国民作家を斬る司馬遼太郎という名を聞くと、松本清張を連想する。なぜなら二人とも私にとっては作家ではなく、歴史の語り部だったからだ。 司馬遼太郎をけなしたくてたまらない佐高信は、石川好と対談して不発に終わる。もの足りない彼は、次に色川大吉を引っ張り出してきた。でも、いくら『司馬遼太郎と藤沢周平』を読んでも、何を批判したいのかよく分からない。 私には、松本健一の話のほうが理解しやすい。しかも彼は塩野七生を引用して説明するのだ。 この塩野さんの談話がおもしろいのは、第一に、司馬遼太郎を「高度成長期の日本を体現した作家」と明快にいいきっているところである。それは、司馬文学を時代の中に位置づけたということであり、没後あらわれた多くの無内容なオマージュと一線を画している。この談話の3年後、塩野七生は司馬遼太郎賞を受賞している。 私が司馬遼太郎の小説が読めないのは、どうやら「鳥瞰」という手法に原因があるようだ。エッセイや対談を読んでいても、脱線したままなかなか本論に戻らずイライラさせられることが多い。よくよく考えると、司馬さんの本領はその余談の中にあるのだろう。本論だけを抜き出せば、もしかしたら他愛のない話ばかりかもしれない。 『対談集 日本人への遺言』の中で田中直毅と対談し、再び土地問題を取り上げている。最晩年の司馬さんの苦渋が読み取れる。司馬作品の愛読者は、これをどう受けとめるのだろうか。 梅棹忠夫との対談をまとめた『日本の未来へ』では、二人に共通するものはイデオロギー・フリーであると解説されている。石川、松本、司馬、梅棹の4人とも、イデオロギー・フリーという言葉がふさわしいように思う。彼らに対するまっとうな批判があれば読んでみたい。それはとりもなおさず、私に対する批判でもあるはずだから。
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