2 ベートーヴェン デイァベッリ変奏曲作品120
クラウディオ・アラウ(ピアノ)


PHILIPS 416 295-2

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  目 次

1 タイトル、曲名、演奏者
 CDのタイトルと収録された曲をご紹介します。
2 CDの紹介
 ライナーノートに載っている、曲およびピアニスト・クラウディオ・アラウの紹介と、演奏の解説です。
3 CDの聴き方
 「音楽の時間*CD25選」に載っている内容で、このCDの聴き方が判ります。

1 タイトルと曲名
 ベートーヴェン 1770-1827
   Ludwig van Beethoven
 デイァベッリ変奏曲作品120
  (アントン・デイァベッリのワルツによる33の変奏曲ハ長調)
   33 Variations in C on a Waltz by Anton Diabelli, Op.120
1.1 Thema-
1.2 var.1: Alla marcia maestoso  2:41
2 var. 2: Poco allegro 0:56
3 var. 3: L'istesso tempo 1:25
4 var. 4: Un poco piu vivace 1:06
5 var. 5: Allegro vivace 0:59
6 var. 6: Allegro ma non troppo e serioso 1:45
7 var. 7: Un poco piu allegro 1:12
8 var. 8: Poco vivace 1:37
9 var. 9: Allegro pesante e risoluto 1:41
10 var. 10: Presto 0:43
11 var. 11: Allegretto 1:08
12 var. 12: Un poco piu moto 1:01
13 var. 13: Vivace 0:56
14 var. 14: Grave e maestoso  3:29
15 var. 15: Presto scherzando 0:41
16 var. 16: Allegro 1:01
17 var. 17  1:01
18 var. 18: Poco moderato 1:52
19 var. 19: Presto 1:01
20 var. 20: Andante  2:20
21 var. 21: Allegro con brio- Meno allegro 1:41
22 var. 22: Allegro molto
  (alla-`Notte e giorno faticar' di Mozart) 0:49
23 var. 23: Allegro assai 1:00
24 var. 24: Fughetta (Andante) 2:53
25 var. 25: Allegro 0:51
26 var. 26: (Piacevole) 1:20
27 var. 27: Vivace 1:10
28 var. 28: Allegro 1:03
29 var. 29: Adagio ma non troppo 1:16
30 var. 30: Andante, sempre cantablle  2:09
31 var. 31: Largo, molto espressivo  5:15
32 var. 32: Fuga(Allegro-Poco adagio)  3:19
33 var. 33: Tempo di minuetto moderato (aber nicht schleppend)  4:15

クラウディオ・アラウ(ピアノ)
CLAUDIO ARRAU, piano
録音: 1985年4月3-7日、スイス,ラ・ショードフォン DDD デジタル録音
TOTAL PLAYING TIME 55:36

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2 CDの紹介
 私の手許に約100年前の古びたプログラムがある。19世紀の大ピアニスト、ビューローがボストンで1889年4月15日から18日まで行なったベートーヴェン連続演奏会のプログラムである。曲目は4日間にソナタ、変奏曲など25曲から成る、現在では考えられぬ程の数だが、彼はその最終日に"ハンマークラヴィーア・ソナタ"と"ディアベッリ変奏曲''など4曲を演奏している。ビューローはこの"ディアベッリ変奏曲"につき「ベートーヴェンの天才の凝結であると共に、音楽の全世界の要約であり、音楽的な構想と想像力のあらゆる展開が、そして最も高尚深遠な思想から最も奔放な諧謔までが、最も雄弁に語られている。それは尽きることのない泉にひとしく、われわれに限りない栄養を与えてくれる。 ……」と語っている。 4日連続で25曲もの演奏となると、最終日には疲労その極に達していると思われるのに、あえて50数分を要するこの大曲を最後に残しておいたのはなぜか、もちろん大きな理由があってのことなのである。
 オーストリアの出版業者で作曲家でもあったディアベッリ(1781〜1858)は1819年に、自作のワルツをオーストリア在住の作曲家やピアニストに送り、これを主題とした変奏曲の作曲を1曲ずつ依頼、これらを集めて"祖国芸術家連盟"の名称で出版する企画を立てた。シューベルト、フンメル、カルクブレンナー、まだ11歳の少年だったリストなど50人が応募、ツェルニーは変奏曲のほかコーダーも書いた。
 ベートーヴェンも依頼を受けたl人だったが、この主題が気に入らず、手をつけようとはしなかった。しかし後になって気が変わり、これら50人の集団に対抗するかのような意欲を燃やして、1823年の春ついに33曲もの変奏を完成した。彼は50人と一緒に出版するのを嫌い、単独で作品120として同年6月に出版した。しかしその翌年には"祖国芸術家連盟"第1部に再刊、その第2部に50人の作品が収められたが、リストにとってはこれが最初の出版になった。 50人の変奏の多くが、この主題に外面的な華麗な装飾を施したものだったのに対し、ベートーヴェンはこれらとは一線を画した作品を意図したことは、題名がVariationenではなく、Veranderungen(変容)と記している点からも推察できる。この"ディアベッリの主題による33の変奏曲"こそベートーヴェンの最晩年を飾る最高の傑作であり、 "ハンマークラヴィーア・ソナタ"と共に彼の最大規模の最難曲にもなったのである。
 主題は前半後半が繰り返される32小節から成る平凡なワルツである。しかしベートーヴェンはこのワルツの和声や構造はもとより、その中の小さな特徴をもとりあげ、さまざまな技法を駆使、 1つ1つの小さな変奏に独自の世界を創り出し、それらの集合を宇宙的ともいえる規模にまで発展させているのである。しかもその各変奏はベートーヴェンの全ピアノ作品の精髄とも見なされ、ベートーヴェンのピアノ作品の総決算といっても過言ではない。前記ビューローがこの曲で最後をしめくくった理由もこの点にあったと思う。それだけにこの曲の完璧な演奏は、ベートーヴェンのすべてを知り尽くした上でなければ不可能であり、演奏会でこの曲がとりあげられることはめったにない。

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 現在この曲を演奏するのに最もふさわしいピアニストとなると、アラウをおいてはないと思う。アラウは今年(1987年)84歳の最長老の巨匠であり、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲の校訂版を世界有数の出版社ペータースから出していることからも、彼のベートーヴェンの演奏と研究がいかに高く評価されているかが分かる。彼がこの年齢でこの大曲を33年ぶり(奇しくも33!)に再録音したのも、演奏家としての総決算的な意味を持っているのではなかろうか。現にその円熟した深味を持つ演奏は、名演とされたバックハウスを凌ぐとさえいいたい程だ。それに彼の出す書は他のピアニストにはない豊かさがある。これは彼独特の奏法によるのであって、このことについては私が"熱情ソナタ"他(35CD-494)のCDに書いた解説「アラウのベートーヴェンとその奏法の秘密を探る」をご参照いただければ幸せである。では演奏を聴くことにしよう。
1.1 主題 ヴィヴァーチェ3/4。主題はレドシド・ソ・ソ・ソ……ミレ♯ドレ・ソ・ソ・ソ……の施律ではじまる。短い間にfが現われ、すぐにPにもどる。又第3拍にしばしばsfが現われ、これが独特の性格を示す一方、特徴のある低音部の動きも無視できない。アラウはこれらの細部にまで気を配り、新鮮でいきいきした演奏をはじめる。
1.2 第1変奏 アラ・マルチア・マエストーゾ 4/4。主題の和声を守りながらも、これを重厚化してfとPを使い分けた行進曲は、まぎれもないベートーヴェン的な自由さを示す。アラウならではの堂々としたマエストーゾ。
2 第2変奏 ポコ・アレグロ3/4(以後拍子が3/4のものは省略)左右交互に弾く軽いスタッカート的な曲。一貫してpになっているが、アラウはこれに微妙なニュアンスをつけておそ目のテンポで演奏、 1つ1つの和音がふくよかで美しい。第20小節第3拍左手のb(変ロ)音が抜けた楽譜が多いが、アラウは正しく加えている。
3 第3変奏 リステッソ・テンポ。ドルチェと記されたやわらかな施律ではじまり、 4声部で進行。各声部を美しく歌わせ、低音部の表情も非常に豊か。
4 第4変奏 ウン・ポコ・ピウ・ヴィヴアーチェ。前変奏同様模倣で作られている。各声部をくっきりと描き出しながら次第に高潮して華やかさを増す。
5 第5変奏 アレグロ・ヴィヴアーチェ。主題の断片ド・ソではじまり、声部を上に重ねて増加しながらクレッシェンド。アラウは長い余韻をきちんと示し、随所に置かれるsfをよく生かしながら曲を盛り上げる。
6 第6変奏 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・セリオーソ。主題の断片シ・ドをトリルにおきかえ、これを頭にした強烈な動機でカノンを形成、変奏ではじめてffが現われる。アラウは両声部を浮き彫りにしながら、華麗さを増して行くが、クレッシェンドのあとのドルチェが実に美しい。
7 第7変奏 ウン・ポコ・ピウ・アレグロ。左手のオクターヴの大きな飛躍に対し、右手は3和音を分割してきらめかせ、最終部ではじめて最高音c4が現われる。目がさめるような絢爛きわまる演奏を展開。

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8 第8変奏 ポコ・ヴィヴアーチェ。これまで高潮を続けた曲想がここで一転。低音のアルペッジョを伴い、やわらかな施律を抒情豊かに歌わせる。伴奏の表情も実に豊か。
9 第9変奏 アレグロ・ヘザンテ・エ・リゾルート 4/4。主題のレドシドを動機にして1小節毎に応答。アラウはこの鋭い動機を次々に立体的に描き出す。低音の動きをはっきり示しているのにも注目。
10 第10変奏 プレスト。 "真夏の夜の夢"の妖精の踊りを思わせる軽やかなppではじまる。そのあと低音のトリルを基底に、右手の3和音が飛びはねる。アラウのデリケートな演奏は息をのむ思い。 1つのクライマックスであることは、後半の激しいクレッシェンドと、最後の6オクターヴ・ピアノの両極限の書C1c4の使用が示す。
11 第11変奏 アレグレット。一転して主題のレドシドを3連音符化した軽やかな動機による模倣で、 4つ目の音の長い余韻が独特の効果をもたらす。
12 第12変奏 ウン・ポコ・ピウ・モッソ。シドシドレドの動機がカノン風に3声で繰り返されるが、アラウはこれに細やかな陰影をつけて、なめらかに演奏。終り近い(0'55")から低いC音の余韻が続くのに注意!。
13 第13変奏 ヴィヴァーチェ。ここでテンポが主題のヴィヴアーチェにもどる。休符をはさんだfとpが交代。激しいfに息をつめるpが対比、休符の効果を存分に発揮。
14 第14変奏 グラーヴェ・エ・マエストーゾ 4/4。左手の重厚な和音の上に、複付点音符のリズムを持つ動機が次々と模倣され、荘重さと深遠さを漂わすアラウ独特の重厚な響きが印象的。
15 第15変奏 プレスト・スケルツァンド2/4。拍子は遣うが主題の旋律を忠実に守りながら、飛びはねる軽やかなスタッカートと、これに続くしっとりとしたレガートの和音が鮮やかに対比。
16 第16変奏 アレグロ4/4。練習曲を思わせる左手の急速な分割オクターヴの連続と、右手のトリルを頭にしたドソソ……レソソ……の動機が華麗をきわめる。
17 第17変奏 4/4。前変奏と対をなす、共に技巧的な曲で、今度は急速な分割的装飾が右手に移され、左手が主題の旋律をオクターヴで重々しく歌わせる。
18 第18変奏 ポコ・モデラート。前の2変奏とは対照的なおだやかさ。小さな動機を低・高と対比させながら進行。久しぶりにc4を含む最高音域をきらめかす。殆どの楽譜は第31小節までクレッシェンドを続けるが、アラウは自筆草稿通リdim.させている。

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19 第19変奏 ブレスト。活気に満ちたカノン。主題冒頭の和音を分割した形の動機を、アラウは鋭いタッチで左右くっきりと描き出す。
20 第20変奏 アンダンテ6/4。コラール風の和音の連続で、古くからこの変奏は謎とされてきた。最後のピアノ・ソナタ第2楽章の主題を思わせる神聖さ。アラウの深遠きわまる演奏は無類といいたく、最後のフェルマータつきの和音がヴィブラートしながら消えて行く。
21 第21変奏 アレグロ・コン・ブリオ4/4。急速で力強い前節と、ゆるやかな施律の後節との対比が目ざましい。前節の4拍子に対し、後節は3拍子に変わる。
22 第22変奏 アレグロ・モルト・4/4。歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の幕開きのアリア"夜も昼も休む間もなく"の施律が登場。ディアベリから催促されてこの楽想が浮かんだという。ユーモアな両手オクターヴに続き、いら立つような3連音符の動機。この動機がクレッシエンドされついに最高音域に向う。
23 第23変奏 アレグロ・アッサイ4/4急速な両手の走句に続き、左手右手交互に奏される名人芸的な和音が更に華麗さを増す。
24 第24変奏 小フーガ、アンダンテ。小さいながら4声の静かなフーガ。主題の断片が使われ、ソフト・ペダルを踏みながら音声部を浮き上がらせるアラウの表情豊かで深味のある演奏が聴きもの。
25 第25変奏 アレグロ3/8。一転して主題に基づく跳躍ではじまる右手の和音に対し、左手は急速な動きで終始。左手の動きが実にやわらかくてなめらか。
26 第26変奏 3/8。ピアチェヴォーレと記された通り、いかにも喜ぱしげな曲想。単声ではじまり2声から4声に発展する、優美な演奏が聴きもの。
27 第27変奏 ヴィヴァーチェ 3/8。前変奏と組まれているが今度は急速な3連音符がfとpを交代しながら休みなしに続く。前半後半とも鋭く飛びまわる前節とレガートの後節が対照的で、華麗な演奏を展開。
28 第28変奏 アレグロ2/4。スタッカートの4声の和音が、拍毎にsfがつけられ、機械的な正確さで進行。アラウはsfを生かしながらも粗野な印象を与えることなく、細かな表情をつけて演奏。

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29 第29変奏 アダージョ・マ・ノン・トロッポ。これからの3変奏はソナタの第2楽章を思わせる沈んだ気分になり、調もハ短調が続く。抒情性を存分に発揮した演奏。
30 第30変奏 アンダンテ、センプレ・カンタービレ4/4。左手のやわらかな施律を右手が模倣しながら、ますます内面的な深みを漂わすが、その後上行して喜びの表現に変わる。
31 第31変奏 ラールゴ・モルト・エスプレシーヴォ9/8。最もおそいテンポの変奏で、深刻さを色濃く示す。アラウは細かな音符の1つ1つを大切に扱い、悲しみに満ちた演奏を展開しながらも、その中に希望の光を暗示。そのデリカシーに富む演奏はまさに絶品。
32 第32変奏 フーガ、アレグロ2/2。複合主題による壮大な2重フーガで、この変奏だけが変ホ長調。主題のドソソソが変ホ長調でソプラノで奏されると、副主題がアルトに現われ、 3声から4声に進む。 (1'00")ffからバスは2オクターヴ以上も離れた低音域で重厚なオクターヴを奏でる。 (2'01")からは変奏の変奏ともみられる次の2重フーガに入り,走句風の8分音符が続く中を主題がからみ合う。ベートーヴェン独特の自由な展開を持つフーガで、カデンツァのあと、ポコ・アダージョを置く。このアダージョでこれまでの暗雲が次第に晴れ,希望に満ちたハ長調へと進んで行く。スケールの大きな堂々とした演奏はまさにアラウならではだ。
33 第33変奏 テンポ、ディ・メヌエット・モデラート。ここでもとのハ長調にもどり、メヌエットのテンポで華やかな変奉がはじまる。幾多の曲折のあと、ようやくたどりついた喜びを示すかのような明るい動機。高貴で平和な気分を醇しながら進行するが、後半は最後のソナタの第2楽章最終部と通ずる崇高な世界に広がって静かに曲を閉じる。
 ベートーヴェンを研究し尽くし、円熱の極に達したアラウだけに、各変奏の明快な特徴づけと、その有機的な結合により、これだけの長大な曲を最後まで飽かすことなく集中して聴かせるのには感嘆のほかない。バックハウスに比べて概しておそ目のテンポだが、このことがアラウ独特の豊かな表情をつけるのに役立ち、かえって説得力を増しているように思う。なお年代の1819年やリストの年齢などが欧文解説とくい遣っているが、私のデータは手近にある新グローヴ音楽事典に基づくものである。               [高城重窮(う冠とハは余分)]
(出典 ライナー・ノート)

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3 CDの聴き方
 クラウディオ・アラウ
  ベートーヴェン/ディアベッリ変奏曲
   CD/フィリップス 35CD526

 クラウディオ・アラウのひいた『ディアベッリ変奏曲』をきき終った時、私は、しばらく、口もきけなかった。
 いうまでもなく、作品そのものが、すでに、ものすごく偉大なというか、巨大な構築物であるが、これをひくアラウの演奏も、圧倒的に力強い。それも、きき手の深いところまで浸透してくるものが、隅々までゆきわたっている。
 ありふれた言い方になってしまうけれど、正にこれは「精神力の勝利」の記念碑的な演奏である。
 アラウは今年(1987年)84歳になったという。人間、こういうこともできるのである。

 実は私は最近東京のサントリーホールでダニエル・バレンボイムの≪ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全曲連続演奏会≫をきいてきたばかりである。これは、たしか一日おきに、全部で8回の連続演奏会でもって、32曲のソナタを全部ひく計画になっていて、私のきいたのは、その四日目。作品31の1、27の2(月光)、10の2、それから最後に作品110という順序で、四曲のソナタがプログラムにのっていた。
 とても、よかった。しかし、ひき方はいろいろ風変りなところがあった。最初の31の1も、第一楽章で、はじめの音階的におりてくるモチーフと、それを受けて、右手と左手が喰い違うリズムで和音を鳴らす部分と、この対照をつくるのに、ひき手は、出だしの第一撃をいきなりfではじめ、それから和音はpにする。私は、これまで、ここはpで始まるものとばかり覚えていたので、相当、めんくらった。しかも、そのあと、ひとしきりしてから、もう一度、この主題が戻ってくる時は、逆に音階はpで、和音はfでひく。だから前とは逆になる(こちらは、私の覚えているのと同じ)。その対照が、いかにも自由で即興的な感じがして、音楽に生き生きとした精気がみなぎる。
 それが、私の気に入った。いかにも、ベートーヴェンらしく、きき手を驚かせながら、はつらつとして元気のこもった音楽をやる。それでいて「音楽の論理」を踏みはずさないのである。
 このあとの第二楽章、例の左手でギターの伴奏みたいなことをやりながら、右手に、のびのびとした屈託のないセレナード風の旋律をやる楽章。これも、明るく歌う気持がいっぱいに出ている一方で、音楽がちっとも安っぽくならない。こまかなところで、微妙な音の動きが生かされ、鮮やかに浮き上ってきたり、ほかの音のかげにそっと隠れたみたいなpやppで流れていたりする。そうして、こういった音の表情の変化といっしょに、実にたくさんの音色の使いわけがあるのである。

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 作品10の2のへ長調の曲もおもしろかった。この曲だって、前の作品31の1と同じように、このごろのピアニストの独奏会ではほとんどきかれなくなっているけれど、バレンボイムみたいに生き生きと変化をつけてひいてくれると、本当に楽しくきかれる。長い間会わなかった昔の中学か小学の同級生に、ひさしぶりに会って、話そのものは大した内容がなく、言葉は平凡であっても、何か暖かい、なつかしいものがお互いの心に通ってくるのを感じるというようなものだ。
 ベートーヴェンで、こんなに明るく楽しい気持になったのは、全く意外だった。
 この晩は、そういった曲だけでなく、最後に作品110のソナタもあり、これはもうただ「なつかしい」というだけですまされる曲ではないのはいうまでもない。しかし、いちばん底に流れていて、こちらの胸に迫ってくるものは、やっぱり、この上なく「人間的な」暖かさであり、それもそとのものにとらわれぬあくまで音楽的に自由と一体をなした明るさなのである。また、ひき手のつける表情が心の中から自然に湧いてくる表情だから、とてもやわらかい。
 そう、このやわらかさと明るさ、これがバレンボイムの演奏の最大の特徴ではなかったろうか。特に緩徐楽章がいい。だから、『月光ソナタ』も、哀愁にみちたロマンチックなものを期待した人には、ちょっと当てはずれみたいなものだったかもしれないが、シューマンの歌曲に時々あるような、明るく透き通った月の光の沁みわたった夜の雰囲気があった。手放しの陽気ではなく、やっぱり哀愁の気配もあり、それが薄いヴェールのように地上を蔽ってはいるけれど、だが、底冷えのする秋の夜の寂蓼感ではなく、春の生暖かさ、どこからともなく地か花の匂いのしてくる官能的な気配に包まれた夜の心象風景。
 しかし、その上、おもしろいことに、そういった緩徐楽章には、ちょっとほかのピアニストで経験した覚えのない、どこまでも「のびやかなやすらかさ」があって、それが、曲にある拡がりを与えているのである。作品31の1のアダージョ・グラチオーソなど、別に大きな曲でもないのに、いわば音の背後に大きな静けさがひかえているという趣きが感じられてくるのである。
 これは、正直いって、私には思いもかけぬ収穫だった。休想のロビーで、顔みしりのピアニストにあったら、「この間の『バストラール』(作品28)が、とてもよかったですよ」といっていたが、きっとそうだったに違いない。
 ベートーヴェンの音楽から、そういうものをたっぷりひき出してくるバレンボイムというピアニストは、優秀なピアニストであるばかりでなく、生れながらの豊かな天分にめぐまれた音楽家なのだ。
 それに、彼のピアノの音も、こういう音楽にふさわしく、よく響くだけでなく、豊かな余韻をもっている。何年か前、彼のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲のレコードが出た時、私は全曲盤をきく心の余裕がないままにここにとり上げずに終ってしまったが、その償いを今させてもらわなければならない……

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 アラウの話から、バレンポイムにいってしまったが、私としては、こうしてベートーヴェンを続けてきく機会をもって、少しばかり考えさせられるところがあったからである。私たち−というより世界中が、ベートーヴェンをきくことが、ひところにくらべてぐつと少くなった様子だが、これはやっぱり第二次大戦という深刻な悲劇のあと、私たちのような音楽好きといえどもそうそう前みたいに、彼のもっている、あの力ずくで迫ってくるような、威圧的な音楽をきいて楽しむというのがむずかしくなったからであろう。
 戦後のピアニストのベートーヴェンでは、私は、かつてグルダに感心した(今もそうだ)。今になって思うと、彼のベートーヴエンの最大の強味というか特徴は、リズムの力を最大限に生かした点にあるのだった。グルダできくと、いかにベートーヴエンという人が、リズムに秘められていた可能性を掘りおこし、最大限に展開させるのに工夫した音楽家だったか、ということがよくわかる。それから、やっぱりブレンデル。プレンデルのベートーヴェンの特質は、とても一口ではいいきれないが、一言だけいっておけば、シュナーペル−それから、私のいちばん好きなソロモン−以後の最も興味あるベートーヴェンひきではあるまいか、と思われる。それから、今まで書いてきたバレンボイムのあのやわらかで無理のないベートーヴェン。これは一つの発見である。
 こういう人たちと比べると、アラウは、まず、戦後のピアニストとはちょっと違う。彼のは、ベートーヴェンの中のある面を特に開拓したというのではない。始めに書いたように、あくまで「精神の英雄としてのベートーヴェン」をひく人である。
 だが、その彼にさえ、バックハウスやケンプ、エトヴィン・フィッシヤーといった名だたるベートーヴェン解釈家たちと違う点がある。アラウのベートーヴェンの特徴は、音にやわらかで豊かなソノリティが土台にあることと、それから、やっぱり一種の明るさが底流している点ではなかろうか。
『ディアベッリ変奏曲』をひくというのは、いうまでもなく、じょうだんではない。ここには、人をよせつけない峻厳さ、シャープで遠慮会釈のない辛辣さ、当人はじょうだんのつもりでもあんまり無遠慮で相手の気を悪くせずにすまないユーモア、皮肉といったものがいっぱいつめこまれている一方で、世界中のどんな音楽家もやったことのない人間の意識の深層への探険、無類に傷つきやすい優しさを冷静なポリフォニーのかげにおしかくした独特のフゲツタ、ショパンを先きどりしたようなエスプレッシーヴォの装飾音符の群れ等々がある。
 アラウは、そのすべてに真正面からぶつかってゆく。そういう中で、たとえば、この人独特のフレージングの生かし方に裏づけられた第14番の変奏(グラーヴェ・エ・マエストーソ)と第29番のアダージョ・マ・ノン・トロッポをきいていると、この一見共通性の少くないような二つの小品の間で、どんなに細心慎重なひきわけ方がされているかに、気がつくのである。
 前者では、pで始まって、二重付点音符をもつモチーフひとつを武器に、何回かのクレッシェンドをくりかえしては、そのたびfpやpによって中断される、大きな深呼吸がある。そして後者では、メッツァ・ヴォーチェで出発したあと、小さな休止符をはさんで、小さな呼吸をくりかえしながら、つぎにくるアンダンテ・センプレ・カンタービレの複雑なリズムのカノンで精神の統一をはかったあと、来るべき巨大なフーガの前のラールゴ・モルト・エスプレッシヴォの悲しみの夜曲で心のたけを歌いきるのである。

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 本当はピアノを超えた「精神無限の世界」の表現だといわれてきたこの巨大な作品に対して、ピアノという楽器で可能な限りの秘術をつくして、立ち向うアラウにとって、この仕事は、84歳という年齢にもかかわらずとり組むというより、84歳になった今こそ、果たすべき宿願だったという方が正しいのだろう。
 そのことが、この演奏を通じて、私たちきき手に、伝わってくる。ピアニストが息を吸ったり吐いたりする呼吸の音も、時どききこえてくるが、それと同時に、私たちは彼の頭から爪の先きまでの張りつめた精神とか、ある時は今にもはちきれそうなくらい、最大限に膨張した血管の中の、真赤な血液がどくどく音をたてて流れてゆくさまだとか、ある時は猛獣に狙いをつけた狩人が息をひそめ、匍匐前進しながら、「冷静に、冷静に!」と自分に言いきかせながら、照準器で正確な距離を計りながら、最後の呼吸をする。そんな姿が、この演奏をきいていると、ふと、目に浮ぶ。
 私は演奏を語るのに、あまりにも不正確な「文学化の遊戯」に耽りすぎているだろうか?
 だが、この演奏には、私がよくやるように、できるだけ「音の扱い」だけに別して記述するのでは掬いきれないものがあるのである。そういうやり方だったら、私たちはそう長い前でないころ、プレンデルのこの曲をひいたCDをもっているのである。あれも、すばらしい演奏だった。最初から実に快調の出だしで、一つ一つの音は鮮明を極め、また一つ一つの変奏の性格は見事にひきわけられていた。特にリズムの軽快な扱いは、きいていて実に気持がいい。しかも情趣にも欠けていない。つまり、あれは正に快演と呼ばれるにふさわしいものだった。しかも咳の声が時々入っていたり、終りにさかんな拍手があるのをみると、これはまぎれもない実演(ライヴ)に違いない。今から20年以上前、グルダの同じ実演のすごい『ディアベッリ』があったが、これは、それ以来、現役のピアニストの最高の『ディアベッリ』ではあるまいか。
 第10変奏の胸のすくような切れ味、さきにふれた第14変奏の二重付点リズムのモチーフによるクレッシェンドのもり上りの不気味なまでのすごさ。第23変奏のアレグロ・アッサイとはいいながら、その速さには度胆をぬかれる。その他、拾い上げればきりのないほどの細部のおもしろさがいっぱいつめこんである。
 すごい作品のすごい演奏。その場にいたら、私はここでも圧倒されて、しばらくはものもいえなくなるだろう。
 アラウのは、演奏の途中のいろんなところで、まるで天使と格闘するヤコブをみるような、不可能に挑戦する一人の人間の劇を目の当りしているという実感の手ごたえが湧いてくるのである。それが、私たちの胸を深く打ち、強くゆさぶる。
 ということは、つまりは、この人も結局は巨人の種属につながる一人だというわけになるのだろう。それに、これだけの苦しい作業にかかわらず、終ってみると、残るのは重苦しさや苦さでなくて、ある明るさであって、それが救いになる。
* プレンデル/ベートーヴェン『ディアベッリ変奏曲』 CD/Ph-32CD3059
   (出典 音楽の時間 *CD25選 吉田秀和著 (株)新潮社 1989.12.15)

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[Last Updated 8/31/2001]