忘れられたからだはどこへ行く?



 現代社会は、からだをどこかに置き忘れてしまった社会である。学校では、知識しか教えてくれないし、知識以外のことを教えられない親が多くなった。昔は、おじいちゃんとかおばあちゃん、さらに近所の兄ちゃん、その他もろもろの同居家族がいろいろなことを教えてくれたものだ。しかし核家族があたりまえになり、地域の人とのかかわりが薄れてしまった今、からだのことを何も知らずに思春期をすごす子どもが多いのに違いない。

 そんな私たちが忘れがちなからだのことを考える手がかりを与えてくれるのが、竹内敏晴の実践だ。『からだ・演劇・教育』では、80年代の前半、東京都内の定時制高校で行われた演劇の授業についてレポートしている。
 「暴走族のリーダーや、自閉症と診断されている青年や、被差別部落出身者や在日朝鮮人であることを隠していた青年たちが、しだいに変わっていき、ある時あるステップを越えるときには、かれらは友達に支えられ、また友達を支えながら、ある瞬間まったく孤独に力を尽くして前へ踏み出すのである」

 「演劇の授業では、演じるものがまったく自分自身のためにやっている。かれらに、芝居とは、かけあい漫才や他人に受けるようにやってみせることではないこと。舞台とは、人が生きる場、いのちを燃やしきる場なのだと、さとってもらうこと。そこで一気に自分を突破する人も出てくる。そしてそれに気づいた時、仲間たちが変わっていく。仲間とのつながりを実感としてからだで知るのは、本質的にこういう時である」

 「娘が動いていくことによって母親も動いていく。娘が自立していくと母親も自立しはじめる」
 このように演劇を通して高校生が変わっていく様子が、細かな観察に基づいて書かれている。

 最近では手あかがついてしまったけれど「イニシエーション」という言葉がある。これは、子どもから大人になるための通過儀礼をさしている。そしてイニシエーションが成立する条件を2つあげている。

 第1は、青年にとって入っていく社会が見えていること。そしてそれが生きるに値するものであること。

 第2は、通過儀礼は青年にとって、わけのわからない、いわば非道な試練であるわけだが、にもかかわらずその試練に身を投げかけてもよいという決意がなされなければならないこと。そのためには、その試練を提示するリーダーに、その青年が身を任せてもいいという信頼感を持つことが不可欠であろう。

 第2条件は、リーダー的な素質のある人はどこにでもいるので、それほど問題にはならない。現代という時代は、第1条件が満たされないことが、問題なのである。いやこの条件が必要かどうかさえも分からない時代なのである。このあたりがもやもやしてしまったので、自己啓発セミナーなんてものがのさばるようになってきた。第1条件を不問にして、あるいは偽っているのだ。

 若者のからだに対する無知につけこんだ、あやしげな宗教もどきまで出現している。人の心に潜んでいるばくぜんとした不安感に形を与え、こころとからだが連動していることを体験させるだけで、いくらでも勧誘できるはずだ。

 グルメとばくぜんとした健康願望のかげで、からだのことが忘れられていることが気になってしかたがない。

  • からだ・演劇・教育 竹内敏晴 岩波書店 1989  
(1998-11-23)
<戻る>コマンドでどうぞ