本の紹介 「本は、これから

   目 次

1. 本との出会い
2. 本の概要
3. 本の目次
4. 序 本の重さについて
5. 編者紹介
6. 読後感




池澤夏樹編
岩波新書
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1. 本との出会い
 この本は、書評などで取り上げられ、多くの識者が電子書籍という大きなインパクトに対して、それぞれの立場から意見を述べており、本を愛する人の必読の本だと思いました。最初は図書館で借りて読み、次に購入して読み直しました。

2. 本の概要
 「本」とはいったい何か。それはいかに変貌するのか。鋭いアンテナを持つ37人が、書店・古書店・図書館・取次・装丁・編集、そして練達の書き手・読み手の位置から、本の過去と未来を語る。

3. 本の目次
本の重さについて−序− 池澤夏樹(次項参照)
電子書籍時代       吉野朔実          2
本の棲み分け       池内了            4
発展する国の見分け方 池上彰           10
歩き続けるための読書 石川直樹          17
本を還すための砂漠   今福龍太          24
本屋をめざす若者へ   岩楯幸雄          31
書物という伝統工芸品 上野千鶴子         36
活字中毒患者は電子書籍で本を読むか? 内田樹   42
生きられた(自然としての)「本」 岡崎乾二郎      49
本を読む。ゆっくり読む。     長田弘         56
装丁と「書物の身体性」      桂川潤         63
半呪物としての本から、呪物としての本へ 菊地成孔 70
電子書籍の彼方へ       紀田順一郎       77
実用書と、僕の考える書籍と 五味太郎        84
永遠の時を刻む生きた証    最相葉月        91
綴じる悦び閉じない夢想     四釜裕子        98
誰もすべての本を知らない   柴野京子        105
変わるもの、変わらないもの   鈴木敏夫       112
三度目の情報革命と本     外岡秀俊        119
私(たち)はなにをどう売ってきたのだろうか 田口久美子 126
最悪のシナリオ          土屋俊         133
「追放本」てんまつ        出久根達郎      140
図書館は、これから        常世田良       147
地域に根づいた書店をめざして 永井伸和       154
電子書籍のもつ可能性      長尾真        161
和本リテラシーの回復のために 中野三敏       168
「買書家」の視点から       成毛眞        175
届く本、届かない本        南陀楼綾繁     182
電子書籍がやってくる      西垣通        189
出版という井戸を掘る      萩野正昭       196
「本ではない本」を発明する   長谷川一       203
本と体                幅允孝        210
大量発話時代と本の幸せについて 原研哉      217
紙の本に囲まれて         福原義春      224
読前・読中・読後          松岡正剛      231
しなやかな紙の本で、スローな読書を 宮下志朗  238

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4. 序 本の重さについて    池澤夏樹
 本は、これから……どうなるのか?
 いくつかの電子端末が発売され、少しずつコンテンツも供給されるようになって、読書の風景が変わろうとしている。
 それについて多くの人が意見や思いを寄せてくれた。それを集めて、ここに新書という在来本の形式に載せて世に送り出す、と書きながら、つい在来本などという言葉を造ってしまったことに気づいて、本当にそういうことかと考える。
 ここ数十年で本作りは変わった。出版という言葉のとおりまだ「版」の概念はあるけれども、活字はもう無い。版を用意する過程は本そのものよりずっと早く活字合金の重さから離脱して、物質への依存から離れて、電子化してしまった。
 執筆する方も紙を捨てた。ぼくはワープロで書いた最初の芥川賞作家だった。当初はフロッピーで入稿するということをしようとして、受ける側にその用意がなくて混乱したこともあった。以来、メモやノートや詩は紙にボールペンで書いても、原稿はすべてキーボードで書いてきた。
 しかし本そのものは今もって紙に印刷し、製本するという形で流通している。読者は本を手に持って、1ページずつ開いて読む。時にはぱらぱらとめくる。
 それが変わろうとしている、と世間は言う。本当だろうか?
 今回、本についていろいろな考えがここに結集(けつじゅう)された。敢えて古い言葉を持ち出したが、これは本来は入滅後、釈迦の考えを弟子たちが編纂したことを言う。恐れ多いことだが、本というものの基本形を辿ればどの文明圏でも聖典に行き着く。その歴史は忘れないでおいた方がいい。
 それはともかく、ここに集められた文章全体の傾向を要約すれば、「それでも本は残るだろう」ということになる。あるいはそこに「残ってほしい」や、「残すべきだ」や、「残すべく努力しよう」が付け加わると考えてもよいかもしれない。
 みんな本を愛している。
 自分のことを考えてみると、ぼくの人生は二つの欲望に沿って運営されてきた。一方はじっと坐って邪魔されることなく本を読んでいたいというものであり、もう一方は遠くへ行きたいというものだった。そして困ったことにこの二つは互いに矛盾した。
 本は重くてかさばる。一所に定住していると本はどんどん増え、場所を取り、時には家を傾ける。かつて某先輩作家のマンションは本の重みで床に亀裂が入ったという。言うまでもなく移動の際には邪魔になる。
 読者が本に求めるのは内容であって紙の束としての存在ではないはずだ。紙は、なにしろ元が木だから、水分を抜いてもまだ質量がある。スペースも要求する。その一方、その形あるところに人は愛着を覚えたりする。手の中の重さ、指に触れる紙の質感、匂い、活字本の場合は紙の表面のかすかな凹凸、古い本ならば天に積もった挨、それを防ぐべく施された天金の褪せた輝き……
 つまりフェティッシュとしての本。
 古書愛は三段階に分かれ、それぞれ書痴(しょち)、書狼(しょろう)、書豚(しょとん)と呼ばれるとか。本の希少価値を巡る狂騒についてのエピソードは世に少なくない。
 そこまで行かなくても人はかつて読んだ本を大事にする。読むという行為は読み終わった時には完結しているはずだが、その読書体験の象徴として本そのものも手元に残したい。いつかまた読むかもしれないし、などと考えると手放せない。本は人生の里程標となる。
 実のところ、これは賛沢な悩みである。我々は本を読みすぎるのだ。その大半は読み捨て・読み流し。かつて新井白石のような優れた知識人が生涯に読んだ本の何十倍もの量を我々はただ消費している。何万本もの立派な木をパルプにしている。それが証拠に取次店の倉庫では本をフォークリフトで運んでいるではないか。本には体積と重量がある。

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 自分のことに話を戻せば、読書の欲望と移動の欲望という矛盾の間で折り合いをつけるために、本はなるべく始末することにしてきた。読み終わった本は手放す。
 本というのはまことに特殊な商品で、多品種少数生産とか(少なければ五百部でも作る)、お一人さま一点販売とか(ラーメンなら毎週でも買うのに)、徹底した選別性とか(秋成がないなら西鶴でいい、ということにはならない)、いろいろ制約が多い。だからこそ古書店という再利用の道が完備しているのは喜ぶべきことだ。
 そう思って巡ってきた本の大半は古書店に回してきた。次のよき読者にうまく出会えるようおまじないをしてマーケットに送り返してきた。
 フランスに5年住んで日本へ帰る時、その5年の間も続けていた日本のメディア向けの書評用の本が大量に残った。毎月のように段ボール一箱分届いていたのだが、これをまた日本に持ち帰るのも愚かしい。これらの本にはフランスまで運ばれたという付加価値があるが、しかしフランスには日本語の本を扱う古書店はない。考えたあげくソルポンヌの日本語学科に寄付することにした。最新刊で一応はぼくの目で選んだ良書だから、学生諸君、今の日本を知るためによろしく活用していただきたい、と伝えた。
 古書店の究極の機能を体験したことがある。2002年の秋にイラクに行った時、開戦前夜のバグダッドで古書市に行った。あの古代以来の都では、ムッタナビという街路で週に一度、古本の青空市が開かれる。バグダッド市民は読書好きで(アラブ圏でいちばん本を読むのはイラク人という定説がある)、本当に老若男女たくさんの人が群がって本を買っている。道の左右は数百メートルにわたって延々と古本屋。
 そこでなんとぼくは『星と風のバグダッド』という日本語の本を見つけたのだ。おそらくこの町に駐在することになった商社マンが参考書として日本から持ってきて、帰る際に置いていったのだろう。それをバグダッドの古書流通システムは日本人旅行者であるぼくの手に届けた。
 (5か月後にアメリカはこれらすべてのバグダッドの文化を破壊した。)
 異国で日本語の本が日本人に届く。
 特にあてもなく店頭でおもしろそうな本を探す、という昔ながらの古本趣味の成果だ。本に紙という実体があるから出会えたとも言える。

 しかし、本の重さには悩まされてきた。実体は重い。
 今年のはじめだったか、Kindleを入手した。重さが290グラムで、ここに単行本にして千五百冊が収まるという。
 まずはその点が魅力だ。
 新刊書は10ドル前後だが、著作権の切れたものは安い(今のところコンテンツに日本語のものはない)。まずはレファレンスに活用した。『聖書』も『シェイクスピア全集』もただ同然か実際にただ。それで検索ができて、持ち歩ける。『グレート・ギャッツピー』の邦訳を前にここのところは原文ではどうなっているかと知りたい時など、瞬時にしてわかる。
 普通の読書に使ってみると、ページを繰るのが少しまだるっこしいが行儀よく一ページずつ読んでゆくのなら支障はない。液晶ではなく電子ペーパーだから画面は発光していない。その分だけ目が疲れない(ような気がする)。
 飛行機で運ばれている無為の時間に何か読もうという時などには最適だと思った。ミステリの類を数点用意して乗ればどれかはおもしろいだろう。
 そうやって読んでいると、脇で声がした。
 「あの、お客さま」
 見るとキャビン・アテンダントがおそるおそるという風情でこちらにかがみ込んでいる。
 「お邪魔して申し訳ございませんが、それはどういうものでございますか?」
 どうにも好奇心を抑えきれなくなったらしい。
 そこで、まあとくとくと説明したのだが、その時ぼくが読んでいたのはアメリカのエロテイカだったから、彼女が本当に試し読みをしようとしたらちょっと恥ずかしいことになっていただろう。

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 こんな風に電子ブックは我々の日常に侵入しつつある。iPadは持ってはいてもまだ読書の道具としては活用していない。なんといっても日本語のコンテンツが少ない。
 身辺の本を少なくしようとは思えども60年も読書人生を続けていると、フェティシズムとはまた別のところで、捨て切れないものが次第にたまってくる。早い話が自分の著書は一通り手元に置きたいし(それがけっこう欠けていたりして)、親の書いたものも無しでは済まされない。 その他にも祖母が持っていた賛美歌集(この祖母は聖公会の伝道師だった)とか、林達夫さんがずっと座右に置いておいたのを頂いたギリシャのガイドブックとか、要するに縁(えにし)のある本が人生と共に増えてゆく。
 それに、実はフェティシズムを完全に排除するのもむずかしい。何10年も前に読んだプラントームの『艶婦傳』を再読したいと思って探したところ、インターネットの古書店にはかって持っていた新潮文庫の版と昭和25年に河出書房から出た豪華な限定版があった。そこでつい「限定本壱千冊之内0664冊」という方を買ってしまった。これはまた手放すこともできるだろう、と自分に言い訳しながら。
 実を言えば、今の段階で電子ブックなどよりずっと恩恵を被っているのはこのインターネットによる古書の通販システムだ。かつては欲しい本を探して神田の古書店の棚を尋ね歩いたものだが、今はたいていの本は即座に手に入る。古書というものの概念が変わってしまった。それはまた、手元の本を惜しげもなく放出できるということだ。必要ならばまた買えばいい。日本中の本ぜんたいが一種の共有財産と化してきた。
 グーグルはそれを全世界的にやろうとしているのだろう。すべての図書館のすべての本を収めたサイト。ボルヘス的な妄想の現実化。一私企業という点に躊躇を感じるが、どこかの政府がやるとなったらもっと抵抗感は強いはずだ。
 人々がインターネットに対して抱く遽巡はよくわかる。こんなにすべてを任せてしまっていいものか? 万事が目方を失って軽くなり、我々の知はひたすら表層化しているのではないか? モノに関するテクノロジーが消費を加速したように、デジタル化は知をただ浪費しているだけではないか?
 先日、「繋がぬ沖の捨小舟/生死の苦海果もなし」という2行の出典を探さねばならなくなった。昔ならば、そう珍しいものではないはずと当たりをつけて、いちばん大きな国語辞典で「苦海」を引いて用例がないか探したところだ。「捨小舟」よりは「苦海」の方がヒット率が高いだろうと見当を付けるが、辞典では「捨小舟」と「苦海」の二つのキーワードを重ねての検索はできない。インターネットならば2行をまるまる放り込めば即座に答えが出る−−『弘法大師和讃』だった。
 ここで自分の無知を言うのは知的スノビズムだから、こんなもの知るわけがないと開き直ろう。その先で、簡単に検索できることによって『弘法大師和讃』の価値は下がったのかと自問してみる。あまりに簡単にわかってしまったがために自分はこの知識を軽く扱ってはいない か? 見つけて当たり前と思って、その重みを正しく受け取っていないのではないか?
 どこかの書庫の埃の匂いの中を午後一杯うろついて見つけたものならばおまえはもっと深い意味をこの2行に読み取ったのではないか。安易な検索によってその契機を逸した。一事が万事、おまえの書くものはすべて頼りなく軽い。
 紙という重さのある素材を失ったために文筆の営みはすっかり軽くなり、量産が可能になった分だけ製品はぺらぺらのものばかりになった。そもそも人類の知の総量が変わるはずがないのだからインターネットによって生産を加速すれば中身は薄まる理屈だ。
 電子ブックはその一つの段階でしかない。

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 紙でできた本への愛着はよくわかる。自分もそれを共有していると思う。
 その一方で自分は紙に書くことを捨てた身である。父の世代に身近なものだった文房四宝は我が身には遠いものだ。
 この『本は、これから』に文章を寄せて下さった方々はみな本の世代に属する。遷移を横目で見ながらも片手は本の上に置かれている。その姿勢で本への愛を宣誓してくださる。だからまだしばらくは本は無くならない。
 しかし、世代は代わるのだ。新しいガジェットは若年層を突破口に社会に浸透する。今の子供たちはもう固定式の電話をほとんど使わない。韓国とシンガポールではあと2年もすれば教科書が電子端末に代わるという。
 すべての文化が物質から遊離して(解放されて、と言うぺきか)重さを失った時、ホモ・サピエンス・サピエンスは別の生き物になっているかもしれない。肉体だけは元のまま、という思い込みがどう維持できるか。我々の肉体は重力に抗することでこの形を保っている。周辺に置いた道具や素材がみなデジタル化によって重さを失ってゆく時に、どうして肉体が保てるだろう。
 本の重さは最後の砦かもしれない。

5. 編者紹介
池澤夏樹(いけざわなつき) 1945年北海道生まれ。作家。小説に『スティル・ライフ』『マシアス・ギリの失脚』『花を運ぶ妹』『静かな大地』『カデナ』など多数。『読書癖(1〜4)』『嵐の夜の読書』などの書評集をほじめ、エッセイや評論も数多い。『世界文学全集』の個人編集を行う。

6. 読後感
 新しい電子書籍を使ったことのある方から、未使用の方まで、電子書籍に危機を感じている方から、過少評価ではないかと思われる方まで、人によって受取り方は様々です。電子書籍の利点(多くの書籍を収納できる、持ち運びに便利など)と共に、弱点(今読んでいる頁の位置がわかりにくい、目が疲れるなど)を良く知ったうえで比較する必要があると思います。私個人として、試用してみたいとは思いますが、実際に購入するのは、端末やデータベースなどが、もう少し落ちついてからでしょう。逆に廃刊になった本は、オンデマンドで購入してみようかと考えています。

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[Last updated 2/28/2011]