慈と悲



 鷲田清一は、たまたま手にした「季刊アステイオン」の記事(宇野千代の人生相談)を読んではじめて知った。その後『「聴く」ことの力』として刊行されたが、文章は平易そうに見えるのに、内容がよく理解できなかった。

 インタビューや『死なないでいる理由』でだいぶほぐれてきたので、『「聴く」ことの力』をもう一度読んでみた。

 今度は「ため」とか「きめ」が何を意味しているかわかった。そして臨床哲学が「ケアする人のケアというスタンスで現場にかかわっていく」ことも。

 日本は互酬性の社会だと言われる。何か人から貰うと、「借りがある」という感情が残り、それをいつまでも抱えていたくないので、すぐにお返ししたくなる。これは計量的な思考でもある。そういうものに対する概念として、鷲田は「ホスピタリティ」を立てる。
ホスピタリティは負債の倫理ではない。ホスピタリティは無条件に供されるものとして、まさに「無償」のものだからである。あるいはもっと突っ込んで、「浪費」もしくは「蕩尽」だからである。(中略) 道にうずくまる人、通りかかる異人に、だれかれ関係なく、少し懐を割いて施し物をするという、おたがいさまの思想、かつて街の中にそういうホスピタリティがあった。じぶんもまたいつかどこかでだれかに世話になるかもしれないという思想である。(p244)
 そういうホスピタリティを感じるのは、旅に出たときだ。いつ来るかわからないバスを待っていると、通りかかった農民がブドウを手渡してくれた。どう見ても旅人の私より貧しそうなのに。これが喜捨というものなのかと実感した。

 ホスピタリティというカタカナを使わなくても、日本には慈悲という実践が古来からあった。しかし、今は共同体内部でしか発揮されないのではないか。

 記憶をたどってみると、困っているところを居合わせた人に助けてもらったことがある。どれも昔のことで、ボランティア元年以降、そういう体験はない。ボランティアをする場が用意され、そこに参加すれば、ホスピタリティを発揮できるのだろう。そうでない日常の世界では、むしろ疎遠なものになっている。

 無差別な慈悲が影をひそめ、仲間うちでの親密さと、ボランティアという祭りの場でのホスピタリティとに、局所化しているようだ。それでも1つ増えたのだから喜ぶべきか。今どき慈悲なんて言うのは、年寄りだけか。
  • 「聴く」ことの力 臨床哲学試論 鷲田清一 TBSブリタニカ 1999
     「季刊アステイオン」の連載(97年新春号−98秋号)をまとめたもの
(2006-07-09)