生まれ変わるなら専業主婦よ塩野七生と聞けば、阿部謹也、網野善彦を連想する。3人とも新聞の書評欄でほぼ同時期に知ったからだ。そしてそれからずっとその著書を読まなかったことも共通している。メールをくださった方が塩野七生をすすめてくれたので、いくつか読んでみることにした。 『昏迷の時代に』では、ソニーの会長出井伸之と対談している。教養のある経営者は、文化人に弱いようだ。 『男たちへ』は、もともと女性に向けて書かれたのに、かなり男性にも読まれているらしい。ロングセラーになっている。 『おとな二人の午後』では、五木寛之と対談している。この本は、人によって好みが分かれるだろう。なにしろおしゃれについての話がかなりの部分を占めているから。二人の愛用品の写真もふんだんに紹介されている。 私はこのあいだ、柳美里さんの文章を読みながら、そのなかなか論理的な筆鋒に感心したんです。彼女と私の共通項はアウトサイダーであることだなあと思うわけ。彼女が在日韓国人なら、私は日本人のくせして三十何年も外国にいて、二人ともアウトサイダーなんですよ。五木寛之も引き揚げ者でいまだに定住しているとはいいがたいから、正真正銘のアウトサイダーである。 『ローマの街角から』では、いろんなテーマでコラムを書いている。あるときは日本に対する提言だったり、イタリア政界の解説であったり、セリエAの紹介であったり。交際範囲も広いようで、当時の小渕首相と一対一で会って政策について提案したり、ペルージャにいたころの中田英寿や黒沢明とも会っている。 また「修道女マザー・テレサ」の項は、コラムとして一級品である。こういう文章を読んでしまうと、キーボードを叩く指先が萎縮してしまいそうだ。 「イフ」的思考のすすめ、という項では、史書の魅力について語る。 歴史書の良否を決するのは、「なぜ」にどれほど肉薄できたか、につきると私は確信している。そして、史書の良否に加えて史書の魅力の面でも、「なぜ」は大変に重要だ。誰が、いつ、どこで、何を、いかに、まではデータに属するが、それゆえに著者から読者への一方通行にならざるをえないが、「なぜ」になってはじめて、読者も参加してくれるからである。(中略)書物の魅力は、読者も、感動とか知的刺激を受けるとかで、「参加」するからこそ生まれるのである。そして「なぜ」という知的作業にとって、「イフ」的思考法が必要であると説く。 私の言いたいのは、なぜ信長は本能寺で死なねばならなかったのか、の「なぜ」ではなく、生前の信長はなぜ、これこれしかじかの政策を考え実行したのか、に肉薄する「なぜ」である。私は、歴史家が「イフ」を禁じているのをずっと不満に思ってきた。これだけズバリと書いてくれると、思わず笑みがこぼれてしまう。
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