12 ケルン・コンサート/キース・ジャレット


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  目 次

1 タイトル、曲名、演奏者
 CDのタイトルと収録された曲をご紹介します。
2 CDの紹介
 ライナーノートに載っている、演奏者キース・ジャレットと、曲についての紹介です。
3 CDの聴き方
 「ジャズ完全入門 !」に載っている内容で、このCDの聴き方が判ります。

1 タイトルと曲名
KEITH JARRETT/THE KOELN CONCERT
キース・ジャレット/ザ・ケルン・コンサート
@ケルン、1975年1月24日 パート I
KOELN、January 24, 1975 Part I
Aケルン、1975年1月24日 パートUa
KOELN、January 24, 1975 Part Ua
Bケルン、1975年1月24日 パートUb
KOELN、January 24, 1975 Part Ub
Cケルン、1975年1月24日 パートUc
KOELN、January 24, 1975 Part Uc

ALL COMPOSED BY KEITH JARRETT
1975 ECM RECORDS GMBH

1974年度の「ジャズ・ディスク大賞・金賞に輝く(ソロ・コンサート)に続くキース・ジャレットの西独ケルン、オペラ・ハウスにおけるソロ・コンサート・ライヴ!

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2 CDの紹介

 緞帳はあがっている。
 明るいプレーンな照明の舞台の中央に、黒くくっきりと浮かぶコンサート・グランド。
聴衆は間もなく下手から現れるその夜のアーティストを軽い緊張とともに待っている。ジャズ・ピアニスト、キースジャレットのピアノ・ソ口・コンサートは、クラシックのビアノ独奏会にいつも見られる開演寸前の風景そのままである。
 だが拍手の嵐とともに現れたキースは正装どころか、しわの入ったズボンに縞のシャツというふだん着姿、正装したクラシックのピアニストのような一種の気取った足どり、ポーズとは対照的である。拍手を受けとめるかのような形式的なお辞儀の代りに、かすかに頭をさげただけでピアノに向う。そして気持を落ちつけるかのようにほんのしばらくの間をとって演奏を始める。必ず、あらかじめ発表された曲が演奏されるクラシックのリサイタルとはちがってキースのソロ・コンサートは、全くの即興による演奏なのである。
 このような演奏会は数世紀前のヨーロッバでは珍しいことではなかつたといわれているが、いつの間にかクラシックの演奏会は、自作曲にせよ他人の書いた曲にせよ既に書かれた作品を演奏するようになってからも長い。インプロヴィゼイション・プレイを生命とするジャズの場合にも、ピアニストはリズム・セクションを伴つて演奏するのが殆どしきたりのようになっているし、編成が大きくなれば、ソロイスト以外のメンバーはアレンジされた譜面に従って演奏するし、小編成の場合には打ち合わせやリハーサルでキイの動きや演奏のバターン、段取りを決めて演奏することになっている。尤も演奏中にリーダーのサインでソロの長さが伸ばされたり、アンサンブルがくりかえされたりすることはよくある。キースのソ口・コンサートのような純粋な即興による一夕のコンサートというのはジャズの世界でも彼のそれが初めてである。
 キースにとつても実験であり、おそらく冒険でもあつた彼のソロ・コンサートは、はじめニュースとして伝わり、間もなく3枚組の<キース・ジャレット・ソ口・コンサート>として紹介され、その直後(1974年1月16日)日本のステージでナマできくこともできた。そしてこの3枚組のアルバムは、1974年度に発売された1000種に近いジャズLPのなかのベスト・レコードに選出されている。(「スイングジャーナル誌」主催のジャズ評論家による年間ベスト・レコード選出行事で「ジャズ・ディスク賞・金賞」を獲得した)
 その3枚組は、1972年8月から73年7月までにモールド、ストックホルム、ニューヨーク、口ーザンヌ、ベルン、ブレーメンの各地で行なわれたコンサートの録音のなかから、キースとプロデューサーのマンフレート・アイヒャーが音楽的にも、録音枝術的にも最もすぐれたものと判断したローザンヌとブレーメンのコンサートの演奏を合わせたものであった。(但し演奏には編集的な手を全然加えていないという)

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 キースのソロ・コンサートの演奏は曲名もなく、どこどこでの演奏としか記されていないが、演奏のたびに内容もプレイもちがったものであることは、レコードの<ソ口・コンサート> と日本でのソロ・コンサートとをききくらべてもあきらかである。
 最初、実験的に行なわれたキースのソロ・コンサートは予想以上の好反響だったことに勇気を得て、グルーブを率いてのコンサートと併行してその後も引き続き行なわれてきたが、プ口デューサーのアイヒャーは1975年に入ってさらに新しいソロ・コンサートのアルバム制作を考え、5回にわたるコンサートを録音。その中から西ドイツ、ライン地方の古都ケルンのオペラ・ハウスで1月24日に行われたソロ・コンサートがCD化されて、早くもここに登場した。
 この2度目の5回にわたったコンサート録音を終えた時点でアイヒャーはこう語っている。「キースはよく知られているように、きわめて感受性に富んだミュージシャンです。前の“ソロ・コンサート"を制作した1973年ごろにくらベ、キースの演奏が少しずつ変ってきていることは事実です。というよりも、私はキースが同じインブロヴィゼイションを2度くり返すのを聴いたことがありませんし、演奏するたびに新しいものが現われ、我々はその都度、新鮮な衝撃を受けずにはいられないわけです。今回のツアーでも、演奏地が変るたびに、キースがその土地で何を感じ、何を考え、それがどのような音楽として現われてくるかをたのしめた。このことはこの上もないすばらしい経験でした」と。キースのソロ・コンサートにおける演奏は、もしもジャズに対しての古い一般的な既成概念にこだわってきくならは、ジャズを逸脱したものにみえるにちがいない。ジャズという名称で呼ばれるようになった音楽はこの半世紀を越えるあいだにめざましい進歩と変化を遂げてきた。ジャズという名称の意昧するものも当然変化してきた。音楽も名称も常に流動的で進歩を続け、変貌している。
 キースのこの純然たるインプロヴィゼイション・ソロは、その純度の高い即興演奏ということだけでジャズと呼んでよいか、そこにも問題はあるが、ジャズメンとして多くの実績を持ち、ジャズ音楽家として行動しているキースは、そうした名称についてのこだわりを持っていないにちがいない。彼は彼の音楽を創ることに常に懸命であり、自己に対しても聴衆に対しても誠実であるだけである。われわれは既にレコード化されたソ口・コンサートとナマのソロ・コンサートに接しているので、今回のCDに、最初の3枚組をきいた時のような驚きは感じないが、それだけにキースの意図やその表現についてより冷静な鑑賞力を備えることができている筈である。
 今回のCDは、再びピアノという楽器のすばらしい機能を通して、作曲家としてピアノ・プレイヤーとしてのキースの才能、人間性、心のー瞬ー瞬の動きをダイレクトにきく者に伝えている。実際にコンサート会場で演奏者のプレイを直接きき、音楽家キースと限られた空間と時を共にするスリルとよろこびにくらベればある程度割引きされるのはやむを得ないとしても、このレコーディングは音質的にも臨場感からも前回に優るとも劣っていないとおもう。

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 キースのこのコンサートはわれわれに、ジャズについて、ピアノという楽器について、音楽全体について考え直す機会を与えてくれている。
ー人の作曲家=ピアニストにとって大きな冒険であり、賭けでもあるこのインプ口ヴィゼイション・ソ口・コンサートについて、キースは「今までにつくられたことのない種類の音楽であり、やがて一般化されることが望ましい音楽である」といい、ニューヨークでのコンサートの評を書いたイルハン・マイマログリーは「キース・ジャレツトのこうした考え方とやり方は既に普及しつつあり、まもなく世界的な規模で発展するにちがいない」と書いているのは大変興昧ぶかく、重要なことである。こうしたコンサートの場合、演奏者の健康状態、精神的な安定感といったことが具体的な条件になることが充分考えられるが、アルバム<ソ口・コンサート> に収録されているブレーメンのコンサートの当日、キースは体調がわるく背中の痛みを訴えたためにー旦コンサートは中止と発表、開演の4時間前になってキースが「どうしてもやりたい」と言い出し敢行したために、わずかな聴衆を前にしたその演奏は、最上の出来となったという。こういう話をきくと、何回かのコンサートを録音したものから最良のものを選んでCD化し、それをきけるCDの利点もあるわけである。
 こうした点に関してキースが前回のアルバムに述ベている言葉は、興昧深く、重要なことなのでここに要点を再録しておくことにしたい。「・・・ー人のアーティストが、雰囲気や聴衆や場所や楽器によって支配される自由な創造の意昧−そういった条件はことごとくアーティスト自身からひきおこされ、諸条件にはねかえるものであるから、成功と失敗はいつにかかつてアーティスト自身にあるという真実を確認することが、私に対するこの試みの意味であったといえる。 (中略)
 このアルバムのコンセプション、意図は単純である。私のすべてのコンサートと同様、ここに演奏されたものは、私が以前にー度も演奏しなかったものであり、今後もこの通り演奏するものではない。妙なカテゴリーにはめこまなければ、今までつくられたことのない種類の音楽であり、やがてー般化されることが望ましい音楽である。
 いったん録音された音を編集でカットするようなことは一切しなかつた。
 道徳的考察=私は顕示を目的とするエレクロト・ミュージックに対する反対運動を続けてきたし、今でもそれを続けている。電化音楽はわれわれにとって日常のものとなっ たが、音楽は電線によってふりまわされるベきものではな い。(この意見はいかにもキースらしく、共感を呼ぶ。)
 最後に私は、自分の目的としているもの、理想としている ものについて、自分自身の立場を鮮明にしておきたい。私は「芸術」を信奉しない男だ。その意昧で私はアーティストではない。私は私が生まれる前に存在した音楽というものならある程度信ずる。その意昧で多分私自身はミュージシャンとはいえない。私は人生を信じない。しかしこの問題を本当に深く考えた人なら同じ結論に達するであろう。

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 私は自分で創造できる男だとは思わない。しかし創造ヘの道は目指しているつもりである。私は創造の神を信ずる。事実このCDの演奏は、私という媒体を通じて、創造の神から届けられたものである。なし得る限り、俗塵の介入を防ぎ、純粋度を保ったつもりである。こうした作業をした私は何と呼ばれるベきであろうか。創造の神が私を何と呼んでかださったか、私はおぼえていないのである。」
 キースの言つてることは、よく理解できるところと、矛盾を感じるところとがあるが、芸術家として素直で謙虚な発言と受けとられるのである。
まつさらな画布に向って絵筆を進める画家の制作の過程を見せられるようなスリルと神秘、快感が、この演奏の一瞬一瞬から感じない者はあるまい。
 こうしたコンサートを部分的に試みたジャズメンはかなりいるが、ワン・コンサートを全くの即興によって行なったのはキースが初めてであろう。数世紀前のヨーロッパの音楽家を別にすれば。
 クラシックが久しく失ってしまった即興演奏の復活を目指し、それが演奏会として立派に成立することをキースはこのケルンにおけるコンサート・ライヴで再び明確に証明している。録音されたものを再生して聴くというハンディキャップはあるにしても、これは前作にも増してスリリングでたのしく、感動的な演奏であり、コンボ・リーダとしてのキースとはちがった彼の音楽の世界に誰もが引き込まれてしまうにちがいない。
 しかも1部、2部に分けられたこの演奏のどの数小節を耳にしてもキース独自のメロディ、リズム、ハーモニーが躍如としている。
 デューク・エリントンが彼の音楽を神のご意志によるものだといつた言葉が思い出されるが、キースもまた創造の神に選はれた稀な音楽家なのである。すぐれたテクニックもさることながら輝くばかりのタッチの美しさはどうであろう。そのー音ー音にキースは音楽家としての内面、こころをそのまま聴衆にみせてくれる。そういう当代稀なジャズ、クラシックのカテゴリーを越えたセンシティヴで創造的な音楽家だということができる。
    [1975年記  野ロ 久光] この解説はレコードの解説書から転載しました。
    (出典 ライナー・ノート)

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3 CDの聴き方
ケルン・コンサート/キース・ジャレット
 このアルバムはいろいろな意味で話題となった作品だ。状況を説明すると、白人ピアニストであるキース・ジャレットは、1960年代後半にテナー・サックスのチャールス・ロイドのバンドのサイドマンとして注目を浴び、1970年にはマイルス・バンドにも加わった期待の新人だった。そして1971年に、当時としては画期的なピアノ・ソロ・アルバムである『フェイシング・ユー』(ECM)で、いわゆる70年代ソロ・ピアノ・ブームをチック・コリアとともに切り拓き、一躍時代の脚光を浴びる存在となったのである。
 ソロ・ピアノが話題になったのは、それまでジャズにおけるソロ演奏というものはごく一部の例外を除いてほとんど試みられたことがなかったことに加え、彼らキースやチックの音楽がそれまでのジャズの文脈からは外れているのではないかとの批判もあったからだ。そういう状況でキースはライヴのソロ・パフォーマンスをくり返し、この1975年に録音された『ケルン・コンサート』(ECM)はその美しいメロディによってジャズ・ファンの枠を超える多くの人たちの評価を得、記録的な大ヒットとなったのである。
 ジャズの文脈を外れている云々というのは、この作品について言えば、あまりにもクラシック的に過ぎるのでないかというのが、その言い分だった。たしかにこの演奏はそれまでのバド・パウエルに始まるモダン・ジャズ・ピアノの歴史には収まり切れないものを感じさせるし、60年代以降の新しいジャズ・ピアノ・スタイルであるビル・エヴァンスや、ハービー・ハンコックなどの行き方とも相当に異質だ。
 しかしクラシックっぽいと感じさせるのは、実は録音の音質のせいでもあるのだ。ケルンのオペラ劇場でライブ・レコーディングされたこのアルバムは、プロデューサーであるECMレコードのマンフレート・アイヒャー(ベルリン・フィルのコントラバス奏者だったこともある)の好みもあって、ピアノの残響成分(余韻と考えてもらってもいいだろう)をたっぷりと収録しており、それまでのジャズ・ファンが聴き慣れていた中音域を分厚く録ったブルーノートのピアノの音などとは180度正反対の印象を与えたのだった。
 もっともそれだけではなく、たしかにキースのメロディはクラシックを思わせる部分もあって、ジャズに対して一定のイメージを抱いている人の反感を買うのも無理からぬところもある。しかし中には、この演奏があらかじめ楽譜に書かれているからクラシックと同じではないかという批判もあったが、これは明らかに見当違いだ。注意深く聴けば、彼が「その場で」このパフォーマンスを繰り広げていることは歴然としている。
 つまり聴き手の印象がなんであれ、また音色がクラシックぽかったとしても、即興演奏こそがジャズの重要なファクターだと考えれば、これはまさにジャズ以外の何物でもないのである。
 この演奏は、むしろジャズをあまり聴いたことのない人のほうが以上のような「ジャズ側の」先入観がないだけに、正当に評価できるかもしれない。こういう音楽は聴きどころも何もなく、ただメロディの快楽に浸っていればいいとも言えるのだが、出来れば次のことに注意を払ってほしい。
 最初は本当に受け身でただ気持ちよく聴いてもらって構わないが、少し慣れてきたら、自分のほうから彼のピアノに寄り添うようにしてフレーズ(旋律あるいは節回しと思ってもらってよい)の一音一音の展開を迫って行ってみていただきたい。そうすることによって、あたかも作曲されているようなロマンチックなメロデイ・ラインが、キースの中に生まれ育ち、場合によっては言い澱みながらも展開していくありさまを、実感として把握できるはずだ。
                                     (出典 ジャズ完全入門 !)

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[Last Updated 4/30/2001]