ああ、無常



 『希望のしくみ』を読んで、今まで仏教に抱いていた疑問がまたひとつ解消された。

 スマナサーラさんは、スリランカ出身の上座部仏教(テーラワーダ)の坊さんだ。仏教は哲学ではないけど、宗教かどうかはっきりしないと言う。
お釈迦さまが説いたのは、「真理」です。真理は、誰が語っても、いつの時代でも変わらないものです。お釈迦さまは真理を提示して、「自分で調べなさい、確かめなさい、研究しなさい」という態度で教えたんです。「私を信じなさい」とは、まったく言っていません。(p21)
 日本の仏教とテーラワーダの違いは、
違いはたくさんありますが、いちばんはやはり日本の仏教がいわゆる祖師信仰だという点でしょうね。祖師信仰では、その宗派を開いた祖師さんの言うことは何でも、自分ではちょっとどうかなと思っても、信仰しなさいと強要します。つまり、祖師の色に染まるんですね。(p21)
 私は、ここが一番の問題だと思う。つぎつぎと宗教もどきが出現する土壌になっているのではないか。
私は仏教だから、「生きる意味はない」という立場をとっていますけど、それは、人生は面白くも楽しくもない、という意味ではないんですよ。「自分が生きることでほかの人々の役に立つ」という役割はある。他人の役に立つたびに、充実感というものが成り立つんです。生きる楽しみといえば、そんなものです。仏教では、それをさっきも触れた「慈悲」という簡単な言葉に収めていますけどね。(p99)
 ここは上田紀行に聞かせてあげたい。

 話は、幸福論へと進む。
(苦しみとは)「現実をありのままに受け入れないこと」です。だから、現実を受け入れたら「苦しみ」はないですよ。それなのに皆さん、「現実をありのままに受け入れるのが苦しいんだ」と勘違いしている。それで現実から目をそらして、「幸福」という観念が生まれるのです。(p167)
 なるほど、なるほど。
幸福と思ってもその状態に期待・希望を足してみると、不幸という結果になる。不幸という状態に期待・希望を足すと、さらに不幸、という結果になる。ですから、期待・希望(仏教用語で渇愛)が問題です。(p168)
 ついに渇愛が出てきた。

 こんな具合に話がすすんでいく。対談なのでやや散漫なところはあるが、詳しい注もついていて読みやすい。ただし、タイトルには不満あり。
  • 希望のしくみ アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司 宝島社 2004 NDC180.4 \1,365

(2006-03-20)