日本の戦争

田原総一朗著
(株式会社 小学館)
2000年11月20日 初版発行
2000年12月20日 第3刷発行
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目 次
1. 著者紹介
2. まえがき
3. 目 次
4. あとがき
[著者紹介]
田原総一朗(たはら・そういちろう)
滋賀県彦根市生まれ。早稲田大学文学部卒業。
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、77年、フリーに。現在は政治・経済・メディア・コンピューター等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸賞)を受賞した。テレビ朝日系の『サンデープロジェクト』は12年目、『朝まで生テレビ』は14年目に人つた。
著書に『原子力戦争』『業際の時代』『マイコンウォーズ』『電通』『飽食時代の性』『日本の官僚』三部作『メディア・ウォーズ』『田原総一朗の闘うテレビ論』『顔のない鯨〜政治劇の真実』『巨大な落日〜大蔵官僚 敗走の850目』 ほか多数。
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[まえがき]
わたしの心の中に、いつか明らかにしたいと願っていた大きな疑問があった。何と五五年間も疑問のまま抱えていた。
なぜ、日本は負ける戦争をしたのか。
わたしが、小学校、当時は国民学校五年のとき、あの戦争は終わった。そのときから疑問のままであった。やっと、五〇年目を過ぎる頃から、これに真向かってみようという気持ちになった。いま、答えを見つけたい、と切実に思うようになった。わたしの年齢かもしれない。時代の潮の流れが気になるのかもしれない。この五年間、いままであまりお目にかからないような分野のかたがたにたくさんの教えを乞い、いままでになかったほど歴史の勉強が出来た。おのれの無知とたたかいながらの楽しい作業ではあったが、一番困ったことは、公刊された書物は、当然ながら各々の時代の産物であり、戦前はともかくも、戦後の五五年間の間に出版されたものは参考にならないもののほうが、俄然多かった。ということも、また面白かった。
それで、なぜ、あれほど無残な戦争を始めたのか、ということである。
わたしが国民学校に入学したのは、1941年(昭和16)、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と称した)が勃発した年だった。二年生の春までは、日本軍がアジアにある英、仏、蘭、そして米国の植民地を次々に解放したという威勢のよいニュースを聞かされていた。二年生の六月にミッドウェーの海戦で日本は惨敗するのだが、この事実は国民には知らされなかった。
しかし、二年生の三学期になるとガダルカナル島からの撤兵、そして三年生になるとアッツ島の玉砕(全滅ということ)、キスカ島を放棄などと日本軍の敗色が色濃くなり、わたしたちが知らされるのは、日本軍玉砕のニュースばかりとなった。
そして、東京、大阪、名古屋をはじめ大都市のはとんどはアメリカ軍のB-29の空襲で焼け野原となり、広島、長崎への原爆投下で21万人が殺されて敗戦となった。沖縄でも民間人10〜15万人、軍人六・五万人が殺された。
1945年(昭和20)8月15日。天皇の玉音放送を聞いてわたしは泣いた。海軍兵学校に行きたいと考えていたので、前途が閉ざされたことを悲しんだのだ。しかし、本音をいえば、日本の敗戦はわたしにとっては″解放″であった。
わたしの脳裏に刻み込まれていたのは、日本敗退のプロセスばかりで、最期は日本人の全てが玉砕する、つまり死ぬのだと思い込んでいたからである。
それにしても、なぜこれほどムチヤクチヤに叩きのめされ、子供までが日本人全員玉砕を覚悟しなければならない戦争を日本は始めてしまったのか。
なぜ、米、英、蘭、ソ連、中国と、世界を敵にまわすようなことになってしまったのか。
これが、敗戦直後に、わたしが抱いた疑問だったのである。
だが、疑問を解くチャンスはなかなか訪れなかった。
敗戦後の小学校五、六年でも、中学でも、高校でも、明治以後の日本の近代史、とくに日清戦争、日露戦争を含めて、開戦へのいきさつ、戦争のありようについては、一切触れなかった。学校の授業で、それに触れるのはタブーのように、というよりタブーそのものとなっていたのである。大学でも、日本の近代戦争に取り組む講座は皆無だった。教授や先輩たちに、とくに昭和の戦争について問うと、″なぜ負ける戦争を始めたのか″などというのは愚問で、日本は国際ルールに違反する侵略戦争に突っ走り、世界は当然そんな暴挙など許すはずはなく、負けるべくして負けたのだと咎めるように説明された。
侵略とは、もちろん許されるべきことではない。だが、たとえ悪いことにせよ、やる限りは当時の日本人だって成功することを考えたに違いない。だが、太平洋戦争に突入するときに、すでに日米の国力(鉄の生産量)は、1対10で、どんな奇跡が起きようと、日本が勝つ可能性などなかった。フィリピンで戦死した従兄が勝つわけないと縁先でつぶやいたのを不思議な気分で聞いたことがあった。
失敗するに決まっている侵略を、承知で突っ走るほど当時の首脳陣はバカだったのか。
なぜか、に答えてくれる教授も先輩もいなかった。侵略戦争の動機や意味を詮索するのは、保守反動だと叱られた。保守、反動だという言葉で黙らせられる時代だった。はっきりいってしまえば、日本の近代戦争史は、『侵略』それは『悪』というレッテルで封印されて、戦後長い時間、それを詮索、いや考察することが出来なかった。誰がそれをタブーにしたか。それはそれで実に戦後の時代を考える上で重いテーマだが、次の機会にするとして、はじめに戻る。
なぜ、戦争を始めたのか。なぜ、負けたのか。なぜ、日本は、明治の時代から西欧を懸命に追いかけてきて、その果てになぜ『悪』の国家として世界から糾弾されるようになったのか。
疑問はいくらでもあった。
侵略国日本を懲らしめた、米、英、蘭、それに仏も、いずれも植民地を持っていた。ソ連でも、1000万人以上の虐殺が行なわれて、嫌がる国が無理やりにソ連邦に組み込まれていた。植民地を作るとは、つまり侵略ということにはならないのか。が、かの国々はまるで正義の国のように遇されている。
少なくとも、どの国も1945年の日本の敗戦までは植民地を所有しつづけていた。一体近代日本は、何に成功し、何を、どの地点で失敗したのか。それとも近代日本は明治維新の最初から誤れる暴走をつづけて来たということなのか。
それにしても、五五年は長すぎる。わたしは、何度か、そのことを取材しょうと試みたが、取材に応じてくれる学者を見つけることが出来なくて萎えてしまっていたのだ。
そして、気がつくと、日本の昭和の戦争を肯定し、積極的に評価する論文がどんどん出るようになって来た。
あの戦争が″失敗″だったと実感しているわたしは少なからず困惑した。
そこで、少年の頃から五五年間抱えつづけて来た疑問の解明に取り組むことにしたのである。
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[目 次]
まえがき 8
第1章 富国強兵−「強兵」はいつから「富国」に優先されたか
「日本」をデザインしたのは島津斉彬 14
大久保利通の「したたかな現実主義」 23
「妖怪」岩倉具視の暗躍 36
山県有朋の「強兵」が「富国」を駆逐 47
第2章 和魂洋才−大和魂とはそもそも「もののあはれを知る心」だった
誰がいついい出したのかわからない 62
新井白石はなぜ「洋魂」を拒否したのか 73
福沢諭吉にとって「忠君愛国」は問題外 85
「女性的で平和な心」が「愛国」と「武断」に変貌した 96
第3章 自由民権−なぜ明治の日本から「自由」が消えていったか
自由民権運動は坂本龍馬にまで遡る 112
明治民権論者たちの血を沸きたたせた名台詞 123
板垣退助の「定説」を覆す資料を発見 135
「ああ自由党死す」中江兆民はそう嘆いた 146
第4章 帝国主義−「日清・日露戦争」「日韓併合」は「侵略」だったのか
伊藤博文は「韓国」で「大悪人視」された 160
伊藤内閣が飛びついた「朝鮮出兵」の裏 172
日清戦争に「侵略」の意識はなかった 184
「維新の第二世代」が仕掛けた対露開戦 195
日露戦争で国際戦略に初めて目覚めた 206
伊藤博文はなぜ「日韓併合」に走ったか 218
「韓国の独立」を守ろうとして挫折 229
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第5章 昭和維新−暴走したのは本当に「軍」だけだったか
誰も書かなかった「二・二六事件」のミステリー 246
「元老」も「政党」も力を失った 257
軍の政治介入を誘導した政友会 268
青年将校たちはなぜ一線を越えたのか 280
国際連盟脱退は大した問題ではない 291
私闘でしかなかった陸軍の派閥抗争 303
二・二六事件は戦争に直結していない 314
第6章 五族協和−「日本の軍事力でアジアを解放」は本気だった?
「中国革命万歳」と絶叫した石原莞爾 328
満州事変をうまく処理していれば「大東亜戦争」は起らなかった? 319
満州国建国の本質は「戦略拠点」づくり 350
日本の軍事力でアジアを解放する? 360
日中戦争と満州事変はまったく逆の構図 372
第7章 八紘一宇−日本を「大東亜戦争」に引きずり込んだのは誰か
45歳の近衛文麿新首相の誕生 384
「国民政府を対手とせず」は昭和政治史最大の愚行 395
日本に「独裁者」がいたら戦争は止められた 407
松岡洋右の幻の「四国同盟」構想 418
日本を追い詰めたアメリカの「マジック」 430
天皇の「戦争反対」はなぜ通らなかったのか 441
不幸なあの日に一歩一歩近づいていく 452
天皇に報告しながら涙を流した東条英機 464
情けない戦争はこうして始まった 475
あとがき 488
参考文献 491
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[あとがき]
日本の、太平洋戦争勃発に到るまでの近代戦争を辿る五年に及ぶ作業は、何よりわたし自身にとって大変貴重な勉強になった。自分の無知を晒すことになるのだろうが、意外な事実の発見の連続であった。
わが″常識″は次から次へと訂正せざるを得なかった。
戦前、戦中も、軍人には一切選挙権がなかったこともあらためての発見であったし、日中戦争が勃発する以前までは、天皇制否定以外の言論の自由があったことも、意外な事実であった。
そして何より、あの戦争が始まった原因は、軍部の暴走ではなく、世論迎合だった。
なぜ、戦後われら日本人は、戦争責任を曖昧にしてきたのか。この間、いろいろいわれてきたが、この作業をやってきて、わたしは、それをはっきり理解した。
この作業を可能にし、随所で指導いただいた、坂野潤治(千葉大学教授)、井上寿一(学習院大学教授)、御厨貴(政策研究大学院大学教授)、秦郁彦(日本大学教授)、北岡伸一(東京大学教授)、伊藤隆(政策研究大学院大学教授)、毛利敏彦(広島市立大学教授)、岡崎久彦(外交評論家)、斎藤正二(創価大学特任教授)、坂本多加雄(学習院大学教授)、松尾正人(中央大学教授)、菅原彬州(同)、高坂史朗(近畿大学教授)、田中彰(札幌学院大学教授)、伊原沢周(追手門学院大学教授)、水林澄雄(元明治学院大学教授)、寺崎修(慶應義塾大学教授)、松永昌三(日本女子大学教授)、梅森直之(早稲田大学教授)、岡崎正道(岩手大学教授)、姜尚中(東京大学教授)、岡崎哲二(同)、有馬学(九州大学教授)、山崎国紀(花園大学教授)、掘切利高(社会主義研究家)等の方々に心からのお礼を申し上げる。取材のあと、再び電話で質問をかさねたり、日をあらためて再取材をお願いしたりと、ずい分とご迷惑をおかけした。また、書物から引用させていただいた数多くの研究者、作家の方々にも心からお礼申し上げる。なお、文中に登場していただいた方々の敬称は略させていただいた。
また、この作業のための貴重な場(『SAPIO』)を提供してくれた、というより企画の段階から全面協力してくれた坂本隆(小学館第五編集部次長)、竹内明彦(『SAPIO』編集長)、塩見健(『SAPIO』編集長代理)、粂田昌志(『週刊ポスト』副編集長)の各氏には、あらためて感謝の念を示したい。なお、この作業は、村田信之、本郷明美、平田久典、そして妻節子の献身的協力なしにはなし得なかった。
最後になりましたが、この本を手にとって下さった読者の方々に深々と頭を下げます。ありがとうございました。ぜひじっくり読んで下さい。そしてさらなるご教示をお願いいたします。 田原総一朗
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[Last Updated 5/31/2001]