馬込文士村

文士レリーフ
大森駅西口前の天祖神社階段の途中にある文士村に住んでい
た文士のレリーフ。 全部で10枚あるので最初に見ておくとよい。

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 東京駅を発車した東海道新幹線が品川を通り過ぎてまもなく国道一号線(第2京浜)をまたぎ、やがて多摩川にさしかかります。気がつく人は少ないでしょうが、新幹線と国道一号線との交点が馬込橋のあたりで、その左側に馬込文士村は広がっています。鉄道でいえば京浜東北線の大森駅と、都営地下鉄線の西馬込を結んだ線の両側、道路でいえば国道一号線、環七、池上通り(大森駅と東急池上線の池上駅を結ぶ通り)に囲まれたあたりです。

詳しくは地図を参照して下さい。

 京浜急行に今でも大森海岸という駅があるように、このあたりは元は東京湾に面していましたが、山王のあたりと万福寺・郷土博物館のあるところは高台で、闇坂、臼田坂など坂が多く、散歩の際コースの取り方は注意がいります。文士の居住跡には区が建てた案内板がありますが、建物はないことが多いので、「馬込案内」にある見どころを中心に歩くとよいでしょう。
 つぎに当事者の一人でもある榊山潤の『馬込文士村』の中から、昭和初期の文壇の実情、馬込でのくらしを総括したような次の一文を紹介します。
 「私たちが馬込に住んだ昭和初年、日本は不景気のどん底にあった。今日(註 昭和四十五年)は高度成長とかでそれとは逆に好景気のてっぺんにあるようだが、底に漂う不安定な悪気流は、ひどく似通っている。あの頃はプロレタリア文学が全盛をさわめ、純文学派で形成されていたいわゆる文壇村は、なかば崩壊の状態に追いつめられていた。純文学でのびて行こうとする若い作家にとっては、まさに苦難の時代であった。尾崎士郎などもそういう苦境におかれたひとりだが、あえて尾崎ひとりとはいえない。馬込に集まった若い作家は一様に、正直な言い方をすれば、食うや食わずのその日暮しであった。  だが、馬込はあかるかった。彼らを支えたのはめげない若さ、八方やぶれの抵抗力、というようなものにちがいなかったが、あかるいばかりでなく、馬込は笑いに充ちていた。巷に不景気かぜは吹さ荒れていたが、ふしぎなことにあの頃は、好景気の頂上にある今日とは較べものにならないほど、暮しよかった。世の中の万事が、金銭よりも人間を主体としていたからであろう。しかし馬込の楽しさは、そういう時代の反映としてあったのではない。馬込には他に見られない特種な雰囲気が生れ、私たちはその渦の中で、ただがやがやとおもしろおかしい毎日をすごした。」
(出典 大田区立郷土博物館発行「馬込文士村」)

[馬込の歴史]
昭和 3年 1月1日   馬込村に町制施行され、馬込町と改称する。
昭和 7年10月1日   馬込町塚越区と馬込町中丸区が合併する。
昭和 8年 6月      「馬込半白胡瓜採種組合」が設立される。
昭和11年10月     第二京浜国道工事中、塚越台地に太古の人骨が多数発掘されたので、横穴古墳群として郷土史に記載され、地元では「ニジアナ」と呼んだ。
昭和15年 4月     国道一級「第二京浜道路一号線」が完成する。
昭和18年 7月1日   東京市が東京都になり、「東京都大森区馬込町西二丁目町会」となる。
昭和20年 4月24日  馬込地区「空襲戦災」被る。
(出典 平成15年創立70周年記念誌 馬込西二丁目町会)

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[Last Updated 11/30/2006]