陸奥宗光



岡崎久彦著 著

(P H P 研究所)
1987年12月4日

「近現代史2」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

目 次

1. 著者紹介
2. まえがき
3. 本の目次
4. エピローグ−春の雪幻想


1. 著者紹介
岡崎 久彦(おかぎき ひさひこ)
1930(昭和5)年大連生まれ。1952年外交官試験合格と同時に東京大学法学部中退、外務省入省。1955年ケンブリッジ大学経済学部卒業。ロンドン、マニラ、パリ、ワシントン、ソウルの各日本大使館勤務をへて、外務省分析課長、調査課長、中近東アフリカ局参事官。1978年防衛庁国際関係担当参事官、1981〜82年駐米公使。ジョージタウン大学戦略国際問題研究所、ランド・コーポレイション、ハーバード大学の各客員研究員を勤める。外務省調査企画部長をへて、1984年情報調査局長、現在、サウジアラビア大使。
著書に『隣の国で考えたこと』(筆名・長坂覚、日本エッセイストクラブ賞、中公文庫)『国家と情報』(文春文庫)『戦略的思考とは何か』(中公新書)『情報・戦略論ノート』(PHP研究所)ほか

2. まえがき
 この陸奥宗光伝を書くにあたって、私が心がけたことは、ただ一つだけと言っても良い。それは、陸奥という人間と彼が生きた時代を、出来るかぎり、正確に、ありのままに、読者にお伝えするということである。
 読者の中には、私が、陸奥にことかけて、自分の言いたいことを思う存分書いているような印象を持たれる方もあるかもしれないと思う。
 そういう印象を与えるかもしれないことは自分でも知っている。しかし、むしろ、私としては、歴史上の真実というものを、一切の妥協を排して、読者に伝えようとすればするほど、時として、文章が激しくもなり、理屈っぽくもなってしまうのを、いつも申し訳なく思いながら書いていた、というのが偽りの無い気持である。そうでもしないと、どうしようもないぐらい、日本歴史の真実というものが、いままでの偏った史観や、歴史の通俗的解釈のいい加減さの中に埋もれてしまっているように感じるのである。

目次に戻る

 歴史の真実について、何もそこまで神経質に考えることもないではないかと言われるかもしれないが、従来とも、私が、気になってしかたがないことの一つは、歴史小説や、テレビの大河ドラマなどを見ていると、登場人物が、その時代の人がするはずがない考え方をして、言うはずのないせりふを言っていることである。
 ただの娯楽だからと言えば、それまでであるが、そういうことばかりしていると、日本人の記憶の中から、歴史の中の過去の真実というものが失われてしまうのではないかと思うのである。

 大衆的な歴史小説に限らず、専門家の方々の学問的な著作の中にも、違和感を持たざるを得ないものも多々ある。
 ある人物や時代について、特定の部分の引用は必ずしも間違っていなくても、その人物や歴史の全体像から見てバランスを失しているような引用は、やはり、歴史をゆがめてしまうと思う。
 戦前の歴史は、偉人をほめるために、しばしばその人物の全体像と関係のないような片言隻句を搾り上げては、「尊皇の志があった」と書いた。そして、戦後の反体制運動華やかなりし頃は、個人でも社会の集団でも、「権力に抵抗した」ときのことだけを、他の事実と較べてアンバランスに大きく取り上げて、その意義を強調している。こういうことも、気になるのである。
 これほど単純でれかり易い史観もない。むしろそうなれば、もう、歴史を読む必要さえもないのではないかと思う。読む前から、「尊皇の志をもつのは偉い」、あるいは「権力に抵抗するのは良い」ということだけ覚えていれば、それ以上、歴史から学ぶものがないからである。
 反体制史観のようなものは、戦後のある時期のあだ花に過ぎなかったのてあろうが、平和主義は、戦後史観の一貫した金科玉条であり、また人類の思想の一部としてしばしば歴史の中にそれなりの意義ある役割を果たしている。
 だからといって、戦前の歴史は豊臣秀吉の帝国主義を讃えたから悪いけれども、戦後の歴史は、たとえば、最近のテレビ・ドラマのように徳川家康を一方的に平和主義者と描写して、その平和主義をほめているのだから、良いのだ、などと言うのは、やはり、おかしいのではないかと思う。
 時流というものは変わるものである。それがある時期にどんなに正しく見えても、その時の時流に沿って歴史の解釈を勝手に変えても良い、というものでもない。そういう考え方をしていると、歴史は、政治的なマス・プロパガンダの手段になってしまって、もし将来、再び時流が変わった時に、マス・プロパガンダが国民をどんな方向に持って行くのか、予断できないことになる。
 歴史というものは、歴史の真実を反映しているものが一ばん良いのだ、という、歴史について最低限の基準(ミニマム・ディシプリン)がないと、どこまで流されてしまうか、わからなくなってしまうと思うのである。

目次に戻る

「愚者は経験から学ぶ。余は歴史から学ぶ」と言ったのはビスマルクだったと記憶する。
 今の日本人の五十歳以下の人達が経験で知っている時代というのは、戦後の四十余年間である。その経験は、決して豊かなものとは言えない。なぜなら、その期間は、日米安保体制下の安全と平和、世界の開放自由経済の下の繁栄が途切れることなく続いた時代であり、戦争も恐慌も知らないという、温室の中の経験だけだからである。
 この戦後たった一世代の経験で知っている範囲の日本人の考え方や行動様式を、歴史のどんな時代であるかもかまわず、一様にあてはめるようなことばかりしていると、もし、戦争や大恐慌など、日本を取り巻く環境が激変した時に、誰も個人個人の経験からだけでは判断する手がかりがなくなってしまって、ちょうど二百年の太平のあとで黒船が来た時のように、方向を見失って社会の基礎までが揺らいでしまうのではないか、と思うのである。
 そういう時こそ、歴史的ヴィジョンが必要となって来るのである。そして、その基礎となる、正しい歴史認識というものが心要となるのだと思う。
 実は、陸奥伝を書くお誘いは前にもあった。その時は、現職を引退してからでもと思ってご辞退したのだが、そうこうしているうちに、戦後という時代も、半世紀近くになり、戦前を知らない世代が大多数となって来た。そして、年のせいか、そういう人達の歴史の見方に違和感を感じるようになって来た。
 私だけが、歴史の真実を知っているなどという思い上がりは毛頭ない。また、私の明治史観も、父祖たちのもっていた雰囲気から間接的に知っているものに過ぎず、それ自体、偏った面がある可能性も十分知っている。
 しかし、語り部というものは、そういうものだと思う。個人の経験だけでなく、父祖からの伝承を語りついだのが歴史の始まりだったのであろう。しかし、それでも、後世の人間がイデオロギーで考えて、人為的に構成した歴史よりも、時代の真の雰囲気を良く伝えているということはあると思う。
 私も、すでに五十半ばを過ぎ、年の上からはそろそろ語り部となる資格も出てきた。私の知っている幕末、明治から太平洋戦争に至る百年間の時代というものの雰囲気をお伝えするのも、私の世代の義務かとも思って、今回の執筆をお引き受けした。

 繰り返せば、この陸奥伝で、私が努力したことは、登場人物達が、その時代をいかに生き抜いて来たかを現代社会からの色眼鏡を通じてでなく、その当時の時代精神と、それぞれが生れ育った伝統と教養から、できるかぎり正確に描き出そうとすることであった。

目次に戻る

 そして、その障害となるものを、ことごとく振り捨てようとしたあまり、従来の皇国史観、薩長史観、マルクス史観、疑似マルクス史観(使っている用語はマルクス的であるが、かならづしも、正統なマルクス・レーニンの史観でないものを、私なりにそう呼んでいる)、反体制史観などによる、先人達の史観に対しては、ずい分失礼にあたるかもしれないことも書いてきたが、これはすべて、歴史の真実を求めようとした以外に他意の無かったことを申し上げる。
 事実関係には、創作は全く無く、すべてに出典があるが、ただ近代の学術論文のように、いちいち「注」をつけることは、文章の流れを妨げるような感じがするので、資料は一括して下巻の巻末に掲げた。ただ、本当に学究的な御関心から、出典について御質問のある場合は、集めた資料が散逸しないうちならば、個別に御質問にお答えすることにやぶさかでない。
 また、大した数ではないが、未公表の資料も使ったし、私個人の観察もあるが、それらは、皆、明らかにそうとわかる表現で書いてあるので、読者が、私の個人的観察を、史実と混同される心配も無いと思う。また、言うまでもなく、私の観察は、すべて個人的なものであり、私の職分の上からの発言ではない。
 引用は、できるかぎり原文通りとした。しかし、当時は、漢字も仮名遣いも統一されていないので、当て字も多く、あまりに読みづらいもので、内容に何ら影響の無い場合は、読み易く修正したものもある。
 本書の執筆にあたっては、数多くの先人の資料から教えられる所があったが、なかでも、萩原延寿先生の集められた資料の正確、豊富さには感嘆した。伝記として未完であり、現在のところ単行本化されていないので、はじめは失念していたが、新聞連載の切り抜きを読み返した時は、戦後すでにこれだけの陸奥伝があるのに、『Voice』の連載(昭和60年9月号〜昭和62年8月号)を始めた私の無謀さがこわくなった位であった。書いてみれば、書く人間も違うので、私が書く意味もないではなかったと思うが、改めて、萩原氏の名作に敬意を表したい。
 勝部眞長先生からは、終始御懇篤な激励の御言葉を賜わり、また、その御見識にふれる機会を種々作って下さったことに深く感謝申し上げる。
 また、中塚明先生は、私が、先生の同僚、後輩にあたられる戦後史家達に、ともすれば批判的な発言をしたにもかかわらず、それと全く無関係に、もっぱら学問的な立場から種々御教示を賜わり、時に、わざわざ資料のコピーまで取って送って下さったことに、深く御礼申し上げる。真の学者とは、良きものと、改めて感銘を受けた。
 更に、浩瀚な陸奥ノートを金沢文庫からコピーして下さったり、また、その他必要な文献を次々に国立国会図書館からコピーして、サウジ・アラビアまで空送して下さった、真部栄一氏はじめPHP研究所の皆様に厚く御礼申し上げる。このPHPの協力なしに、本伝の執筆は不可能だったと言って過言でなく、この本は、PHP研究所出版部との共同作業と言っても良いと思っている。

目次に戻る

 なお、陸奥宗光の嫡孫にあたられる陸奥陽之助氏、外孫の木村夏雄氏からも、数々の貴重な御教示を得たことに感謝申し上げる。

 最後に、とくにあらたまって献辞というほどのことでもないが、『Voice』連載を始めた頃に、私の母と、その竹馬の友であり、同年の陸奥陽之助氏が、ともに、喜寿をむかえられたことに、お祝いの気持を捧げたい。
 昭和62年11月         サウジ・アラビアにて 岡崎久彦

3. 本の目次

まえがき

上 巻
1 行路難−父宗広の幽囚、時に宗光十歳。父子苦難の道が始まる
 父子二代の苦難の道 15
 規格はずれの秀才 19
 粋人宗広、財政危機を救う 22
 移り行く18世紀の栄華 27
 紀州藩内の権力闘争 31
 宗光のハングリー精神の原点 38

2 自得翁−幽囚解かれ父宗広、脱藩。尊皇派の指導的存在となる
 悲嘆と失望の中で 44
 諦念から仏道へ 48
 越渓の痛棒に開眼 52
 宗広・宗興父子の脱藩 55
 幕府衰亡を予見した歴史眼 60

目次に戻る

3 嘘つき小二郎−幕府瓦解、そして王政復古。紀州藩の危機を救う
 男児志を立てて郷関を出づ 67
 逃げの稽古 71
 歌川との出会い 73
 再会した女の心意気 78
 田舎侍や代議士のヤボ遊び 85
 龍馬に見込まれた小二郎 87
 海援隊 92
 御三家筆頭を自任する紀州 95
 紀州藩の窮境を救った宗光 98

4 新政府−官途を離れて宗光の胸中には危険極まりない構想が
 外交に向けた先見の明 103
 壌夷の後始末 106
 謎を残す突然の辞表 108
 甲鉄艦引き取り 112
 財政策で衝突 114
 廃藩置県の献策 116
 決然官途を離れて紀州 118

5 鵬翼折る−薩長を凌ぐ独立王国も廃藩置県で解兵、再び中央に
 恐るべき大計画とは 122
 紀州藩の大改革 125
 全国に先んじた徴兵制度 128
 経世済民を第一義とした津田出 130
 幻の陸奥王国 134
 「逃げるが勝ち」 139

目次に戻る

6 冬の鶯−薩長中心の藩閥人事は陸奥を出世の階段からはずした
 神奈川県令時代 143
 地租改正の歴史的業蹟 147
 陸奥の才能主義 150
 政治家としての陸奥 153
 政治家の「器」というもの 157
 生涯の大隈嫌い 158
 藩閥反対も俺ならよいが…… 161
 日本最初の国家予算書作成 163
 藩閥人事に忍耐も限界 165

7 「日本人」−征韓論で分裂する政府。陸奥は思いを大論文に託す
 西郷という人物 169
 征韓論の非現実性 173
 陸奥冷遇の背景 178
 西郷、津田に経綸を問う 180
 「日本人」 184
 薩長専制を痛撃 188
 明治維新史観 193
 自由民権運動の発端 195
 独往の人、陸奥 198

8 土佐のいごっそう−陸奥の最後の牙城・元老院も骨抜きにされていく……
 「いごっそう」に振り回された陸奥の生涯 204
 後藤の粗放さ、明朗闊達さ 207
 大政奉還と討幕密勅のタイミング 210
 大阪会議 213
 伊藤の建白書の冴え 217
 元老院の権限をめぐつて 221
 デモクラシーの正道 224

目次に戻る

9 運命の年−明治十年、陸奥一世一代の錯誤を犯すことになる
 西郷の心事 228
 武士道とエリーティズム 230
 明治政府存亡の危機 233
 立志社の動き 236
 齟齬した陸奥の策略 238
 リベラルな政治体制をめざす 242
 裏をかかれた挙兵計画 245
 粗雑な土佐急進派の計画 249
 要人暗殺計画の謎 252
 運命の明治十年 254
 父宗広逝き木戸も世を去る 257

10 夢破る−禁獄五年の判決。陸奥は失意の中、幽囚の身となる
 陸奥の逮捕と判決 261
 竹橋事件と岡本柳之助 266
 悔恨の詩篇 269
 詩作を絶つ 274
 家族への切々たる想い 276
 悲愁の中の内面的成長 281

11 蛍雪の功 再び−獄中の刻苦勉励。陸奥の政治思想が固まっていく……
 獄中の充電期 284
 義弟中島来訪の喜び 286
 政治の原点を考える 291
 大きかったベンサムの影響 295
 荻生徂徠の政治思想 299
 明治維新と陽明学の功罪 303
 『資治性理談』に表われた思想 305
 自由主義と功利主義への理解 310
 『面壁独語』の切れ味 313
 民度の向上による国権回復 316
 『福堂独語』の社会教育論 319
 文章は経国の大業 321
 『左氏辞令一斑』 325
 大国間に処する道は 328
 鄭国に託する陸奥の想い 332

目次に戻る

12 鷙鳥は群れず−出獄後、自由党と訣別した陸奥は、外遊の途につく
 暗夜俄に暁に達す 336
 凱旋将軍のごとく 338
 自由党の勧誘を拒否 341
 入獄中の政治情勢の変化 345
 弾圧と過激派の暴発 348
 悍馬、星亨 351
 明治の自由民権運動の流れ 353
 戦後史観への疑問 357
 板垣の信念と節操 360
 伊藤との友情再び 365

下 巻
13 蛍雪の功三たび−四十を越しての外遊。陸奥は議会政治の本質を学ぶ
 陸奥の外遊に寄せる伊藤の期待 9
 プロシア型憲法とアングロサクソン型憲法 11
 伊藤に託した憲法調査の大任 15
 伊藤、シュタイン教授に心酔 19
 欧州大陸の前に米・英の視察 22
 七冊のノート 25
 「責任内閣制」を問いつめる 28
 将来を見通す陸奥の洞察力 32
 シュタインとの出合い 36
 シュタインの理想とする政治体制 41
 プロシア型を導入した明治人の叡智 43
 驚嘆に値する陸奥の勉強ぶり 46

目次に戻る

14 再出発−二年の外遊を終え、陸奥は外務省就官の道を選んだ
 「歴山王の像に題す」 51
 妻に送った五十通の手紙 54
 帰国の日を秘す心境 59
 就官の道を選ぶ 61
 世人の非難に堪えて 63
 自由党の孤塁を守る星 66
 志士の真情を知る陸奥 69
 国外へ開かれた国民の眼 71
 板垣・後藤の朝鮮経略論 74
 甲申事変と大阪事件 76
 星の強烈な反エリート意識 79
 相次ぐ国辱事件に無念の想い 81

15 条約改正問題−陸奥は駐米公使として初めて外交の表舞台に立つた
 特命全権公使に昇格 85
 井上外相時代の条約改正問題の経緯 88
 「開国」による治外法権撤廃を意図 92
 陸奥の欧化主義の信念 96
 井上改正案の挫折 101
 外相に大隈、陸奥駐米公使となる 103
 メキシコとの完全平等条約締結に成功 106
 日本外交の宿命 111
 大隈新案に憲法違反の疑い 115
 燃え上がる反対の火の手 118

目次に戻る

16 入閣−農商務大臣として初の入閣、陸奥はここでも手腕を発揮した
 駐米公使から農商務相へ 121
 事の行きちがいに憤然、帰米も決意 126
 陸奥を阻む二つの障壁 129
 農水行政にも足跡を残す 132

17 初期議会時代−いよいよ議会開設、だがたちまちそれを堕落させたものは何か
 理想を実現した第一回総選挙 137
 板垣の見識 141
 明治の日本憲政の良識 146
 松方内閣の成立と陸奥の「政務部」構想 151
 松方内閣の行きづまりと大選挙干渉 155
 日本政治腐敗の遠因 160
 介入が議会主義の本質を破壊する 164
 理想の政治は幻想か 167

18 元勲内閣−議会運営の危機の中、陸奥は外務大臣に就任した
 第二次伊藤内閣誕生、陸奥は外相に 171
 ビスマルク型の国会運営の試み 174
 天皇と側近の政治介入を排除 178
 星、板垣、福沢の愛国王義 180
 星亨と自由党 184
 睦奥の裏面工作 186
 第四議会における伊藤、陸奥、星の連繋プレイ 190
 外交案件処理の切れ味 192
 開明派と国粋派対立の底流 195

目次に戻る

19 条約改正成る−正念場に立たされた陸奥は歴史に残る大演祝を行なう
 条約改正に向かっての周到な国内体制 198
 星議長失脚と改正反対運動 204
 陸奥の不退転の決意 207
 歴史に残る大演説 210
 一貫不動の陸奥の信念 214
 一向に始まらない日英正式交渉 218
 子測外の蹉跌 221
 日英新条約ついに調印 223

20 大日本帝国時代の幕明け(日清戦争その一)
 −朝鮮半島における日清のへゲモニー争いが戦争の口火となる
 豊島沖に日清戦争の火蓋切らる 226
 完成されている日清戦史 228
 明治日本の帝国主義 233
 日清両国の帝国主義の衝突 238
 第一弾はどちら側が? 242
 李鴻章狙撃の代償は休戦 345
 講和条約批准の日に早くも三国干渉の動き 377
 ロシア進出と日英関係の変化 381
 仏・独の事情 383
 陸奥の見識 388
 武力の背景なき外交 390
 東郷平八郎の戦略的発想 246
 「高陛号」事件の外交措置 249
 壬午・甲申事変の教訓 252
 朝鮮は独立国か藩属国か 256
 開戦の口実を作る 259
 東学党の乱 262

21 開戦外交(日活戦争その二)−開戦決定。陸奥は英、米、露の干渉をみごとに排除する
 『けんけん録』の合意 267
 朝鮮出兵の決断と行動の速さ 270
 戦争決意の有無が全局を左右 272
 混成施団七千名の派兵 276
 被動者から主導者へ 279
 「朕の戦争に非ず」 283
 帝国主義外交の芸術 286
 岡本柳之助の大院君かつぎ出し 290
 外国の干渉に対する正確な判断 293
 ロシアの干渉を排除 295
 即断即決の冴えと度胸 298
 英国の干渉もしのぐ 301
 米国の真意を正確に理解 305

22 日清戦争の政戦略(日清戦争その三)−日本の戦術だおれ、中国の戦略だおれ
 李鴻章の親露政策の謎 308
 清国宮廷の複雑な事情 313
 日清戦争を決した日本の海軍力の増強 315
 日清戦争における日本人の愛国心 319
 時間と競争の戦争 323
 "突貫戦法"対"声と形"の戦争 327
 日清戦訓の過信 331
 予想外の旅順口早期陥落 334
 戦争の終局 338
 戦場となった朝鮮の悲劇 341
 対朝鮮政策の失敗 345

23 三国干渉(日清戦争その四)−武力干渉の危機を乗り切った陸奥の真骨頂
 鉄血宰相ビスマルクの外交 350
 英国はドン・キホーテに非ず 354
 米国へ寄せる陸奥の信頼 358
 講和の瀬ぶみ 362
 とにかく片方に決める 365
 勝ちすぎてはいけないというバランス感覚 368
 「老獪かえって愛すべし」 371

24 陸奥の死−その後−明治30年、陸奥死去。大日本帝国の悲劇が始まる
 西園寺の度量 393
 陸奥外交最後のしあげ 396
 文筆に想いを託す 398
 壮絶な人生、その幕を閉ず 403
 陸奥の創めた時代 409
 政党政治の機は熟しっつあるとの確信 413
 陸奥の遺志を継ぐ人々 417
 岡崎邦輔のダンディズム 420
 責任内閣制の実現 423
 政党政治の没落−敗戦へ 426
エビローグ−春の雪幻想 430

4. エピローグ−春の雪幻想
 それに続く時代は、われわれ、現在生きている日本人の五十歳代半ば以上の方々の、個人的記憶につながっている。
 二・二六事件は、私の幼時の最も鮮明な記憶の一つである。
 二・二六事件の日は、朝から大雪が降り続いた。私の家は都心から離れた大森にあったが、門の外には、剣つき鉄砲を持った政府軍の兵士が警護に来てくれている、と家の者が話していた。
 大雪のために遊びに出られなかった私は、子供部屋で、はさみを使って、魚の形を切り抜いていた。そのうちに水族館を作ることを考え出して、二〜三枚の紙を重ねて、一度に何匹もの魚を切り出した。
「まあ、なんて、もったいないことをするの ! 」、母は、これを見て私を叱った。「これから、どういう世の中になるのか、いつまでも、こういう暮らしをしていける世の中なのかもわからないのに!」。
 時代の大きな変化は、誰にも感じられていたのであろう。
 この母の言葉は、その後、何度も想い出した。その翌年には蘆溝橋事件となり、やがて太平洋戦争の敗戦、占領となって、屈辱的な窮乏を味わった日々には、この言葉は、繰り返し、思い出された。

 この私の記憶は、幕末の紀州城下における岡崎邦輔の記憶と重なりあう。
 邦輔は、六歳で父、学弥を失う。その法事の夜に、親類筆頭で学弥の実父にあたる宮地久右衛門がなかなか来ない。そのうちに、使いの者が来て、「江戸表から、火急のお飛脚が参ったので、お上の仕事が忙しいが、下城がけには寄る」と、口上を述べた。
 夜が更けてから来た宮地老人は、江戸では三月三日の大雪の日に、井伊大老が桜田門外で暗殺されたことを告げた上で、重々しく言った。
「天下の大老でさえ、こんな凶変に遭われるご時世だ。そう思えば、当家の主人などは畳の上で安々と往生を遂げたのは、ありがたいことでござる」
 今生きている人々は、畳の上で死ねるかどうかわからない−こんな時代の大きな変化を告げる、この宮地老人の言葉は、深く、邦輔の記憶に残った由である。

 三島由紀夫ではないが、いずれも、春の雪から始まる。
 二・二六事件も、桜田門外の変も、春の大雪の日である。そして、そこから、日本の政治の舞台は、ぐるぐる回りだして、激動期に入る。
 大きな歴史的な変動には、ほぼ十年は要るものなのであろう。二・二六事件から敗戦までは九年余り、桜田門外の変から八年で維新となる。そして、邦輔も、私も、満十五歳の年に、鳥羽・伏見の戦いと太平洋戦争の惨憺たる敗戦をまのあたりにする。そして、それに続く短い期間の間に、それまで自分たちの生まれ育ってきた政治体制と社会環境が、地響きをたてて足もとから崩れ去っていくのを体験するわけである。

 再び、いつの日か、われわれの孫か曾孫の世代の、幼時の記憶が春の大雪であり、時の首相の命にかかわる政変であり、そして、その後十年の激動期を経て、日本の既存社会全体が崩れ去るのを目撃するのだろうか、という幻想も、ふと湧く。

 しかし、私たちの世代はすでに、一身にして、戦前と戦後の二世を見ている。父祖の記憶をたどれば、伊達自得翁がわが世の春を謳った文化、文政のころまで遡る。
 いくら私のようなおっちょこちょいでも、一身で四世を見たいとは思わない。
 社会の変革は、歴史の流れとして避け難いときもある。特に、既存の体制の惰性やタブーが牡蠣殻(かきがら)のように厚くなって、それを壊さなければ変動する内外情勢に対応できなくなったときは、ほかにどうしようもない。幕末の鎖国と封建制度がそうであったし、戦前の体制が軍国主義となるまで硬直化したときはそうであった。
 しかし、社会の大きな変革は、必ず、日本全国数百万の、それなりに安定した生活を楽しんでいる家庭の基盤を脅かし、無数の個人的、家庭的悲劇を生む。われわれは、敗戦でもそれを目撃し、維新でも見てきた。
 今の日本は、何のかの言っても、国民の大多数が、それぞれに、平和で幸せな家庭を営んでいる社会である。
 今の状態を守ってくれている外部の環境が何とか続くように、まして、日本自身の手でそれを壊すことのないように、そして、日本の政治、社会が絶えず惰性やタブーを克服して、改良、進歩するヴァイタリティーを維持して、将来起こり得る内外の変動に対して柔軟に対処していけることを望むばかりである。

目次に戻る

「近現代史2」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

[Last Updated 8/31/2001]