教育を根底から問い直す



 佐藤学は、イニシエーションとしての学びへの接近を試みている。彼の著書『学び その死と再生』を読んでみた。
「癒し」としての教育は、人の抱え込んでいる脆さを出発点とする教育である。自己の無力と正面から対峙すること、そして、その無力を祈りと願いで支え合うこと。そこに「癒し癒される関係」が生まれると言ってよいだろう。育ち合い学びあう関わりを実現している教師の実践には、かならずと言ってよいほど、人の脆さに応答する「ケア」とその脆さからくる病や傷の治癒を祈る「癒し」の営みが埋め込まれている。自分自身の身体を生きることによって他者との交わりあう身体と言葉を蘇らせること−そこに生まれる「癒し癒される関係」こそが、より大きな「労苦」とより豊かな「快楽」へと私たちを導くと言ってもよいだろう。だからこそ最後にもう一度、ヒポクラテスにならって言おう。「教師よ、汝自身が学べ。そして、汝自身を癒せ」と。
 しかし、これを公教育に求めるのは筋が違うような気がする。むしろそういう理念を持った場を新たに作るほうがよい。鳥山敏子のように。

 そして自分と同じ問いを持った教育学者を見出したことにうれしさを感じる。
学校は、どういう場所なのだろうか。子どもにとって学びがいのある「よい学校」とは、どういう場所なのだろうか。教師にとって働きがいのある校長にとって指導性を発揮したい「よい学校」とは、どういう場所なのだろうか。親として我が子を喜んで通わせたい「よい学校」とは、どういう場所なのだろうか。市民として知人に推奨したい「よい学校」とは、どういう場所なのだろうか。そして、そのよい学校を実現するために、教師として校長として親として市民として、なすべきことは何であり、一人でもできることは何なのだろうか。
 しかし、私の力点は「自分が生き生き学べる学校」にある。けっして親や校長や市民ではない。親が理想とするものが、子どもにとって好ましいものとは限らないからだ。だからこそ多様性の中から、子どもが選択するしかない。親ができることは、子どもの選択肢の幅が狭くならないように手助けすることくらいなのだ。

 「教師たちの燃えつき現象」の章で、苦悩する教師たちを紹介している。これまでに何人かの元教師と一緒に仕事をしたことがある。かなり打ち解けた後でも、彼らはけっして学校時代のことを語らなかった。それだけ深く傷ついてしまったのだと思う。間違いに気づいたなら、学校という枠を飛び出す以外に道はないと思うのだけど。

 もし学校を作るなら、授業料だけで運営する純粋の私立学校しかない。税金で運営するチャータースクールや寄付に頼っていたのでは、自立性を保てない。サドベリー校の実践は、そのことを示している。

わが国では、「新教育」というと、「個性化」教育と理解されてきたわけですが、現実に、アメリカの新学校でもヨーロッパの新学校でも中心的に追求されてきたのは「学びの共同体」の構築でした。(中略)もちろん、これらの新学校は「個性化」の教育も内にふくんでいたわけですが、その「個性化」も「共同体」の構築へといたる道筋として位置づけられていました。
 じつをいうと、学校とか教育などにはあまり関心がない。私は、自分が学ぶということはどういうことなのか、を問うことからしか何もはじまらないと思っている。そして自分が学ぶことが、他の人との学びあいに通じる可能性を信じるだけだ。

 ホームページを作ることで、文章を書くことで、自分の考えがだんだんはっきりしてきた。おおげさにいえば、ホームページとは学ぶための弱いメディアなのかもしれない。
  • 学び その死と再生 佐藤学 太郎次郎社 1995 NDC370.4
    「ひと」に連載(93/12-95/10)
(2001-03-08)
<戻る>コマンドでどうぞ