3 モーツァルト
弦楽四重奏曲 第17番変口長調KV458  ≪狩≫



スメタナ四重奏団

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  目 次

1 タイトル、曲名、演奏者
 CDのタイトルと収録された曲をご紹介します。
2 CDの紹介
 ライナーノートに載っている、曲と演奏についての紹介です。
3 スメタナ四重奏団
 「音楽の時間*CD25選」に載っている内容で、このCDの聴き方が判ります。

1 タイトルと曲名
モーツァルト
弦楽四重奏曲 第17番 変口長調KV458  ≪狩≫
1T−アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ                 (8:35)
  1 T-Allegro vivace assai 2 (subsidiary section) 3 (development) 4 (recapitulation) 5 (coda)
2U−メヌエット;モデラート                      (4:13)
  1 U-Menuetto;Moderato  2 Trio  3 Menuetto da capo
3V−アダージョ                            (6:59)
  1 V-Adagio  2 (subsidiary section) 3 (subsidiary section) 4 (recapitulation)
4W-アレグロ・アッサイ                         (6:11)
  1 W-Allegro assai 2 (subsidiary section) 3 (subsidiary section) 4 (development) 5 (recapitulation)

弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調KV421
5T−アレグロ・モデラート                        (7:17)
  1 I-Allegro moderato 2 (subsidiary section) 3 (development) 4 (reccIpitulation)
6U−アンダンテ                             (7:55)
  1 U-Andante 2 (middle section) 3 (recapitulation)
7V−メヌエット;アレグレット                      (4:12)
  1 V-Menuetto;Allegretto 2 Trio 3 Menuetto da capo
8W−アレグレツト,マ・ノン・トロッポ                   (9:38)
  1 W-AIlegrettlo, ma non troppo/(theme) 2 (var.T) 3 (var.U) 4 (var.V) 5 (var.W) 6 Piu allegro (coda)

スメタナ四重奏団
イルジー・ノヴァーク、ルポミール・コステッキー(ヴァイオリン)
ミラン・シュカンパ(ヴィオラ) アントニーン・コホウト(チェロ)

録音:
1982年2月27日〜3月4日
プラハ≪芸術家の家≫
録音担当: M.クサク
スプラフォンとの共同制作

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2 CDの紹介
【作品解説】
ハイドン四重奏曲
 モーツァルトの弦楽四重奏曲は、今日一般にディヴェルティメントとして演奏されるKV136〜8の3曲を加えれば、全部で26曲を数える。そしてモーツァルトはこれ等を通じて、先輩ハイドンの影響の下に弦楽四重奏曲の形を確立してきたのであり、特に1773年にウィーンで書かれたKV168〜173の6曲の四重奏曲では、メヌエットを加えた四楽章の曲として、弦楽四重奏が明確な形を与えられることになる。
 それから約10年をへだてて、 1782年から85年にかけて、モーツァルトにとって重要な6曲の四重奏曲が書かれることになる。これがいわゆる<ハイドン四重奏曲>と呼ばれるものであり、ハイドンが"全く新しい特別な方法で書いた"と自ら称した<ロシア四重奏曲>(1781)からの影響を受けて作曲された。かくしてモーツァルトの6曲の傑作が生まれるところとなるのだが、勿論ここではハイドンの確立した色々な新しい手法に範をとりながら、それを見事に自分のものとして同化していることはいうまでもない。
 これ等6曲はKV387、421、428、458、464、465で、モーツァルトはこれをまとめて、 1785年9月1日に丁重な献辞と共にハイドンに献呈して、この偉大なる先輩に対する感謝の意を表わした。
 これ等<ハイドン四重奏曲>の6曲は、続いて書かれた<プロシャ王>の四重奏曲の3曲と共に、モーツァルトの四重奏曲の中心的存在となっている。

弦楽四重奏曲第17番変日長調《狩》 KV458
 《狩》という名称は、第1楽章の始めに狩の角笛を思わせる主題が力強く奏されるところからきている。<ハイドン四重奏曲>の第4番目に位置するこの曲が書かれたのは1784年秋で、 6曲のなかでも最も明るい晴れやかさを持っており、それ以前の3曲よりも規模が大きく、内容的にも一層豊かになっている。
 第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ 変ロ長調 6/8拍子。ソナタ形式で書かれた、生気澄刺とした楽章である。
 第2楽章 メヌエット:モデラート 変ロ長調 3/4拍子。優雅な流れのなかに、どこか感情の大きな動きを込めたようなメヌエット。中間部トリオにはトリルのついた優美な旋律がはさまれる。
 第3楽章 アダージョ 変ホ長調4/4拍子。
 最初に出る旋律はやや暗い、冥想的な面もちをたたえたもので、続く第2の主題では優雅な流れが美しい。ソナタ形式である。
 第4楽章 アレグロ・アッサイ 変ロ長調2/4拍子。活溌な終楽章で、活気のある軽やかな第1主題はハイドンを思わせ、第2主題は動きの速い旋律に、優雅に歌う旋律を続けたものである。

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弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調  KV421
 これは<ハイドン四重奏曲>のなかで唯一の短調で書かれた作品で、ロマン的な情感が色濃く、他の曲にない力強い表現力もある。作曲は1783年6月で、ちょうどモーツァルトの初めての子供であるライムント・レオポルトが生まれた6月17日頃書かれたという。
 第1楽章 アレグロ・モデラート ニ短調 4/4拍子。
 ソナタ形式で書かれたこの楽章では、濃い哀感をたたえた第1主題と、優美な流れの第2主題が独特の緊張感を創り出して行く。
 第2楽章 アンダンテ ヘ長調6/8拍子。
 三部形式で書かれており、更に第1部と第3部も、それぞれ三部形式によっている。
 第3楽章 メヌエット:アレグレット ニ短調 3/4拍子。メヌエットは鋭い緊張感に富んでいて、激しい表現をとっている。トリオは軽やかに飛翔しつつもそこに悲痛なものを蔵している。
 第4楽章 アレグレット・マ・ノン・トロッポ ニ短調 6/8拍手。主題と四つの変奏、コーダとから成っている。主題はトリルを含んだシチリアーノ風のもので、二つの部分から成るそれぞれが繰り返される。        家里 和夫

【演奏について】
 モーツァルトのハイドン・セット、それもひときわ深い憂いを湛えた「ニ短調KV421」と明るく快活な「変ロ長調KV458《狩》」という組合せを、スメタナ四重奏団はいつに変らぬ高い水準で演奏している。
 この演奏に限らず、近年のスメタナの仕事はとみに円熟の度を加えて、ひとつの弦楽四重奏団として行き着くところまで行き着いたという感想に誘うところがある。
 優れたアンサンブルの常とはいえ、ここに聴かれるのはまず一糸乱れぬ合奏の妙ということだろう。いささかの凹凸も見せぬ完璧なものといっていい。もっとも、完璧といっても特にスメタナの場合、それは機械的・人工的なものではなく、あくまでも人間的な性格のものであることが特徴をなしている。音色は柔らかくぬくもりがあり、音楽はたっぶりしたふくらみを持っている。
 このモーツァルトの2曲にしても、そこには終始、こまやかなニュアンスが漂って作為がなく、自然そのものであり、表情は熟している。
 こういう演奏はスメタナのような年季の入ったアンサンブルだけに可能なものであって、互いに気心を知りつくした、しかし狎れ合うことのない四人の協調の美しい成果といってよく、それはまたモーツァルトにかなう演奏ということもできるかと思う。
  中河 原理            (出典 ライナー・ノート)

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3 スメタナ四重奏団
モーツァルト/弦楽四重奏曲第17番『狩』、15番
CD/デンオン 43CO2629

 このところ、CDもレトロの傾向がみえる。何も新譜におもしろいものがないというわけではない。今月でいえば、スヴィアトスラフ・リヒテルの『ディアベッリ変奏曲』、プレンデルのシューベルトのソナタ、あるいはピーター・ゼルキンのシューベルト舞曲集といった、内容的に充実し、しかも、めったにきけないレパートリーのものが幾つも出ている。
 しかし、CDが今のように、もの珍しさでなくて、安定した音のライブラリーの基本的資料としての性格を確保するような時代になってくると、新譜を出すだけでなく、かつてのレコード全盛時代にさかんに出た「名盤」をCD化することとならんで、LPからCD初期への移り変りの時期に出たものをもう一度じっくりきき直すための材料としてのCDの再発売が必要になってくる。
 それは、ちょうど、戦後レコードがSPからLPに切りかわったあと、LPの発売が一段落したところで、改めて、かつてのSPの名盤のLP化が求められ、それにつれてモノーラルだったものがどんどんステレオ化されて市場に出た時期があり、それからつぎに、その擬似ステレオにはどうしても違和感があって満足できないということになって、やっぱりモノーラルはモノーラルのまま再発売されるといった経過をとりながら、今日に向って歩いてきた軌跡と、共通するものがなくはない。
 今のレトロのCD化は、だから、LP時代の「名盤」の再発売と、70年代から80年代はじめにかけて発売されたCDの再評価という二つの形で出ていることになる。
 そうして、この再発売組の中にも、優秀なものが少くないのはいうまでもない。いや、概していえば、再発売されるだけの価値のあるものが、購買者の好みと発売会社の営業政策の狙いとが一致したところで、また市場に出てくるのだから、新しさが看板で出てくる領域よりも、この方にすぐれた盤の多い確率が高くなっても不思議ではない、ともいえよう。
 私はCDの再生器を手に入れるのが遅かったし、毎月新譜のリストにまめに目を通し、その中からたくさん選んでどんどんきくというやり方はして来なかったし、今もしていないので、レトロ再発売になったおかげで、はじめて「名盤」に出会うといった経験が少くない。
 今月は、その中で二枚、非常に楽しい思いをした。そのうちの一つはラドゥ・ルプーがソロをひいているモーツァルトのピアノ協奏曲(K414、イ長調とK467、ハ長調)。後者の方が特別名曲のほまれの高い曲であり、演奏もまたすぐれたものだが、私には前者が、その単純さと流麗との一致の上に立った、心に沁み入るような美しさの点で、とりわけて、気に入った。これはルプーのあのきめのこまかな優しさでもって抒情詩を朗読するといった演奏ぶりからいっても、正にぴったりの音楽なのだ。こんなCDのあるのを、今まで知らなかったとは迂闊な話である。
 しかし、私は、そうでなくともピアノのCDをとりあげすぎる傾きがあるのを自覚しているので、今月は、弦楽曲をメインにしたい。
 それはスメタナ弦楽四重奏団の演奏によるモーツァルトのハイドン・セットの中の二曲(K458、変口長調『狩』とK421、ニ短調)を入れたCDである。1972年東京の青山タワーホールでの演奏を録音したものだそうだから、発売も、その年か翌年だったのではないか。
 そのCDを、選りに選ってスメタナ弦楽四重奏団そのものがメンバーの老齢化のために、これを解散するといって、今、日本で一連の告別演奏会を開いてまわっている時期になって、はじめて、とりあげる。私としたことが大変な遅延ぶりで申訳けない。ただ70年代というと、私はやっとLPを少しずつききはじめたころであり、『レコード芸術』に連載など思いもよらない時代だった。
 とはいえ、スメタナ四重奏団の演奏そのものは、実演でよく知っていた。ことに、彼らがはじめて−か二度目か−日本に来て、その演奏を目の当りした時は、日本の多くのファンと同じように、心から驚嘆したのだった。だから、彼らの演奏の質の高さ、技術の正確さと、音楽性の豊かさ、こういったものは、その時にすでによくわかっていた。これは、アメリカのブダペスト四重奏団やジュリアード四重奏団の行き方とはずいぶん違うもので、ヨーロッパ流の落ちついた、そうしてやや古風といってもいいような、やや渋いものではあったが、音楽の表面のきらきらしさ、はなやかさはなくとも、それだけ、じつくりときくものの心の深いところまで沁みこんでくるような、滋味豊かな演奏だった。彼らが楽譜を一切見ないでお互いに緊密に呼吸を計りながら、演奏する姿も、−私たちはすでにイタリア弦楽四重奏団の例で知っていたわけだが−演奏そのものだけでなく、それを見、そうして聴く私たちの側からも、一段とうちとけた親密さと、それから厳しい緊張の高さという、表面的にいうと矛盾しているはずのものを、引き出してくるよう働きかけてくるのだった。
 50年代はじめに外国に音楽をききにいった私は、ニューヨークでジュリアード四重奏団に強烈な印象を受けたあと、ヨーロッパに渡ってからの四重奏団では、アマデウス四重奏団、イタリア四重奏団の演奏に感心した覚えがある。
 それがジュリアードも、つぎつぎとメンバーを入れかえた揚句、いまはもうずいぶんヴェテランの団体になってしまったし、イタリアとアマデウスは、メンバーの死亡や何かで、先年解散してしまった。それに、今やスメタナが告別演奏をする。そうなると50年代に世界の楽壇に登場してきた弦楽四重奏団の中の目ぼしいものは、完全につぎの世代にバトンタッチをしてしまうということになる(ハンガリーのバルトーク四重奏団は今どうなっているのだろう?)。
 私としては、その後の団体、ラサール、メロス、アルバン・ベルク、それからソ連の諸団体の演奏に不満があるわけではない。
 しかし、こうして改めてスメタナ四重奏団のモーツァルトをCDできき直してみると、やっぱり、ここにはかけがえのない演奏があったのだということを痛感する。
『狩』の四重奏曲の演奏も良いけれど、ニ短調の方が、とりわけて印象深い。私にとっては、ややおそめに感じられるテンポで始まって以来、どこまでも、力んだところがなく、特別に鋭いところもないのに、まるで音もなく降っては積ってゆく雪景色を目の当りしているみたいな、何か深々とした静けさに包まれた悲しみが伝わってくる。
 それは何か特定の悲しみというのではない。美しい音楽がいつももっている悲しみである。だから、特定できないものだ。この悲しみは、何の色にも染っていないし、何の化粧も施されてない。純白の悲しみである。
 四つの楽器のバランスも−CDだから、実演の時と同じに考えるべきではないのかもしれないが−、ものすごく良い。日本コロムビア自慢のPCM録音の最初期の一つだそうであるが、今きいても、音には何の不足もない(レトロの多くの名盤は、この点で、時々、演奏はいいけれど、やっぱり音に不満が感じられることが少くないのだけれど)。
 これは、昨今私たちがなじんでいるアルバン・ベルク四重奏団やメロス、ハーゲンといったのにくらべると、すでに、「古典的」といってもおかしくない様式の演奏になっている。それは、この曲の第三楽章、あの比類のない浸透性にとんだニ短調のメヌエット主要部とトリオとか、フィナーレのテンポの選び方とアクセントのおきかたなどによく出ている。きき方によっては、実に淡々たるものだといってよいくらいだ。テンポは両方とも、アレグレット、アレグレット・マ・ノン・トロッポと作曲家が指定しているのだから、速くひくべきではないにきまっているけれど、この演奏の与えるテンポ感は、ゆるやかというより、もっと−何というか、貴族的なゆるやかさである。
 そう、この演奏の性格は、一口でいえば、ノーブル、つまり気品の高い古典性なのである。といっても、これは古めかしいというのとは違う。現代の演奏のもつ高い水準の精緻な合奏と、「あくまでも楽譜に忠実で」主観性の淵に陥ちこんだり、局部的な誇張をするのを避けようとする彼らの姿勢は一貫している。終楽章の変奏におかれたコーダの終りから四つ目の小節で、やっとfがfisに変って、d fis aの長三和音に到達するのだが、その瞬間、私の耳に入ってくる安堵感は、私がいままで味ったことのないものだ。音楽はここで、チェロのdを土台として、d fis aの主三和音からd g hの下属和音を通って、またd fis aに入って終る。いわゆるプラガル終止である。それがもつ、やや古風な結び方の響き。これもまた、比類のない見事さでひかれている。
 このCDで、私の覚えた不満はたったひとつ。反復が少くて、それだけ早く終ってしまうことだ。こういう音楽は、もっともっときいていたいのに。
 スメタナ弦楽四重奏団は、いま告別演奏をしてまわっているといっても、メンバーが欠けたというわけでもないのだろう。だとすれば、将来、彼らの祖国に戻ったあとも、時には、CDに録音するとかその他の方法で、はるかな日本にも、この気品の高い、そうして完璧に音楽的な演奏を通して、モーツアルトその他の古典から、ベートーヴェン、シューベルトその他のロマン主義の音楽、それから、祖国の生んだドヴォルジャークやスメタナ、ヤナーチェック等々の名曲をきかせてほしいものだ。
 それに今までのCDでききたいだけ、彼らの演奏がきける幸いがあるので、別れのさびしさも多少は慰められるというものだ。
 いずれにせよ、長い間楽しませて下さって、ありがとう、今後も、幸せに暮して下さい。
* ルプー/モーツァルト、ピアノ協奏曲K414、K467 CD/L-F28L28061、LP/L-L15C2214
   (出典 音楽の時間 *CD25選 吉田秀和著 (株)新潮社 1989.12.15)

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[Last Updated 9/29/2001]