本の紹介  近現代史をどう見るか
   −司馬史観を問う



中村 政則
岩波ブックレット No.427

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目 次

1. 内容一覧
2. なぜ、司馬史観を問うのか

3. 著者紹介

1. 内容一覧
 
なぜ、司馬史観を問うのか
 明治維新の世界史的位置
 日清・日露戦争をどう見るか
 大正デモクラシーの歴史的意義
 大東亜戦争とアジア太平洋戦争
 司馬遼太郎の明治憲法・天皇観

2.なぜ、司馬史観を問うのか
●はじめに - 本書の狙い  司馬遼太郎は国民作家であり、日本人の歴史意識の形成に彼ほど大きな影響をあたえた作家はいない。最近、歴史教育の援業改革を提唱している藤岡信勝氏(以下、敬称略)も司馬史観から大きな影響を受けた一人である。というよりも、彼は司馬の作品に接して、それまで自分が抱いていた歴史観を一変させてしまうほどの衝撃を受けたという。
 「日本断罪史観は、長い間、私にとって空気のように当たり前のことであった。その歴史観の部分的なほころびはあちこちで感じていたが、自分自身の歴史観を根本的に組み替える必要に迫られる体験をしないできた。その認識の枠組みを変える最初の、しかもおそらく最大の要因が、司馬遼太郎の作品との出合いであったと今にして思えてくるのである。もし、その出合いがなかったら、私が戦後歴史教育の呪縛から抜け出すことは困難だったと思われる」(『汚辱の近現代史』52頁)。あるいは「歴史教育の立て直しのために、司馬史観がどんなに大きな意味をもっているか、計りしれない」(同書、258〜259頁)。
 藤岡がこれほど大きな影響を受けた司馬史観とは何なのか。藤岡は「司馬史観」の発想の特徴として、次の四つをあげている。一、健康なナショナリズム、二、リアリズム、三、イデオロギーからの自由、四、官僚主義への批判。そしてこの四つを取り込むことによって、自らの史観を立て直し、これを「自由主義史観」と名づけるのであった。ある意味で、この要約は当たっているかもしれないし、いい面だけを取り出した「信奉史観」にすぎないかもしれない。
 そこで私は「自由主義史観」の根っこにある司馬史観を検討することによって、その本質を明らかにするのが最適の道であると判断した。エピゴーネンは「師」の良い所を鵜呑みにし、悪い所を歪曲・拡大するのが常であるから、まず司馬遼太郎の作品を自分の目で確かめ、それから藤岡信勝の文章を検討する必要がある。といっても、ここでは紙幅の関係で司馬の形大な作品をすべて検討の対象とするわけにはいかない。彼の代表作『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『燃えよ剣』などの歴史小説と『歴史の中の日本』『歴史と視点』『ロシアについて』『「明治」という国家』『この国のかたち』などの歴史評論集を取り上げるにとどめた。それ以外の作品については、別の機会に検討することにした。あらかじめ読者のご了解を得ておきたい。

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●司馬史観とは何か 司馬遼太郎を批判する人はほとんどいない。誰もが司馬を「神様」のように扱い美辞麗句を連ねるだけである。その傾向は最近、いっそう顕著になったように思う。しかし、司馬史観には何も問題はないのか。そうではないと思う。最大の問題は「明るい明治」と「暗い昭和」という単純な二項対立史観にある。そこで以下ではこの間題を手がかりに、司馬史観についてやや辛口の批評を試みることにしたい。
 最近、私は「司馬遼太郎における明治史と昭和史の柏剋」というテーマで、司馬史観の特徴について書いたが(『現代史を学ぶ-戦後改革と現代日本』)、ここでもそのあらましを簡単に述べておく必要がある。よく言われるように、司馬の明治時代に対する評価はすこぶる高く、昭和時代についてはすこぶる低い。この近代史認識の根底には、彼の戦争体験と敗戦体験があった。福田定一(司馬の本名)が敗戦を迎えたのは22歳のときである。このとき彼には「日本人はいつからこんなに馬鹿になったのだろう」という思いがあった。「いったい誰が国家をめちゃくちゃにし、こんなにつまらない民族にしてしまったのか。ここから私の小説は始まった」と司馬は述べている。こうして彼は35、6歳の頃から文献・資料を読み始め、日本人とは何かを終生のテーマとするようになった。「昭和はダメでも、明治は違ったろう」。こうして司馬は明治をつくった群像へと向かう。
 司馬は『竜馬がゆく』『坂の上の雲』を書き終えたあと、こう語っている。「坂本龍馬を生みださなかったら、日本の歴史はもっと違ったものになったろう。超大国ロシアに日本はなぜ勝つことができたのか。明治の合理主義、リアリズム。明治の国家はよかった。そこまではよかった」。だが、日露戦争に勝ったあとがいけなかった。「日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、巨視的にいえは日露戦争の勝利の勘定書というべきものがやってきた」(『世界の中の日本』)。
 『この国のかたち』一では、日比谷焼き打ち事件のあった1905年から敗戦までの40年間は「異胎」であり、参謀本部は「鬼胎」であるとも述べている。要するに、日露戦争の勝利をさかいに日本近代史は正規のコースからはずれ、非連続の時代に入ったというのである。また参謀本部は「鬼胎」であるという意味は、「日本国の胎内にべつの国家−統帥権日本−ができた」という意味である。統帥権とは全軍の最高指揮権のことであるが、「日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識からみても妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博文が健在だったということと無縁ではない」。だが、1930年のロンドン海軍軍縮条約締結をめぐる統帥権干犯問題、そして1935年の美濃部達吉の「天皇機関説事件」あたりをさかいに日本は統帥権国家になったという。「以後、昭和は滅亡にむかってころがってゆく」(『この国のかたち』四)。
 司馬は「昭和という時代は精神衛生に悪い時代。発狂状態になってしまう。内臓がズタズタになって死んでしまう」とも述べている。それ故に、司馬は「昭和」という時代をついに小説の題材に取り上げることはなかった。彼は一六、七年間にわたってノモンハン事件の取材を重ねながらついにノモンハンを書こうとはしなかった。いな、書くことはできなかったのである。周知のように、1939年のノモンハン事件で、関東軍はその総力をあげてロシア軍と戦ったが、ジューコフ将軍の率いる機械化部隊に圧倒されて、出動兵力58,925人、その損耗は16,343人で27.7%であったが、八月末からの最終戦闘では出動兵力(第二三師団)の15,140人のうち死傷者10,297人(68.0%)、つまり十人に約七人という、戦史上類のない大敗北を喫したのであった。このころ東京や新京(現在の長春)の参謀たちは「ロスケの鈍重は日露戦争以来わかりきっている。突撃すれば逃げるのだ」と公然と語っていたという(『坂の上の雲』)。科学を忘れ、精神主義で塗り固められた非合理陸軍の典型を司馬はここに見たのである。

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●「明るい明治」と「暗い昭和」という把握の問題性 司馬の、この明治の讃歌と昭和への糾弾は正鵠を射ているし、わかりやすい。しかし、このような「明るい明治」、「暗い昭和」という対比的なとらえ方では、日本近代史の全体構造を的確につかむことはできないのである。なぜなら、大正・昭和は明治を母胎として形づくられたものであって、明治と昭和の問にそれほど大きな非連続や断絶を置くことはあまりに単純であるし、この間における国際関係の重大な変化を見落とす危険さえある。あるいは、次のように言いかえてもよい。歴史とは連立方程式ないし三次方程式になっているのであって、それぞれの時代には明るい側面もあれは暗い側面もあるし、明治の明るさが昭和の暗さに転じることもあれば、その逆のケースもありうる。たんに「明るい明治」、「暗い昭和」といった文学的かつ二項対立的な把握でとらえられるほど日本の近現代史は単純ではないのである。
 一例をあげれば、司馬は昭和に入って統帥部が肥大化し、日本の国家は変質した、別の国家になってしまったと言うが、実は統帥権をささえるイデオロギーと制度は、明治期にできていたのである(1878年の参謀本部の独立、−1882年の軍人勅諭、1893年の軍令部の独立、1900年の軍部大臣現役武官制の成立など)。このことを見ない司馬史観は、昭和になって突如暗転が起こったように読めるが、「明るい明治」の時代に、実は昭和の破綻の芽は準備されていた。また逆に、司馬は1905年9月5日に日比谷公園で開かれたポーツマス講和条約反対国民大会あたりから、日本人の「調子狂い」が始まり、以後、日本は坂を転げ落ちるように転落に向かったと言うが、大正デモクラシーの理論的指導者・吉野作造は、これとはまったく違って、むしろ民衆が政治の舞台に劇的な形で登場する画期を、この国民大会に見た(「民衆的示威運動を論ず」『中央公論』1914年)。
 大正デモクラシーの出発点をいつと見るかは、歴史学界でも議論のあるところだが、一九〇五年から政党政治の崩壊する1932年(五・一五事件で、犬養毅首相暗殺、政友会内閣の崩壊)までを「大正デモクラシー期」とするのが、多数説であり、私もこの立場にたっている。経済的にみても、日露戦争後の不況にあえいでいた日本経済は、第一次世界大戦勃発を契機に「転落」というより、急上昇をとげたのである(第四章参照)。
 以上のように、ちょっと検討しただけでも、司馬の日本近現代史理解にはさまざまな弱点・欠陥のあることが見えてくる。彼の『燃えよ剣』における土方歳三の描き方、『竜馬がゆく』の坂本龍馬像、『坂の上の雲』における「旅順虐殺事件」(日清戦争時)の無視やが乃木希典と東郷平八郎に対する愚将扱いと英雄視などについては、すでにいくつかの批判や研究が出されている(松浦玲、井上晴樹、鈴木良、桑原嶽、半藤一利、古川薫など)。紙幅に余裕があれば、ぜひ紹介したいところなのだが、今回は省略せざるをえない。むしろ、このブックレットでは、日本近現代史をとらえる際に、欠くことのできないテーマをいくつか取り上げ、その中で司馬史観の問題点を指摘するという叙述方法をとることにしたい。
一で「明治維新の世界史的位置」、二で「日活・日露戦争をどう見るか」、三で「大正デモクラシーの歴史的意義」、四で「大東亜戦争とアジア太平洋戦争」、五で「司馬遼太郎の明治憲法・天皇観」、およそこの順序で、私なりの考え方を提出していくことにしたい(司馬遼太郎は、一九七一年から文明論的エッセーともいうべき『街道をゆく』(『週刊朝日』連載)を書き始めた。この仕事は、1996年の『濃尾参州記』まで、25年間、全43巻におよんだ。この『街道をゆく』シリーズをちょっと読んだだけでも、「司馬史観」が「司馬文明論」と分かちがたく結びついていることに気づくのだが、このブックレットではそこまで扱うことはできない)。

3. 著者紹介
 中村 政則(なかむら・まさのり)
 一九三五年東京に生まれる。一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了。七七年一橋大学経済学部教授、現在に至る。七九〜八○年、米国ハーバード大学客員研究員。
 専攻=日本近現代史。主著には、『経済発展と民主主義』(岩波書店)『現代史を学ぶ』(吉川弘文館)『歴史のこわさと面白さ』(筑摩書房)『象徴天皇制への道』(岩波新書)『近代日本地主制史研究』(東大出版会)『労働者と農民』 『昭和の恐慌』(小学館)『近代日本と民衆』(校倉書房)。

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[Last updated 5/31/2001]