17 バド・パウエル
ポートレイト・オブ・セロニアス



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  目 次

1 タイトル、曲名、演奏者
 CDのタイトルと収録された曲をご紹介します。
2 CDの紹介
 ライナーノートに載っている、演奏者バド・パウエルと、曲についての紹介です。
3 CDの聴き方
 「ジャズ完全入門 !」に載っている内容で、このCDの聴き方が判ります。

1 タイトルと曲名
◆バド・パウエル/ポートレイト・オブ・セロニアス+1 SRCS 9352
BUD POWELL/A PORTRAIT OF THELONIOUS

1. OFF MINOR
オフ・マイナー    (5:20)
-T.Monk-

2. THERE WILL NEVER BE ANOTHER YOU
ゼア・ウィル・ネヴァー・ピィ・アナザー・ユー (4:18)
-M.Gordon-H.Warren-

3. RUBY, MY DEAR
ルビー・マイ・ディア   (5:47)
-T.Monk-

4. NO NAME BLUES
ノー・ネーム・ブルース   (6:39)
-E.Bostic-

5. THELONIOUS
セロニアス        (3:46)
-T.Monk-

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6. MONK'S MOOD
モンクス・ムード     (7:07)
-T.Monk-

7. I AIN'T FOOLIN'
アイ・エイント・フーリン (3:19)
-C.Albertine-

8. SQUATTY
スクアツテイ      (5:49)
-B.Fahey-

9. SQUATTY (UNISSUIED ALTERNATE)
スクアツテイ(未発表テイク)    (5:06)
-B.Fahey-

<Personnel a Recording Data>
Bud Powell バド・パウェル(p)
Pierre Michelot ピエール・ミシュロット(b)
Kenny Clarke ケニー・クラーク(ds)

Rec Date : Dec.17,1961 at Studio Charlot, Paris
1961年12月17日 パリ録音

Produced by Julian "Cannonball" Adderley
Producer for CD Reissue by Orrin Keepnews
Product Director: Moto Uehara
Remastered from Original Session Tapes by Mark Wilder
Cover Painting by Pannonica de Koenigswarter

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2 CDの紹介
 ジャズを聴き出した頃、僕にとってパウエルは神様のような存在だった。神様という少々大げさな形容には、それこそ万感の思いが込められているわけで、その内容を説明することで、少しは僕のパウエル観を明らかにできるだろう。
 まず崇め奉ること、これはヒーローを求める若者特有の心理でもあるし、それが神様と呼はれるものの本質かもしれないが、それには相応の威厳格式、凄みが伴っていなければなるまい。どちらかというと、ジャズ解説書の類いには余り目を通さなかった僕にも、パウエルの「凄み」だけはすぐに伝わってきた。つまり、ジャズ史的知識の裏付けがなくとも、彼の演奏からはただならぬ気配が伺えるのである。
 もちろん圧倒的なテクニックの冴えを聴けば、誰でも驚かされるというものだか、ただ感心するだけでは凄みにはつながらない。たとえば同じように僕のジャズ入門期のスターだったオスカー・ピーターソンなどは、その華麗な演奏技術に舌を巻きこそすれ、それが畏敬の念となるよりは親しみの感情のほうに向いていったのは示唆的である。
 とこが違うのか。
 ピーターソン的テクニックは、その言わんとするところか誰にも理解できる。だからこそ親しみにもつなかるのだが、一方、パウエルの超絶的演奏から伝わってくるものは、「ただならぬ気配」ではあっても、決してその表現の核心を明らかにはしない。何やらただ事ではないのだが、その実態が今一つはっきりしないというのはまさしく神様的だと思うのだが、この謎めいたところがパウエルのおもしろさであると同時に近寄りがたさでもあろう。
 まだ20代の頃、『アメイジンク・バド・パウエル第1集』や、ルーストのトリオなどをそれこそ全身を耳にして聴き込んだものだが、その時の感覚は、笑われるかもしれないが、「ジャス修行」の趣があった。楽しみであるより、そこに何かしら凄いものがある、しかしその正体がつかめないので、それがわかるまで聴いてやろうという意気込みだ。
 パウエルには今あげた2枚のアルバムや、ヴァーブの、2作品『ジャズ・ジャイアント』『ジニアス・オブ・バド・パウエル』といった初期の「神業」のほかにも、「クレオパトラの夢」で有名な[シーン・チェンジス」、「パウエル・イン・パリ」といった後期作品群があり、それら二つのグループの間には微妙な違いがあるということはご存じと思う。
 その違いをパウエルが生涯悩まされた「精神疾患」の病跡学に求める理解が一般的だが、ともあれ、この『セロニアス・モンクの肖像』はいわゆる後期作品群に含まれる。

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 ところで僕はジャズ・ピアニストを数え上げるとき、習慣的に、パウエル、モンク、エヴァンス、と唱える。これは歴史的順序とも言えようし、僕にとっての「偉い順」でもあり、また極端なことを言ってしまえば、これでほぽモダン・ジャズピアノの全体像が概観できてしまう、便利な3人セットなのだ。
 頭の2人をとって、パウエル、モンク、というのもある。こちらはもう少し一般的に使われているようだが、僕流の使い方では、ジャズが本物の凄みを持っていた時代の気分を言外に匂わせるとき、「パウエル、モンクの頃は」というような言い方をする。どちらにしても、僕にとってこの連中は特別の存在なのである。この作品は、そのパウエルが、そのモンクをテーマにしているわけで、アルバム自体の成り立ちが格別の意味を持っているわけだ。
 先ほども言ったように、ジャズを聴きだした頃、僕にとってパウエルは神様みたいなものだった。もちろん今はそんな大仰なことは考えていないが、それでも、同じように僕のフェイバリット・ピアニストである、フラナガンやバリー・ハリスのことを語る時とは、ほんの少し気分が違っている。その辺のことをもう少し説明してみよう。
 一概には言えないが、僕の感じでは、パウエルはパウエル派より難しいと思う。フラナガン、ハリス、ケリーといった、ご存じパウエル派ピアニス卜にはスッと入って行けるファンも、肝心の御大パウエルにつまづくということかあるようなのだ。その感じは、実は僕白身の経験でもあってよくわかる。
 少々レトリカルな言い方かもしれないか、パウエル派は(当然)パウエルに似ているが、パウエルはパウエル派に似ていない。これはパウエルのところにパーカーを代入しても成り立つ公式で、一般に天才、オリジネーターと言われた人々と、そこから影響を受けた連中の間に起こりがちな不可逆的関係式なのである。
 ビ・バップ以降のモダン・ジャズピアノにおいて一般的な、右手のラインに重点をおいたホーンライクな奏法や、ピアノ、 ベース、ドラムスの組合せによるピアノトリオの基本フォーマットを作ったのは、言うまでもなくバド・パウエルの業績である。(そういえば、近頃このフォーマットでのレコーディングはパウエルが初めてではない、みたいな議論を見かけたが、あまり生産的とも思えない。問題は、そのスタイルで誰が一番幅広く影響力を行使したかなのだ)
 こうした、パウエルに由来する今ではごく当たり前となってしまった「ジャズピアノのやり方」をそっくり踏まえた上に、いわゆるパウエル節とでも言うべき常套フレーズも、パウエル派ピアニストはバドに対するオマージュの意味も含めて良く見せる。だから、演奏の枠組だけを見れば、例えは典型的パウエル派ピアニスト、バリー・ハリスとパウエルを区別するところはない。
 ところか、パウエルの音楽にはどこかしら人を寄せ付けない厳しさがあるのだ。これは、聴き慣れの問題ではないと思う。 一聴、耳慣れないスタイルも、何度も聴くうちに親しみがわくようなことを聴き慣れと称するが、パウエルの演奏は何度聴いても安易な親しさとして同化できないサムシンクが残ってしまう。謎と言っても良い。もちろんそこにパウエル独自の表現があるのだが、その秘密は容易に核心を現さない。

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 バリー・ハリスなどは、スタイルこそ違え冒頭のピーターソン同様、何度も聴くうちに彼の表現のエッセンスとも言うべき聴き所が見えてくる。そこに親しみもわくわけだか、パウエルの場合は、もちろんとんなピアニストにもまして特徴的な彼のやり方、個性は識別できるのだが、そこに表れているものを的確な言葉に言い表せないもどかしさを抱いてしまうのだ。簡単に言ってしまえば、聴き手の想像力より演奏者の存在のほうが大きいという事なのだか、その不思議が僕にとってパウエルを神様たらしめもし,また別格扱いもさせるわけだ。
 わからないことの魅力、これか僕をパウエルに結びつける。いや、考えてみれば、僕にとってのジャズの魅力は、突き詰めてしまえはネタの見えない驚きを聴くというところにあるのだから、パウエル的存在はジャズの魅力そのものと言ってもよい。だからここでも、安易な言葉で彼の音楽を説明しようとは思わない。
 そこで、からめ手からこのアルバムの聴き所に迫るとすると、まずポイントはパウエルとモンクの関係だろう。もちろん両者はバップ・ピアノの叢生期に重要な位置を占め、パウエルはモンクからさまざまな音楽的サゼッションを受けたことなどはよく知られているが、僕にとって興味深いのは、同時代を生きた二人の音楽の類縁性と差異の綾なのである。
 誰しも認める共通項として、影響力の大きさ、スタイルの独自性があげられようが、違いもまた大きい。簡単に言ってしまえは、パウエル派の存在に代表される如く、パウエルの影響は演奏スタイルとして広まった。一方、モンクの影響は彼のコンポジションを通して今日幅広く再認識されている。そして、おもしろいのは、ユニーク極まりないモンク的奏法がほとんど模倣困難であるにもかかわらず、彼の作曲した作品を通じ、モンクの音楽は現在
でも生命を保っていることと対照的に、パウエルの方はと言えば、あれだけ多くの追随者を生んだにもかかわらず、肝心のパウエルの音楽の真髄についてはついに伝承されえなかった皮肉である。
 要するに、モンクの苦楽は作曲的「構造」によって支えられている部分が少なからずあるのに対し、パウエルの(たとえ表層的模倣が可能とはいえ)演奏そのものの深みには誰も到達できなかったという、ごく当たり前のことがジャズの業を感じさせるのである。パウエルという特異な人物の不在と同時に消え去っていく運命にあるパウエルの音楽は、あの有名なドルフィーの言葉「音楽は演奏と共に空に消え去ってしまい、二度とそれを取り戻すことは出来ない‥‥」の意味にもう一度僕らを立ち返らせる。このはかなさ、この再現不可能がジャズを光輝かせているのだ。
 そしてこのアルバムは、ジャズの歴史において現在対照的な位置に立つ2人の巨人が、一方の作曲を演奏することによって1つとなった興味深い作品なのである。ごく通俗的な視点で言えば、「オフ・マイナー」「ルビー、マイ・ディア」「モンクス・ムード」といったおなじみのモンク・ナンバーをパウエルがどんな具合に料理しているかということ。もう少し突っ込んだ見方をすれば、モンクの音楽構造の中にパウエルが取り込まれているのか、あるいは、パウエルの演奏が完全にモンク的世界を御してしまっているのかといった興味である。

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 だが、こういった少々頭でっかちな発想は、演奏を聴くことによって小気味よく裏切られる。モンクの作曲を理念に比し、一方パウエルの演奏性を彼の身体に帰する安直な心身二元論は、心身の合一を極めて実践的なレベルで実践的なレベルで実現したほとんど唯一の表現形式である優れたジャズの演奏によって見事に乗り越えられている。すなわち、モンクの音楽はパウエルの演奏の中に生きているのだ。
 一般に後期パウエルは聴きやすいと言われているが、それもむべなるかなという枯れた趣を見せた演奏は、故郷を離れたジャズマンが異国で見せるそこはなとない感傷、などというところにまで聴き手の想像力が及んでしまう。また、この時期のパウエルは演奏にムラがあると指摘されることもあるか、これは例外的にまとまりか良く、パウエルフリークの穿った聴き込みを待たずともごく普通のピアノトリオとしても充分に楽しめ、またその気になってじっくりと付き合えば、天才ならではの底の知れなさも見せつけてくれる懐の深い演奏だ。
 最後に言わずもがなの感想を付け加えるならば、難しい難しいと言われるパウエルも、この辺りから何気なく近づけば、意外とすんなりと彼の世界に入っていけるのではなかろうか。         後藤雅洋
※本ライナーは、 92年のCD化時のものを流用しております。また、録音されてから年月か経過しているため、オリジナル・マスターテープの保存状態によっては、一部ノイズか認められる場合があります。またジャケット上の表記は、アナログ盤ジャケットを基本としております。こ了承下さい。
 (出典 ライナー・ノート)

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3 CDの聴き方
 絶対にいいのだけれど人に薦めるのに躊躇するミュージシャンやアルバムがある。とくにその人がジャズ入門者である場合はなおさらだ。これは趣味の問題ではない。はっきり言って、相手のジャズに対する姿勢や感受性をどの程度と踏んでよいのか迷う場合である。もしその人がお酒のBGMや、ちょっとおしゃれな音楽ぐらいに思っているときに、妙に深刻なものを始めから聴かせてしまうと、これはジャズ嫌いを作り出すようなものだ。
 バド・パウエルの音楽は別に深刻なものではないけれど、かと言ってそう気安いものでもない。きちんと聴けば必ずその底知れぬ凄みに気がつくはずだが、人に音楽の聴き方まで強要は出来ない。そこで、気楽に聴けて、自然に演奏に親しむうちに、だんだんとそのミュージシャンの世界にはまって行くようながものがあれば一番よいということになる。このアルバムはまさにそういった演奏なのだ。
 彼の作品としては晩年のもので、絶頂期の剃刀のような切れ味は薄れているが、その代わりにしみじみとした枯れた味わいや、天才ならではの自分の世界への没入ぶりが親しみやすい形で現れている優れたアルバムだ。時代背景は、「ジャズ・ジャイアンツ」のパウエルの章でふれた映画「ラウンド・ミッドナイト」で描かれていた時期で、ヨーロッパに渡ったパウエルが1961年にパリでレコーディングしたものである。サイドマンのドラマー、ケニー・クラークはバップ・ドラミングの確立者として有名だが、パウエルより早くからパリで演奏活動を行なっていた。
 アルバムのタイトルになっているセロニアス・モンクはパウエルより四歳年上のピアニストで、パウエルがデビューする前に彼からいろいろ教えてもらったということになっているが、実際に両者の演奏を聴いても格別似たところがあるわけではない。強いて言うならば、どちらも極めつきの個性の持ち主であり、誰かに影響を与えることはあっても受けることはとても考えられないという点では、共にジャズ界屈指の人間だ。
 このアルバムは、そうした縁でパウエルがモンクの曲を中心に演奏するという構成となつている。おもしろいのは、モンクの曲は一聴してそれとわかるほどユニークな節回しを持っており、また一方パウエルのピアノも、ちょっとした一節を耳にしただけで彼の演奏と分かるほど独特の世界を持っている。だから、その両者がブレンドされたら一体どうなるかと思いきや、これがまったく違和感なく自然なのだ。そうしてみると、別々に聴けばまったく似ているわけではない二人の音楽には、表面に現れない共通点があるのかもしれない。僕はそれを表現へのあくなき執着と力強さだと思っているが、まさに現在のジャズに欠落しているのが、その二つなのだ。
 パウエルの音楽は決して人を寄せつけないような孤高のものではないが、かと言って気安いものでもないと言ったが、それは彼があまり聴衆を意識せず、自分の世界に沈潜するタイプだからかもしれない。自分の世界に沈潜などと言うと一つ間違えれば「引きこもり」と思われかねないが、同じ引きこもりでもパウエルが身を潜める場所は、音楽の化身である天才が夢見る世界だけに、聴き手がその境地に踏み込むことが出来れば、黙ってジャズの極楽へ往生させてくれるという段取りになっている。
 このアルバムは聴きどころ云々と言うより、肩のカを抜いて繰り返し繰り返し聴くうちに、自然とパウエルの呼吸が自分のものとなり、彼の節回しが自分の声と重なるようになるのを待っているのがよいだろう。本当にいい曲が並んでいるので、ジャズを初めて聴く人でも苦労なくそれができると思う。
 (出典 ジャズ完全入門 !)

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[Last Updated 9/29/2001]