本の紹介 父庸蔵の語り草



雨宮広和編 著


自費出版

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  目 次

1. 雨宮庸蔵氏紹介
2. 雨宮庸蔵遺稿日誌『語り草』発刊に際して
3. 本の目次
4. 日記(抜粋)
5. 雨宮庸蔵氏略歴

1. 雨宮庸蔵氏紹介
 雨宮庸蔵(ようぞう)さん(1999.12.2日死去、96歳 元中央公論編集長 発禁処分を受げ退社)
 
 雨宮庸蔵さんは、早稲田大学の社会哲学科出身である。同じ出身の中央公論社嶋中雄作社長のもとに、しかも嶋中社長の社長就任後最初に採用されたので、「僕は鴫中社長の第一号社員だったんだ」と誇らしげに言わたことがある。
 それは昭和3年であった。そのころの中央公論社は、若い社員が続々と入って来て、ことに、雑誌のほかにはじめて出版部を設けての処女出版「西部戦線異状なし」が大ヒットした上に、ベストセラーの連発で、社内は活気に満ちていた。徹夜などは当たり前で、当時の丸ビル五階にあった中央公論社には夜遅くまで電灯がついていた。これを東京駅の方から見て「夜の急行列車だ」と言われたのは、谷譲次(牧逸馬・林不忘)であった。
 雨宮さんが「中央公論」の編集長になられたのは昭和4年であった。仕事には非常に熱心で、また部下思いの念が篤く、部下を立て、自らはなるべく表面に出ないで済むように配慮するなど、奥ゆかしいところがあった。部下には佐藤観次郎とか松本篤造とか若手の猛者がいて、雨宮さんの指揮で大活躍した。そのころは検閲制度があり、これがなかなか厳しくて、発売禁止になることがしょっちゅうあった。雑誌が発売されてから二、三日は戦々恐々としていたものである。昭和13年に石川達三作「生きてゐる兵隊」を載せた「中央公論」が発売中止となり、雨宮さんは編集長としての責任を負って退社されたのであった。
 この事件で起訴されたが、判決は軽く済み、嶋中社長が民間アカデミーを目指して設立することになった国民学術協会の主事として迎えられた。この協会の設立、組織、企画、財団法人化等の全般にわたり、雨宮さんが渾身の努力を注いで立派な基礎を築かれたのは、「中央公論」の編集長時代に培って来られた当代超一流の学者、評論家、文芸家を網羅した先生方の信頼があったればこそと思われる。
 この協会は、不幸にして昭和19年に軍部の弾圧による中央公論社の解散に伴ってその活動を一時中断せざるを得ぬことになり、戦後事業を再開したけれども、雨宮さんは既に読売新聞社に入社され、科学部長、論説委員等の要職に就かれていたために協会へ復帰されることはなかった。
 晩年も身体健全、頭脳明晰で、昔のことを尋ねてもはっきりしと答えられたが、目がご不自由になられたことが何よりも惜しまれてならなかった。
(元中央公論社常務・宮本 信太郎氏 [読売新聞 1999.12.26掲載])

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2.雨宮庸蔵遺稿日誌『語り草』発刊に際して《父庸蔵へ 父さん お袋と仲良く会えたネ》 雨宮 広和
 平成11年12月2日、午前9時58分、二十一世紀を目前にして、父庸蔵は96歳の生涯に別れを告げ、13年前に此の世を旅立った母禾代子と再び一緒になりました。安らかにスウッと、ひと息、ふた息と深呼吸をするようにして・・。つい一秒前まで規則正しく波を打っていたオシログラフが穏やかな地平線のように海の彼方に去っていくかのように静かに静かにとサヨナラを告げたのでした。肺炎に勝ちきれませんでした。
 父と過ごした人生六十余年、あまり丈夫とは言えなかった父が、この歳迄人生を過ごせたのも、多くの皆様の温かいご厚誼のおかげと心から感謝しています。ジャーナリスト六十年と副題をつけて著した『偲ぶ草』の改訂版を何としても再度出版したいと、二週間前までテープ等に、その思いを録音していた事が一番思い残した事ではないかと思っています。
 晩年約十年は、生き甲斐であった読み書きを白内障と緑内障に奪われ、色々な方々に口述してテープに取って戴いたり、『源氏物語』や『寝園』や『安城家の兄弟』などを読んでいただいたりしましたが、隔靴掻痒の感があったと思うのです。
 その父の、大半の原稿は戦災で焼失したり紛失したりしてしまったのですが、極く一部残っている日記が見つかっています。明治に生まれ、大正に学び、激動の昭和と、太平の平成に生きた記録を少しでも知って頂きたくジャーナリストであった父の多岐に亙る思い、人との出会い、ノンフィクション的裏話など、登場なさる方々には失礼になる点もあるかと存じますが、遺稿を小冊にまとめさせていただきました。父の昔日を偲ぶよすが、『語り草』としてお納めいただければ幸甚に存じます。
 あの世で父も目に止め、こんな事を記していたのかと苦笑苦渋するかも知れません。日記ですので公表をはばかる点もあり、旧漢字、旧仮名遣いのため、読みにくい多々あるかと存じますが、故人の意思を大切に致したくできるかぎり、原文のママでご紹介させていただきます。
 父を思いうかべながら、なにとぞゆっくりお読み賜らんことを心からお願い申し上げます。
 では父の『語り草』どうぞご一読願います。

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3 本の目次

雨宮庸蔵遺稿日誌『語り草』発刊に際して
  父庸蔵へ 父さん お袋と仲良く会えたネ    雨宮 広和………………9
  父の晩年の十年を振り返って           雨宮 広和…………… 10
  父庸蔵について                   雨宮 信子…………… 15
  亡き父を偲んでいただいたお便り………………………………………… 16

遺       稿
[父の日記『中央公論』のころ]
昭和11年2月25日 二・二六事件前夜…………………………………………………21
昭和11年2月26日 二・二六事件勃発…………………………………………………22
昭和11年2月27日 二・二六事件翌日の世相…………………………………………23
昭和11年2月28日 その後の政情、母の妊娠…………………………………………26
昭和11年2月29日 ラヂオ、隣人との対話…………………………………………… 27
昭和11年3月 2日 文士連との話、母の料理、二・二六事件背景…………………27
昭和11年3月 4日 内閣と軍部、近衛文麻呂…………………………………………29
昭和11年3月 8日 母の料理と酒………………………………………………………32
昭和11年3月 9日 二・二六事件分析…………………………………………………33
昭和11年3月13日 志賀直哉、陸軍の動静……………………………………………36
昭和11年3月14日 内田百聞……………………………………………………………37
昭和11年3月15日 妊娠中の母の生活…………………………………………………38
昭和11年3月17日 佐伯栄養学校長との閑談…………………………………………40
昭和11年3月21日 佐々木信綱、長谷川如是閑、大内兵衛、桑木厳翼…………… 41
昭和11年4月 3日 トルストイ、里見専……………………………………………… 44
昭和11年4月10日 中央公論の改革、時代は変る…………………………………… 46
昭和11年4月12日 ある日の生活、野球と音楽……………………………………… 48
昭和11年4月15日 野上豊一郎と謡幽…………………………………………………49
昭和11年4月16日 谷崎潤一郎…………………………………………………………50
昭和11年5月19日 坊や誕生、万感の思い…………………………………………… 55
昭和11年5月22日 坊やその後の経過…………………………………………………56
昭和11年5月25日 坊やへの為め書き、谷崎他……………………………………… 58
昭和11年5月20日 久かたぶりの将棋…………………………………………………59
昭和11年6月 2日 チポーの音楽会……………………………………………………60

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昭和11年6月 7日 坊や退院=………………………………………………………… 61
昭和11年6月14日 坊やのその後………………………………………………………62
昭和11年6月20日 お宮参り……………………………………………………………62
昭和11年6月21日 親戚からの祝福……………………………………………………63
昭和11年6月29日 坊や幼児脚気………………………………………………………63
昭和11年7月20日 大森市野倉の暮らし、坊や経過………………………………… 64
昭和11年7月22日 坊やの成長、義務教育…………………………………………… 64
昭和11年7月25日 ジャーナリズムの世界…………………………………………… 65
昭和11年7月26日 喜劇映画……………………………………………………………66
昭和11年8月 1日 坊や七十五日………………………………………………………67
昭和11年8月 6日 坊や生後八十日……………………………………………………67
昭和11年8月10日 坊やとレコード……………………………………………………67
昭和11年8月18日 坊や咳をする……………………………………………………… 67
昭和11年8月21日 谷崎潤一郎…………………………………………………………67
昭和11年8月24日 電力民営化、記事の出所………………………………………… 68
昭和11年8月26日 坊や百日……………………………………………………………70
昭和13年1月 1日 坊や三才……………………………………………………………71
昭和13年1月10日 宴会続き……………………………………………………………72

  [父の日記『読売新開』 のころ]
昭和26年1月14日 仁科博士告別式……………………………………………………73
昭和26年1月18日 グレス、湯川秀樹………………………………………………… 73
昭和26年1月22日 三木武夫……………………………………………………………74
昭和26年1月23日 ダレス………………………………………………………………74
昭和26年1月26日 宮城音弥、朝永振一郎…………………………………………… 75
昭和26年1月20日 再軍備座談会………………………………………………………75
昭和26年3月 3日 辻政信………………………………………………………………75
昭和26年3月 6日 小泉信三……………………………………………………………75
昭和26年9月19日 歌舞伎調しるこや………………………………………………… 76
昭和26年4月12日 鈴木文史朗追悼会…………………………………………………76

  [父の日記『科学技術情報センター』のころ]
昭和26年1月 1日 或る年の新年……………………………………………………… 77
昭和26年1月 9日 大宅壮一、石川達三……………………………………………… 77
昭和26年1月13日 三木武夫…………………………………………………………… 78
昭和26年8月10日 雑感、人生を振り返る…………………………………………… 78

付       表

人 名 一 覧 表…………………………………………………………………… 82

あ  と  が  き…………………………………………………………………104

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4. 日記(抜粋)(一部にフォントが無く当て字であることをお断りします)
昭和11年2月26日
 今日は日本歴史に汚辱な深い点を刻し、国威を海外に失墜した日である。明治天皇の杷憂が実現して皇軍の一部が私兵と化し兇徒と化した日であるからである。出社すると渡邊教育総監がやられたとの号外に接し、ははあ、機関説もあらうが、真崎派掃蕩の張本人たるの故を以てだなと、不愉快極まりなかったが、間もなく斎藤内府、岡田首相、松尾博蔵、高橋蔵相、鈴木侍従長が、野中四郎大尉の指揮する第一師団管下の第一第三聯隊中の単純な不穏分子によって、午前五時から一時間の間に機関銃で打たれ、牧野伸顕伯は湯ケ原伊東屋旅館に於て焼打を食らひ行衛不明、護衛の憲兵及旅館主人焼死、西園寺公は豊橋聯隊のものに襲はれたが静岡市知事官舎に避難、警視廰、内務省、首相官邸、などは暴徒に占拠され、警視廰は錦町署に避難事務、小栗総監、白根書記官長監禁、暴徒の宣言書掲載に應ぜざるの故を以て朝日新聞社(緒方氏應接)の活字ケース転覆(てんぶく)を企てて一時発行不能ならしめたこと、東日※1に於ては岡實、報知に於ては広田四郎が玄関先に呼び出され同様の要求で恐迫され狼狽承諾したこと、などのニュースを受取った。詳細な点までは分からないが兎に角以上のニュースは、真相乃至それに近いものと思った。相当重大な事件であり、一般へのショックも大きいものであったに係はらず、またそれだからこそ記事差止めにもなったのであるが、それがために、却って色々なデマが飛んだ。若槻、池田成彬(しげあき)、大倉喜七郎、川島陸相がやられ、軍政府が樹立されて字垣系と見倣された国民新聞が機関紙となったとか、閑院宮が首相の印授を帯びるに至ったとか、いふやうな事柄である。此の真相虚相乱れとぶ動揺の間に僕が中心の形に於て『大トルストイ全集』宣傳についての大綱決定及び之の基礎案攻究の合議を続行した。合議は終日に亙(わた)ったが、正午の休憩を利用し、雪の霏々(ひひ)として降りしきる中を自動車に塔じ、宮城の周囲にはられた鉄條網とその警備の様子、三宅坂一帯に於ける交通遮断の接配、東京朝日新聞の動静などを見て廻った。雪を踏み雪に吹かれ雪中に点在せる付け剣の兵士の有様は陸戦隊も加はって物々しい。麻布第三聯隊長の慰撫が全然問題にされず却って叱りとばされたとか、真崎大将が慰撫に向はうとしてをるとか、内田鉄相が逃げ廻ってをるとか、甲府と佐倉の聯隊が警備に出動したとか、興奮と不安と興味との裡に日は暮れてゆく。此の間にあって岡田首相の屍体はハンカチーフ一枚顔にかけられたまま官邸の庭に遺棄されてをるとのニュースが一入哀愁をそそる。晩のラヂオでは高橋蔵相負傷と放送したが、是は財界への波紋を慮(おもんばか)っての虚報であろう。昼には妊娠中のフラウ※2から様子問合せの電話あり、午後五時には義弟豊が修学旅行の途次立ち寄つた。

※1東日=東京日々新開
※2フラウ=ドイツ語で妻の意 庸蔵妻禾代子(かよこ)

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昭和11年2月27日
 戒厳令下の警戒の状態は如何かと雪を踏んでお掘の附近に出る。お掘のさざ波は春風を含み松は銀白と緑とに映え、石垣は雪に刷かれ、宮城付近の景色、またなく美はしい。同行者は小暮、石井、佐々木の三君。今日は交通遮断の所()もないくらゐだから誠に呆気ないほどである。
 午後五時半支那料亭偕楽園に於ける廿七日会に出席。忙がしくもありさしたる中心問題もなかったので暫らく遠ざかってゐたが、今晩欠席する手はない。今夕の出席者は、水野廣徳(ひろのり)、近松秋江、徳田秋声、馬場恒吾、伊藤正徳、細田民樹、正宗白鳥、柳澤健、清澤洌、上司(かみつかさ)小剣、小汀利得(おばまりとく)の諸氏。実状を知りたいのが目的であるから、馬場、柳澤、清澤、小汀氏などを中心に話題が展開する。会員の鈴木文史朗氏はすでに名古屋に行かれてをるので己むを得ないにしても稲原勝治氏や佐々弘雄氏や阿部真之助氏の不参が些か物足りない。
 今晩の話し合ひで事件の貌(かたち)が更にはっきりしてきた。是までの自分の情報とを考量綜合して書きとめる。
一、岡田首相官邸に於ては、警備の巡査五、六人がやられ、首相は一應逃げたが、庭に於て什(たふ)れ、反軍にも数人の犠牲者があったといふ。帷幄上奏※1(いあくじょうそう)関係で恨みをもたれた鈴木侍従長は重傷、渡邊教育総監は軽機関銃数十発を浴びた上に更に屍体は剣で切られ、斎藤内府は外が余り騒がしいので窓をあけて首を出した途端に先ずピストルで額を打たれて什れ、踏み込んだ一隊は軽機関銃を以てその重傷体に数発を見舞ひ、驚いて遮らんとした夫人は左腕及腰部を切らる。高橋蔵相は寝室に乱入され床の上に上半身を起こしたところを背後より剣で貫かれ仰むけに瀕死となれる老体の腹部は更に数発のピストルを以て見舞はる。然し午前十一時頃まではまだピクピクと呼吸のありし由。是らの惨殺方法などは早く正確に発表した方が、国民の反軍を憎む情も強まり随って事件をも更に早く解決に導きはしないかと僕は思ふ。
一、第三聯隊長はやられたとも云ふし自ら責任を感じて自殺したともいふが、果して本人であるか、また他の佐官であるか分明しない。参謀川島少佐が村中に切られたり、南大将の女婿が切られたりした私怨関係も相当ある見込。
一、軍事参議官は、枢密顧問官や閣僚と宮中に於て善後策を講じつつあるも、兎に角後継内閣組閣などに先だち一日も早く反軍の始末をつけるべしと詰め寄られ、参議宮の中にも強硬に弾圧を主張する者もあるが、何しろ岡山姫路高崎宇都宮などから四十名五十名と同類将校の東上や、警備の甲府乃至佐倉聯隊中に反軍投化の傾向が伝へられる有様にて、此の種のシムパ関係の範囲が考慮されるし、(海軍にはシムパなき由)何も知らないで此の騒ぎに加はれる兵卒の生命を奪ふにも忍びず、陸軍同志相食むの醜状を天下に曝したくもなからうし、是らの関係ありて、政府軍も軽々に手を下し得ないと聞く。然し天皇陛下のご機嫌すぐれず、無能なる川島陸相(陸相は戒厳令公布さへ肯じなかったが石原、古荘が頑張った由だ)の切腹、事件を茲まで進展させた真崎大将の切腹説さへ傳へられてをる。
一、青年将校の間には現在の天皇に不満を持ち、秩父宮擁立を企ててをるとさへ聞く。麻布三聯隊にをられたからといって、是は迷惑至極な話である。兎に角現在の陛下は平和を愛好され、海外漫遊中にも国會に出席された時など軍人の會ではないからよいと軍服着用をお側の者からすすめられても平服で出席されたといふエピソードも傳はってをる。カーキ色の軍服がお嫌ひの由なのである。昨年三月芳蘭亭で美濃部博士を主賓に廿七日會を催した時にこの話は出たのであるが、その節今上天皇が杉浦重剛の講義は眠くて面白くないねと言はれた事や、天皇が生物学の研究に熱中されるなど怪しからんと宮内省に抗議文が来るが然し天皇としては政務から解放されて與へられた二疋の此の時間を持ち得ることはどんなにお楽しみか分からないといふ由の話も出た。青年将校たちにとってはかかる点も気になるし此の陛下をめぐる重臣も気に喰はないのであらうが、廃立の動機は現在の天皇及び重臣のままでは自分たちの勝手な内閣がつくれない点に存する。今晩は東久邇宮殿下にも関説された。柳澤氏によれば、同殿下は全く白紙の如き頭脳を以て仏蘭西に行かれ、いきなりルッソーを始めそれ以上の急進思想書を繙(ひもと)いたがために深く赤化の状態にあり、当時の駐仏大使石井菊次郎氏から皇族らしく振舞はれたき希望あったのに対しても皇族とは何だと皇族たることに何等の矜持※2も持たれず、帰国されて名古屋第三師団長の頃でも土方の親分の如く胡座(あぐら)をかかれて地方の人々と放談の有様、上層部でも持て余してをる傾きがあると。一昨年暮、坪内逍遥先生を双柿舎にお訪ねした帰るさ、熱海の露木旅館に真山青果氏の病気を見舞ひ『西鶴全集』や『忠臣蔵』出版の件を相談した折、東久邇宮が海岸通り裏町を御散歩中街の女に捉えられて二階に引さ込まれ、それ以来街の女は夜十二時以前には客呼びまかりならぬとの御達しが出たといふ真山氏の話を偶々(たまたま)思ひ出した。

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一、此の反軍といふか皇道派※3といふか、此の一派の要求として傳へらるるところは、−元来テロリズムだけで事終ると見る傾向の持主なれば、別に要求がましい要求はないが、何を要求するかとの間に対して答へる所を記す。尤も此の中には北一輝や西田税など茲に記すも不愉快な連中が唱える所のものもあるかも知れない − 強力内閣待望、国体明徴、農村救済、字垣一成、小磯、建川、林銑十郎などの身柄引渡し要求などある由にて、財閥巨頭連は敢て傷つけず政治権力を握って丸どりする方針であり、その強力内閣と見るところのものは、柳川台湾軍司令官の首相、小畑陸軍大学校長の陸相を中心とするものなりと。彼らの希望に妥協した首相候補として河合操、山本英輔両大将、近衛文麿公など挙げられたとの事だが、河合は平凡、山本は風貌のせいもあらう鈍だと言はれ、近衛に至ってはロボットにすぎないと見られ、岡田、後藤の如きロボット無能者が当局者となれるために事件を益々拡大悪化した現状に鑑み、果断有識の士が望まれてをる。
一、外電は本事件の真相として、現内閣及び之を擁護する重臣が日蘇(にっそ)開戦を引きのばしておるから、早く戦争せよと、此の繊烈な要求が暴動とまでなったと報じてをるが、少しうがちすぎてをるし、またそんな皮相単純な事柄ではない。そこには深刻な軍人失業間遠があるし、大学組と非陸軍大学組との軋轢もあろうし、政党の横暴腐敗に対する痛憤もあろう(例へば、血を流して折角手に入れた満州などが思ふやうにならなくなるし、満州を対象にして肥えた満鉄が政友會あたりの党費のドル箱になるとしたら僕らも軍人とともに痛憤を感じるのだ。此の点満州事変に僕は同情する)そして直接触発されたのは真崎大将の勅許(ちょっきょ)問題であろう。
 岡田内閣及び重臣は事勿れ主義の立場から、若し勅許を得て真崎大将が証言せば事は小磯、建川、林、字垣その他に及んで面倒となる故勅許を得させないやうに企て、皇道派は勅許を得て何もかもぶちあけんと企てその對立は尖鋭化してゐた。弁護人鵜澤博士は勅許を得るよう努力しながらまんじりともせずその影響を憂へたそうだが、彼の相澤弁護にたった動機は臭くないだろうか。
一、『君側の奸を除いて』満州に出征せんことを平気で思ふてゐた皇道派のイデオロギーは、永田少将を刺殺してなほ台湾赴任を平気で考へていた相澤中佐の頭脳と同じで、此の思想系列には張作霖を爆死させて而も 罪にとはれず今満鐵理事といふ枢要の地位を占めてをる河本大佐の先例あり、殺す相手は異なるにしても、彼らの信念に忠ならば上長を殺めるも差し支えなしとする思想は、之を進展せしむれば、天皇斌逆(しぎゃく)をまで平気でするに至るであろう。軍紀の弛緩もさることながら、その頑迷な単純さ狂犬以下である。
一、レーニン革命の時は四百名の兵士で成就した筈だ。今度のは性質全く異なるが、千四百名をるといふ。是の背後に真に国民なり、労働者農民なりをるとしたならば事情は甚だ異なるものとなる。がかかる私闘では不愉快であるばかりだ。兎に角単なるテロリズムが革命にまで変質する可能性はある。
 話は中々蓋(つ)くべくもなかったが、朝日に於ける佐々氏から解散命令の下る気配あり、その瞬間から市街戦の展開が予想されるので(今夜おそくか翌朝)早くかへられたが宜しからんと注意あり、小汀氏を通じての真崎香椎両将軍参内といふ内報を最後に早めに引あぐ。馬場さん帰宅を急ぎ、伊藤さん強がらん方宜しからんと賛成し、誤解をおそれるとかで洋服さへ着てこない上司氏はルムペンの暴挙が恐ろしいといふてゐたが、何時の間にかゐなくなってゐた。神田の伊澤及深川の秋山さんに情勢を報じて注意を促して帰宅する。

※1帷握上奏=明治憲法下で参謀総長(陸、海)が閣議を経ず直接天皇に申し上げること
※2矜持=誇り
※3皇道派=昭和7年頃から荒木貞夫、真崎甚三郎両大将を擁し、青年将校を中心とした急進派。天皇を軸とする国体至上主義を信奉、直接行動による国家的改革をめざした

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昭和11年2月28日
 騒擾軍(そうじょうぐん)の幹部とか三十名ほどが昨夜幸楽で大盤振る舞ひをなし山王ホテルに止宿したさうだ。本当だとしたら随分と当局をなめた態度である。今日は警戒線が拡張され、丸ビル付近のバス市電の交通は休止され、人通りもまばらに街頭一帯は厳粛静寂である。社も臨時休業として女子供は午前十時までに帰宅させた。社員数氏と僕は午後二時頃まで在社したが三時頃ことによると市街戦が展開して銃砲が放たれるかも知れない、とすると省線は動かなくなるから帰られたが宜しいといふニュースがあったので、兎に角帰宅した。
 病院に行ってくるなどと言ふてゐたものの是といった変調もないのに此の日を選んでまさかと思ふてゐたが、フラウは麻布の伏島産婦人科病院に診察をうけに行った。近所の奥さん達から有閑でなくて勇敢だわとはしゃがれてゐた。院長が妊婦には驚くことが極めて悪いからと万一の場合の用意に鎮静剤の持参を勧められたさうだが、記事差止め中の事情をもよく承知してゐる此の事変に矢鱈と興奮するにも及ばないし、たとひ驚愕(きょうがく)興奮するやうな事態に面しても自分の出来た腹でなく薬剤によって鎮静されたとあっては腹の子に顔向けできんと思ふて、院長の好意は辞退して来たとのことだ。天晴れの心懸けである。此の気丈夫さを優美な精神で包み繊細な神経を通はせてをるので嬉しい。

昭和11年2月29日
 午前六時廿分からの戒厳司令部からのラヂオ放送で、今日は出社を見合はせた。こんな際ラヂオは便利である。四年ほど前買った四球五十五円のをば昨年石井秀平君に贈ったが、僕が供へ付けたままで中々調子がよいさうだ。彼も便利してゐるかと思ふと心地よい。今僕の持ってゐるのは、ナショナルのダイナミック五球百三十五円の品であるが、肉声のまま再生されるし、上海、シドニー、浦塩※1なども美しくはいるし、ラヂオ流行の初期に於ける如何なる高価のものよりも良質であるに相違ないと思ふてをる。金さへ出せば是より質のよいのは相当あるであらうが、現在では短波長のそれは別として、是で或程度まで満足してをる。
 お隣りの鈴木さんと足立さんが見え、午前十時頃から午後二時頃まで今度の事件について僕の話を聞かれていった。是を書いてをる六時近く臨時ニュースで岡田首相の生存、義弟松尾大佐の身代り遭難が報ぜられ、些か呆然とする。兎(と)まれ事変はさしたる流血の惨事なく戒厳令下の軍隊によって鎮圧収拾された模様である。深くその労力を多として深謝したい。然し陛下の勅令を以てせねば遂にかかる鎮圧を粛し得なかった事実は、軍紀の弛緩極点に達せるを証して剰(あま)りある。

※1浦塩=ウラジオストック

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昭和11年3月4日
 豫想に違はず近衛文麿公が内閣組織の大命を拝した。平沼麒一郎では右翼的、字垣一成大将では軍部内の刺激が深刻だし、そこで中庸公正と言へば聞こえはよいが、貴族中では有能の方だし単純ではあるが家柄がものをいったのだらう。人格者ではあるが別に取柄のない西義一大将が片や真崎片や林、南といふ間にあって教育総監になったのを同巧異曲のイデオロギーによる人事である。公がこれを拝受するとすれば、余程の大人物か、少し抜けているかであり、拝辞するとすれば普通の利口さを持った人間である。尤も是で公が受ければ、平沼などに廻るよりは余ほど明るいが、言論界には柳川中将が陸相となるか建川中将あたりがそこへ持ってこられるか、によつてその影響も大分に異なってこよう。前者なれば『中央公論』などに対する関係も好調を示し得ようが、後者なれば根本新聞班長の頃の暗さを現出するかも知れない。建川は軍政府樹立の如さを計画した前科があり、四年ほど前『中央公論』など社會に害悪を及ぼすからつぶして仕舞へと放言したほどであるから。
 ここで陸軍軍部の事に一寸触れておきたい。字垣陸相の頃の三月革命、南陸相時代満州事変直後の十月革命(錦旗革命)、共に未遂に終ったが、前者は3月18日を期し議會開會中をねらひ右翼團をして爆弾を投ぜしめ大臣議員諸共粉砕しその逃げるのをば外囲を戒厳せる軍隊によって鏖殺※1(おうさつ)するといふ計画で、辛くも三日前の15日之を知った真崎大将(当時第一師団長)によって慰撫されたといふ事件であり、後者は三月革命より更に下層にまで沈殿拡大せるそれで今度の事件と襲撃方法を同じうするが、関係者は今日の真崎系統と対立する立場にをるクーデター行使派で東久邇宮及当時第三聯隊にあった秩父宮を擁して軍政府の樹立をまで企図せるファッショ革命で、之は当時教育総監本部長(陸軍省の次官、参謀本部の次長と鼎立※2(ていりつ)する地位)であった荒木さんによって慰撫(いぶ)鎮圧されて事なきを得たと傳へらるる所のものだ。そして青年将校をしてかかる行動への気持ちにまでさせた責任者は、宇垣一成を担いで軍政府を目論みたこともある建川、小磯の連中であり、統制派と結託してをる将軍であるといふ。そしてその証拠は荒木が握ってをるといふのだ。乃ち真崎、荒木などが青年将校などから尊敬されてをる事実に機會を見出し真崎、荒木などが恰もファッショ革命の頭目であるかの如く世間から思はせてをるところにファッショ派や統制派の陰謀があると見るのである。昨年八月真崎が教育総監を林-永田によって軍統制の故を以て罷免された時、軍統制の責任は寧ろ所謂統制派にありと軍事参議官會議の席上、荒木が右の十月革命の証拠をつきつけて、大喧嘩をしたが、荒木陸相、真崎参謀次長当時の偏頗※3(へんぱ)な人事行政によって恨み骨髄に徹してをる連中が相当多いのであるから−是は東久邇宮が近衛公に直接話してゐる - 事面倒なのだといふ。斯くて事勿れ主義の重臣ブロック派の随って彼らの息のかかった内閣が支持する或は是と結ぶ統制派がファショ派と合流乃至そのロボットとなって真崎派と対立するところに禍根があると見るのである。特に斎藤実子の方針は、政党をば小党分立に置いて相関させ軍部には対立傾向を持続させてその間に斎藤内閣を安泰ならしめんとしてゐたやうであり、此の方針を岡田内閣が継承し斎藤子※4が内府として之を援護したところに反撃を買ふ点があったと見られる。牧野伸顕伯はコスイ所はあっても侫奸※5(ねいかん)では断じてなく政治的倭好さのあてはまるのは斎藤子であったといはれる。・・・中略・・・更に柳川将軍たちの満州を独立国として考へんとする態度と小磯将軍たちの之を朝鮮化せんとする態度とが、陸大出身者と然らざるものとの対立と共に軍部内に対立してゐるのをも見逃し得ない。

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 明治天皇が軍人は政治に関與すべからずと宣はれたに係はらず、その現役の軍人が政治に容喙※6(ようかい)して狂人に刃物を持たせたやうな暴れ方をまでもせずにはゐられなくなつた原因は何かといふに、一つは軍縮の風潮によって捲き起された軍人失業問題であり、他は是との相関感情に於て政党の私党化を憎む心の愛国的爆発であり、切迫せる事柄としては、軍部内の泥仕合である。軍人失業問題が根本問題で、満州事変も茲に出発し、陸大出身者と否との対立は茲に益々尖鋭化し、軍縮を主張する政党政治は憎しみても余りあるものとなり、而もその政党たるや軍人が生命を的に血河を流し屍山を築いて占取した満州の地を利用する満鐵に拠って、之を左右し以て選挙費用のドル箱たらしめて党界の拡張に資し、財閥と結んでは地方農村の疲弊など顧みない。政党の私党化す此の態度を見せつけられては、勇猛満州の広野に転戦してその聯隊旗とても棒と周囲の房だけしか残さなかった例へば麻布第三聯隊関係の人々如きにとっては心外でたまらなかったであらうし、僕とても軍人の此の気持ちに対しては満腔の共鳴を禁じ得ない。その限りに於ては、彼らによって起こされた満州事変をも非難したくない。然し問題は軍刀を握りながら政治を横議し政党の私党化に並行して皇軍が私兵化の途を辿りついには数派に分立して政党と同じ泥試合、而も凶器を持った泥試合を演ずるに至れる事実であり、また政党の私党化を防遏※7 (ぼうあつ)すべき政治能力乃至技術に於ける彼らの欠除である。例へば満鐵を政党から守らんがためには宮内省をして満鐵の株を多く占取せしむるが如き手段もあったであらう。勿論かかる事柄は左翼の財界論に一つの目標を與へるやうな事態を醸す場合もあらうが、それはまたその時だ。まこと、政治に嘴(くちばし)入れたかったら軍刀をすてて丸腰になり一議員となつて打って出れば問題はないのだ。彼らの態度が此の点甚だ無責任であり卑怯であり不遜極まるものであるのを遺憾とする。
 扨(さて)近衛文麿公の片影にも一寸関説して置きたい。四、五年前のことだ。弟の近衛秀麿氏が新響でバトンを振ってゐた頃、同氏夫人が麹町永田町の原田熊雄男の許に通ひ、西園寺公の一代記を筆録してゐたので中々珍しい文献にもならうと思ひ、どんな内容のものか秀麿氏を訪ねて尋ねたところ、例へば、『僕は女房の筆記を盗んで雑誌に売りとばさうなどとしたものだからすっかり信用をなくして仕舞って今その原稿には手がつけられないようになってるんです』とか、初対面の僕に『原田に合ったら僕とは小学校時代の友達だったとでも言ひ給へ』とか言はでもよいことをこちらで聞きもしないのにベラベラとしやべったり、香り高い香水を沁み込ませたモダンな洋服から散らしながら『おれの女房』といふやうな言葉をいかにもよい言葉ででもあるかの如く乱発したり、誠に単純な高級おっちょこちょいの性格をちらつかせてゐたが、兄の文麿公にも之と一脈相通ずるところが身受けられる。公はそれに以前に肋膜を煩らはれたこともあり、故斎藤内府から『どうも近衛さんはいつも顔色が勝れませんね』などとこの胸の病への見舞と好色に対するひやかしとの二重の意味を兼ねての言葉を屡々(しばしば)投げられてゐたことによっても明らかな如く、色好みは相当発展したらしく山浦貫一氏などの話だと以前は大分淫賣を買ったといふことだ。今では築地錦水の裏にある待合『くはな』に於てよく遊ぶといふ。花街あそびは最初小川平吉氏から手引きされたとのことだ。・・・・中略・・・・・・

※1鏖殺=みなごろし
※2鼎立=三つの勢力が互いに対立すること
※3偏頗=不公平な、かたよった
※4斉藤子=斉藤実子爵
※5侫奸=口先が巧みで心が正しからぬこと
※6容喙=くちばしを入れる
※7防遏=防止

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5. 雨宮庸蔵氏略歴(一部にフォントが無く当て字であることをお断りします)

 雨宮庸蔵氏は、明治36(1903)年、山梨県生まれ。早稲田大学社会哲学科卒。
 昭和3年9月、中央公論社に人社。昭和4年7月、雑誌「中央公論」の編集長に就任した事から、谷崎潤一郎との接触が始まり、『三人法師』『吉野葛』『盲目物語』『佐藤春夫に与へて過去半年を語る書』『私の見た大阪及び大阪人』の掲載に携わる。
 昭和7年8月からは、出版部長に転じ、『青春物語』『文章読本』『摂陽随筆』『武州公秘話』『潤一郎訳源氏物語』を担当。
 昭和12年一月から再び「中央公論」編集長に復帰。しかし、軍国主義の風潮の中、昭和13年、「中央公論」三月号が石川達三の『生きてゐる兵隊』のために発禁となった責付を取り、3月1日付けで編集長を辞任・休職。3月30日付けで退社。この時、当時の鴫中雄作社長は、全社員を一堂に集め、「泣いて馬植(しょく)を斬る」と言い、中央公論社の内外に対する責任を明らかにした。9月5日には、禁固四ケ月、執行猶予三年の判決を受けた。判決理由は、「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、略奪、軍紀弛緩の状況を記述した」事が「安寧秩序の紊乱」に当たるというものだった。この事件に際しては、谷崎潤一郎を始め、志賀直哉・内田百間(けん 日の代わりに月が正しい)・野上弥生子ら多数の作家・文化人から励ましの手紙が寄せられた。
 以後、雨宮氏は文学の世界からは遠ざかり、昭和14年5月8日、中央公論社社長・鴫中雄作が総額35万円(現在の貨幣価値に換算すると7億円ぐらい)を投じて設立した民間アカデミー国民学術協会の主事に就任。戦後は読売新聞社に入社、科学部長・論説委員を勤め、後、日本科学技術情報センターの主任情報員・業務部長となった。又、読売新聞社時代よりユネスコ活動に携わり、60歳台に、ヨーロッパ二回、ソ連二回、中国一回の取材旅行を行っている。
 こうした仕事を通じて培った数多くの文学者・学者との交遊は、回想録『偲ぶ草』にまとめられている。現在は仕事からは引退されたが、90歳を越えてなお御健在である。
 著書には他に、『社会変化論』(共訳)・『極東危機の性格』(訳編)・『教養原子力講座』(編者)などがある。

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[Last updated 4/30/2001]