私という牢獄からの脱出



 残念ながらあまり頭がよくないので、頭の回転のいい人を見るとおもわず感心してしまう。精神科医の水島さんもそんな中の一人である。

 彼女は、「コミュニケーション能力こそ本当の財産である」と言い切る。
コミュニケーションに必要とされるのは、「自分の考えや気持ちをきちんと表現し、相手の考えや気持ちをよく聞き、その一致点や相違点を考えていくこと」といえそうです。
(中略)
私はキレることも、援助交際も、覚醒剤も、根は同じだと思っています。そこに共通するものは、「自分を大切にできない」ということだからです。
 『コミュニケーション不全症候群』から10年。コミュニケーション不全というとらえ方も、すっかり日本の社会に定着したようだ。

 頭の良さにかけてはもっと上手がいる。宮台真司をはじめて見たとき、テレビではあほな評論家しか見たことなかったので、びっくりした。

 それを吉本は、次のように表現している。
実は宮台真司さんがテレビに最初に−最初だと思うんですが−『朝まで生テレビ』に出てきたとき僕は偶然見てて、ありゃりゃりゃと思ってね。これは正真正銘のバカが出てきたっていうふうに思ったんですよ。(中略)それは「バカ」と言わなくて「利口」と言ってもいいし、とても吹っ切れてると言ってもいいんですけど、やっぱりこれはちょっと新しい感性だなって思ったんです。
 なお、対談相手の大塚は「新世紀エヴァンゲリオン」についてえんえんとしゃべっているので、お好きな人はどうぞ。

 さてその宮台は「世紀末相談」の中で、意味伝達としてのコミュニケーションは不可能であると述べている。その主張を少し要約してみる。
コミュニケーションはたまたまうまく回っているだけで、そんなものを過剰に信頼するから、恋愛至上主義や共同体主義が生まれる。過剰な信頼は、期待が外れたときに過剰な反応となって現れる。
 これは、ことばが通じるのは錯覚、という私の実感にマッチしている。愛を語る野島伸司や北川悦吏子なら、どう思うかな。

 宮台の文章は、読んでもよく分からないことがある。でも彼が本を書く動機を知って、やけに納得してしまった。説法のチャンスを増やす糸口として文章を書いていたのだ。教育関係者を相手にした講演、国会でのロビー活動、官僚とのコミュニケーション、これらのチャンスを増やすことが目的だったのだ。権限のある人の意思決定に直接働きかけることが、低コストで最大限の成果を上げられるのだと。こんな手の内を見せている。

 これまでの世直しモードから、サブカルチャーモードへの移行を宣言したところで連載は終わる。世直し以降に訪れる本質的なことに一番関心があることに気づいたのだ。強度・体感・直接性、ダウナー系まったり、そんなものに答えを見出している。彼のように吹っ切れない私は、さしずめできそこないのダウナー系まったりといったところだろうか。
(2001-09-07)
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