歴史から学ぶものは多い。    解説・高山文彦

3. 本の目次
 まえがき          10
1 明治二十九年の津波 13
 前  兆        15
 被  害        28
 挿  話        36
 余  波        53
 津波の歴史     58
2 昭和八年の津波    63
 津波・海嘯・よだ  65
 波  高        71
 前  兆        76
 来  襲        88
 田老と津波      95
 住  民       102
 子供の眼      120
 救  援       142
3 チリ地震津波     153
 のっこ、のっことやって来た 166
 予  知             166
 津波との戦い          171
  参考文献              179
  あとがき―文庫化にあたって  180
  再び文庫化にあたって      183
  解説 記録する力 高山文彦  185

目次に戻る

4. まえがき
 私は、何度か三陸沿岸を旅している。
 海岸線をたどったり、海上に舟を出して断崖の凄絶な美しさを見上げたこともある。小説の舞台に三陸沿岸を使ったことがあるが、いつの頃からか津波のことが妙に気にかかり出した。
 或る婦人の体験談に、津波に追われながらふとふりむいた時、2階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていたという話があった。深夜のことなので波は黒々としていたが、その頂きは歯列をむき出したように水しぶきで白くみえたという。
 私は、その話に触発されて津波を調べはじめた。そして、津波の資料を集め体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残しておきたい気持にもなった。……それが、この一書である。
 私は、むろん津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にすぎない。専門的な知識には乏しいが、門外漢なりに津波のすさまじさにふれることはできたと思っている。
   昭和45年6月                 吉村 昭

5. あとがき 文庫化にあたって
 20年以上も前から岩手県の三陸海岸にある下閉伊郡田野畑村に、毎年のように足をむけた。休養をとるためだが、小説の舞台にしたこともある。
 その間、村人たちから津波の話をしばしばきいた。美しい海面をながめながら、海水が急激に盛りあがって白い波しぶきを吹きちらしながら、轟音とともに岸に押し寄せ、人や家屋を沖へはこび去る情景を想像した。
 常宿にしていた旅館の女主人は、津波が来襲する直前、海水が沖に急激にひいて、海底が広々と露出したことも口にした。おそらく海草がひろがっているのだろうと思ったところ、海底は茶色い岩だらけであったという話が、妙に生々しく感じられた。
 私は、これらの話に三陸海岸と津波は切りはなせぬものだということを知った。それまで三陸海岸の北部にある久慈から南へ、羅賀、島ノ越、宮古、山田、釜石、大船渡、気仙沼、女川と、それぞれ泊り歩いていたので土地勘はあり、それらの地を襲った津波について実地調査をし、書いてみようと思い立った。
 最初に手にしたのは「風俗画報」で、そこには明治29年に三陸海岸一帯に来襲した大津波のことが「大海嘯哺被害録」として、上、中、下3巻に記されていた。専門の学者による地震、津波の原因、分析などの短い論文につづいて、各地の被害、救護状況その他が詳細に記されている。当時は、三陸海岸に通じる鉄道などなく、海岸ぞいの町村は、舟で連絡し合うだけの陸の孤島であった。が、「風俗画報」の記者は、海岸線の町村を丹念に歩き、惨状を記事にしている。非常な労力をついやしたはずで、現在の週刊誌の記者顔負けの精力的な取材がおこなわれたのを知ることができる。
 三陸海岸の津波に関する資料は、岩手県庁のおかれた盛岡市にあるはずで、私は東京をたち、盛岡へおもむいた。県立図書館で県庁関係の書類、当時の新聞などをあさり、専門家の調査研究書にも眼を通した。
 それを終えた私は、盛岡をはなれて海岸ぞいの町村歩きをはじめた。昭和8年の津波の体験者は数多くいるが、さすがに明治29年の津波のことを知る人は皆無に近かった。体験した方がいるというので、その家を訪れると、座敷で寝ていて、話をきくのを断念したこともあった。

目次に戻る

 結局、明治29年の津波について話をきくことができたのは、島ノ越の早野幸太郎氏と羅賀の中村丹蔵氏の2人だけであった。私が両氏を訪れた昭和45年に早野氏は87歳、中村氏は85歳であった。現在はお2人とも故人になられ、おそらく現在では明治29年の津波のことを知る人はなく、私は、幸いにも両氏から津波のことをきくことができたのである。
 昭和8年の津波については、田老町(当時は田老村)で貴重なものを見つけた。田老尋常高等小学校生徒たちの作文集であった。子供の鋭敏な眼に津波がどう映ったか、興味をいだいたが、読んでみると、予想通りのすぐれた作文ばかりで、しばしば眼頭が熱くなった。
 町役場の方の案内で、私は作文を書いた人を訪れた。それらの人たちは、今でも津波をおそれ、軽い地震があっても高台へ急ぐという。田老町の被害は甚大で、異様なほどの防潮堤が海岸ぞいにのびている。
 津波の調査をし、それを書いてから早くも14年がたつ。「海の壁」と題したが、文庫にするにあたって「三陸海岸大津波」と改めた。津波を接近してくる壁になぞらえたのだが、少し気取りすぎていると反省し、表題の通りの題にしたのである。

6. 再び文庫化にあたって
 3年前の1月下旬、岩手県の三陸海岸にある羅賀(らが)という地に建つホテルで、津波についての講演をした。沿岸の市町村から多くの人々が集ってきて、熱心に私の話を聴いて下さったが、話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について体験していないことに気づいたのである。 「明治29年の6月15日夜の津波では、この羅賀に50メートルの高さの津波が押し寄せたのです」
 私が言うと、人々の顔に驚きの色が濃くうかび、おびえた眼を海にむける人もいた。
 私は、34年前、仙台方面から青森方面まで約1カ月にわたって、太平洋に面した三陸沿岸を1人で旅をしたことを思い起していた。バスに乗りつぎ、時にはトラックやライトバンを呼びとめて次の町村まで乗せてもらい、津波の体験者の回想を求めて歩きまわった。
 明治29年の津波は、ジャバ島近くの島の火山爆発による津波につぐ世界史上第2位の大津波で、その津波については2人の記憶力たしかな体験者から生々しい証言を得たことは幸運であった。
 むろんその方たちは現在、故人になっていて、それにつぐ昭和8年に三陸沿岸を襲った津波の体験者も、生きている方は少ないはずである。
 その調査の旅をした頃、私はまだ十分に若く、元気で、1カ月近く町から村へとたどる旅はいっこうに苦にならなかった。今あらためて読み返してみると、その調査の眼が四方八方に十分にのびていて、自分で言うのはおかしいが、満足すべきものだったという思いがある。
 私の手もとに、1葉の古びた写真がある。海浜で蓆(むしろ)に全身をおおわれた遺体。その調査の旅でどなたかにいただいた写真だが、蓆の上には雪が附着していて、昭和8年の津波は3月3日だから、その折の写真にちがいない。
 今も三陸海岸を旅すると、所々に見える防潮堤とともに、多くの死者の声がきこえるような気がする。
          吉村昭              平成16年新春

目次に戻る

7. 解 説  記録する力  高山文彦
 山育ちで津波を知らない私は、吉村昭氏の『三陸海岸大津波』を読んで、子供のころ映画館でよく観た「ゴジラ」のことを思い浮かべた。
 ゴジラは津波のようなものかもしれない。はるか彼方から海を渡って上陸する姿は、チリで起きた大地震によって発生した津波が、ハワイ諸島を侵し、三陸海岸までをも侵そうとする姿に似ている。ゴジラが海から立ち上がるとき、海面も山のように立ち上がる。水の山脈は沿岸の町を呑み込んでしまう。
 ゴジラは海の底で眠り、海の底からやって来る。まるで三陸沖で海底地震を頻発させるマグマのようではないか。
 吉村氏は津波のことを三陸地方で「ヨダ」と呼ぶとしるしている。ゴジラにならえば、「ヨダ」とは津波を怪物に見立てた呼び名ではないのか。私が生まれ育った山には、「ディダラボッチ」という途方もなく大きな森の主が棲んでいた。ディダラボッチはときに荒れ狂い、山津波を起こし、麓の村を一網打尽にする。「ヨダ」とは、それに似た海の主のことなのではないのか。
 たとえば、八岐大蛇(やまたのおろち)である。首が八つ、頭が八つ、尾が八つあるその怪物は、里の娘を食べに来る。スサノオによって退治されることになる八岐大蛇とは、見はるかす彼方まで幾重にも折り重なる出雲の山々のことをあらわしていた。「八」とは「たくさんある」ということ、「岐」とは山々が幾重にも連なるさま、「大蛇」とはときおり濁流となって暴れ狂う川を指す。どこか生きものをあらわすような「ヨダ」という言い方も、土着的な信仰に根ざしたもののように思われた。
 津波のすさまじさと、津波と闘いつづけた人びとの姿を記録したこの本を読んでいると、ゴジラ映画でさえ切実なものに感じられてくる。そして私は、かつて自分が旅した自然災害に見舞われたいくつかの土地のことを思い浮かべ、あのときはああだった、このときはこうだったと、しみじみふり返った。
 本書によって考えさせられることは、かくも多様である。昭和45年に上梓されているのに、少しも古びていない。それどころか新しくさえ感じられるのは、きっと吉村氏が、津波の脅威を人間の生活の側に引き寄せて記録しているからだろう。
 三陸の人びとにとって、津波は宿癖(しゅくあ)のごとくある。ならば新天地を求めて移り住めばよい。しかし人びとは土地を離れず、津波をいつか必ず来るものと受けとめて生きてきた。そうした人間の姿が、簡単に故郷を離れることの多くなったいまでは、新しく感じられるのだろうか。

 吉村氏は徹頭徹尾「記録する」ことに徹している。だから、付け焼き刃的なフォークロアの甘いアプローチをしない。情緒的な解釈もしない。圧倒的な事実の積み重ねの背後から、それこそ津波のように立ち上がってくるのは、読む側にさまぎまなことを考えさせ、想像させる喚起力である。
 明治29年の大津波と昭和8年の大津波で、もっとも大きな被害を受けたのは田老(たろう)町(ちょう)の人びとであった。私は田老出身の国会議員を知っていた。昭和8年の大津波のあとに生まれたその人は、田老は三陸のなかでも波が一等荒いところなのに満足な波止場さえない見放された土地だったと言い、他所(よそ)の人たちは「津波太郎(田老)」と呼んで、 だれも住みたがらなかった、と語ってくれたことがある。
 本書を読んで私は、あの議員の家系は2度の大津波で辛うじて生き残ったひと握りの人だったのかとはじめて知り、文中にほんの1カ所だけ登場する人の名字と同じなので、もしかしたら彼の親かもしれないと考えたりした。
 大人になったら政治家になって田老の港を整備したい、それが子供のころの願いだったと話していたが、なるほどこれほどまで壊滅的な打撃を被った土地の生まれなら、そう願っても不思議ではないと腑に落ちた。

目次に戻る

 その田老をはじめとする三陸沿岸の人びとが、明治の大津波についで、なぜ昭和の大津波でも大きな犠牲を払わなければならなかったのか。これは悔いても悔いきれない、痛ましい事実である。
 鰯の大群が来て、おどろくばかりの豊漁がつづき、やがて海に大干潮が訪れた。湾の中は海底が露出し、川は激流となって海に流れ込んだ。海上には稲光のような青い閃光が走り、やがて地震が家々をはげしく揺らした。
 どれもこれも明治の大津波のときと同じ前兆だったが、たいていの家の者が地震で飛び起きたあと、また蒲団にもぐり込んだ。そのために、逃げおくれたのである。「冬季と晴天の日には津波の来襲がない」と信じられていたからだ。多くの老人たちがそのことを口にし、家族は安心して床に就いた。迷信は人を怠惰にする。
 明治の大津波が来たのが旧暦の端午の節句、昭和の大津波が来たのが桃の節句、このふたつの符合がなんともやるせない。その日、たくさんの子供が死んでいった。
 昭和の大津波で生き残った子供たちは、体験を作文にあらわした。孤児となった子、親きょうだいを探す子、津波に呑まれて助かった子−−彼らは、恐怖や喪失の悲しみを一歩ひいたところから見ているように感じられる。その距離感が、悲しみや痛みを倍加して伝えてくる。身を切るようにして綴られた子供たちの作文こそ、「記録」とはなにかを語りかけてくるようだ。

「私は、私のおとうさんもたしかに死んだだろうと思いますと、なみだが出てまいりました。
 下へおりていって死んだ人を見ましたら、私のお友だちでした。
 私は、その死んだ人に手をかけて、
『みきさん』
 と声をかけますと、口から、あわが出てきました」

 この作文を書いた少女は、40代半ばとなって、幸せに暮らしていた。吉村氏は彼女に会い、話を聞く。ふたりが会うという事実が、とても尊い出来事のように思われた。 「あわが出てきました」とあるのは、その地方で死人に親しい人が声をかけると口から泡を出すという言い伝えから来ている一文だそうで、少女の死体をかこんでいた人たちは、「親しい者が声をかけたからだ」と涙を流したという。
 これもまた、迷信ではあろう。しかし、こちらの迷信は小さな奇跡として、寒さと悲しみの底にある人びとのこころに、ほのかな灯をともしたのである。

 昭和35年の南米チリの大地震が運んできた大津波では、気象庁は津波警報を発令しなかった。三陸地方に地震はなかったので、土地の人びともまさか津波が来るとは思わなかった。
 規模は過去の2度の大津波よりも小さい。被害も少なかったが、地球の反対側で起きた地震が、三陸沿岸まで津波を運んでくるという事実が、人びとを津波にたいしてさらに注意深くさせた。

目次に戻る

 こうして彼らは昭和43年、十勝沖地震による大津波に襲われたとき、それまで積み重ねてきた避難訓練の成果せ見事に発揮して、被害を最小限にくい止めることができたのである。
 10年ばかりまえ、私は田老を訪れたことがある。異様なほどに巨大な防波堤が、視界をさえぎるように海にそそり立っていた。景観美をいちじるしく損ねる姿に閉口したけれども、それはただ過ぎ去るだけの旅人の独りよがりというものだ。20メートルをはるかに超える高さで押し寄せてくる大津波を、この防波堤がすべてくい止めることができるはずがない。海に生きる人びとは、津波の来襲を拒めない。いや、拒まないのである。 「津波は、時世が変ってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」という古老の言葉が輝いて見えるのは、明治の大津波から十勝沖地震津波までを経験し、生き抜いてきたからだ。
 記録に徹した吉村氏の筆致の向こうから立ちのぼってくるのは、津波で死んだ人たちの声や、生き残ったとしてもなにも語らぬままこの世を去った人たちの声である。その人たちは、津波の恐ろしさを語るより、三陸の海の豊かさを語るようにも思われた。
 彼らは「津波が来るからといって、宝の海を捨てられるものか」と私の耳元で囁き、津波に襲われるまでの暮らしぶりについて、話しかけてくる。そうした多くの死者たちに支えられた本書は、そのときどきの人間の過ちをもふくめて、私たちに「こうしたほうがいい」と知恵を授けてくれる。
 記録文学者としての吉村氏の根幹を、本書は十二分にしめしている。卓越した記録者とは、記録することの叶わなかった人間の声ばかりか、草や岩や魚や水といった無言のものたちの声まで運んでこようとする。証言者の声は、彼らの声に磨かれて、さらに輝きを増すのだろう。
 未来に伝えられるべき、貴重な記録である。文春文庫として再々刊されるのは、個人的なことを言わせてもらうと、あとにつづこうとする者にとって、直接教えを受けるようで嬉しい。吉村氏がこれを上梓したのは、43歳のときであった。私は「記録する意志」について、30年まえから届いた大切な伝言として受けとめた。
                                                                              (作家)

8. 著者紹介
吉村 昭(よしむら・あきら)
1927年、東京生まれ。学習院大学中退。66年「星への旅」で太宰治賞を受賞。同年「戦艦武蔵」で脚光を浴び、以降「零式戦闘機」「陸奥爆沈」「総員起シ」等を次々に発表。73年これら一連の作品の業績こより菊池寛賞を受賞する。他に「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞(79年)、「破獄」により読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞(85年)、「冷い夏、熱い夏」で毎日芸術賞(85年)、さらに87年日本芸術院賞、94年には「天狗争乱」で大彿次郎賞をそれぞれ受賞。97年より日本芸術院会員。2006年7月31日永眠。

9. 新聞での紹介 震災記録を超える「文学」
 日本を代表する歴史小説の大家であり、2006年に79歳で没した吉村昭が、1970年に刊行した書物である。明治29年、昭和8年、昭和35年の3度にわたり青森・岩手・宮城の三陸地方を襲った大津波の体験者への取材を元にした、著者の真骨頂というべき「記録小説」だが、このたびの震災を受けて文庫版が大増刷された。フィクション、ノンフィクションを問わず、地震や津波にかんする本は「売れてる」そうだが、題材といい題名といい、はからずもきわめて時宜にかなっているとも思える本書は、しかし数多(あまた)の「震災本」の類いとは、いささか趣が異なっている。
 「まえがき」にあるように、「津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にすぎない」という吉村氏が大津波のことを調べ、実際に災禍に遭遇した人々から話を聞くうちに、「一つの地方史として残しておきたい気持(きもち)」になって著されたものである。資料と証言という「記録」に先立つ「事実」の集積を駆使しながら、他の吉村作品と同じく、筆致はあくまでも淡々としており、これみよがしな深刻さや、扇情的な生々しさからは程遠い。当事者ではなく研究者でもない。そればかりか、ここにあるのは、いわゆるジャーナリスト的な視線とも違う。ひたすら「事実」だけが語られていながら、かといって単に客観的な「記録」とは異なる、(誤解を畏(おそ)れずに敢(あえ)て書くと)絶妙な距離感の、要するに「小説」的としか呼びようがないような印象が、本書にはある。そしてこのことは、著者が痛ましく忌まわしい大津波という出来事から受け取っただろう途方もない衝撃と、何ら矛盾してはいない。
 ひょっとすると一種の「災害対策本」として買い求められているのかもしれないが、そういうものではない。これは「記録=文学」なのだ。(文春文庫=460円、10刷20万部)
佐々木敦(批評家)
(出典 朝日新聞 2011.5.15)

10. 読後感
 今回の東日本大震災をうけて、この作品は、ますます見直されることと思います。昭和になって起きた津波でさえ、その教訓が活かせなかったことは残念なことだと思います。

「本の紹介5」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る


[Last updated 7/30/2011]