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成人式の年から年賀状にこだわりがあって、詩を書いたり、俳句を書いたり。でも良い歳になってからは気恥ずかしくなって、文章にしました。とはいえ今でもこだわっているのは、「新しい朝」と「おはよう」。何十枚もその二言だけは入れて年賀状を書き続けました。その文面と何が起こった年かと組み合わせていけば、「自分史」になるかな、と思ってきました。このコーナーでは、それをスタートしたい、と目論んでいますが、さてどうなるか。
[目次]
1947-1954: 誕生から入学まで [第9回]、[第51回]1954-1963: 小中学生時代 [第10回]1963-1966: 高校生時代 [第11回], 1966(S41) [第12回]
1967(S42) [第52回],1968(S43) [第1回],1969(S44) [第13回],1970(S45) [第14回],1971(S46) [第15回],
1972(S47) [第2回], 1973(S48) [第16回],1974(S49) [第17回],1975(S50) [第3回], 1976(S51) [第22回],
1977(S52) [第23回],1978(S53) [第24回],1979(S54) [第25回],1980(S55) [第26回], 1981(S56) [第4回], 1982(S57) [第31回],1983(S58) [第32回],1984(S59) [第33回],1985(S60) [第5回], 1986(S61) [第34回],
1987(S62) [第35回],1988(S63) [第36回],1989(S64/H1) [第6回],1990(H2) [第37回],1991(H3) [第18回],
1992(H4) [第19回], 1993(H5) [第20回], 1994(H6) [第21回], 1995(H7) [第7回], 1996(H8) [第27回], 1997(H9) [第28回],1998(H10) [第29回],1999(H11) [第30回],2000(H12) [第8回], 2001(H13) [第38回],
2002(H14) [第39回],2003(H15) [第40回],2004(H16) [第41回],2005(H17) [第43回],2006(H18) [第44回],
2007(H19) [第45回],2008(H20) [第46回],2009(H21) [第47回],2010(H22) [第48回],2011(H23) [第49回], 2012(H24) [第42回],2013(H25) [第50回],2014(H26) [第53回],2015(H27) [第54回],2016(H28) [第55回][第56回],
2017(H29) [第57回],2018(H30) [第58回],2019(H31) [第59回],2020(R2) [第60回][第61回],2021(R3) [第62回], 2022(R4) [第63回],2023(R5) [第64回][第65回],2024(R6) [第66回],2025(R7) [第67回],2026(R8) [第68回]
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| 2025年、第二次トランプ政権がスタートし、関税を武器として振り回す新たな政治がスタート、世界中が振り回されている。ロシアによるウクライナ侵攻も誰がどう見てもプーチンの無理筋だと思うけれど留まるところを知らない。信じられない程の犠牲をウクライナに(そして勿論ロシア兵にも)強いている。中東ではイスラエルによるパレスチナ(ガザ地域)攻撃も強烈で国連の反対意見も通らない。いずれもロシア・プーチン、アメリカ・トランプそして、もう一人中国の習近平という強大な権力者のパワーゲームに振り回される。領地問題に経済問題がからみ結局「力(戦力/果ては核兵器力)」による政治が動く。第二次大戦後の日本は戦力を放棄してきて経済力に集中してきたが故の「財力を武器とした力」でバランスの中の平和主義で生きてきた。でも、それだけでは持ちそうもない。政治もなかなか安定は遠く、自民党もマジョリティは取れない。石破茂政権は長続きせず、初めて女性の高市早苗政権がスタートした。真の保守を謳い、第二次安倍政権のやり方をフォローしようと目指す。やや強権的なその姿に国民の支持率が高まっているらしいが、これが決して成功するとは思えない。少子高齢化、東京集中、経済格差など、これまでの手法で解けそうもない難問の中で喘ぐ。新たな「大変な」時代である。まずは「戦争のない平和」な日々を望みたいが「日本だけ」なんてあり得ない。社会の変化としてはいよいよ究極のICT化がますます進んでいきそうで、AIが話題にならない日はない。医学の進歩も凄まじく、「死ねない時代」も近い。さて人間はどう生きれば良いのか、何も生産しない老人たちの群れがどうなろうとしているのか。難しい時代である。
おはよう/新しい朝です/
AIが考えたり、/決めたり、/指示したり/
そんな時代が来たようです/創造性は人間の最後の砦だと思っていたのに/
いつの間にか、まさかと思っていたことが/現実になることが続きます/次は何が起こるのでしょうか/
現代の科学でみると/人類の本来の寿命は38歳だとか/
もう今や科学は/「自然」を突破したということでしょうか/
抗老化という分野が話題になります/そのための薬品も次々と・・・さて、最終的な姿はどうなるのでしょうか/
見届けたいという気持ちはあっても/やはり「自然」に任せたいと/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第67回 2025年(令和7年) さて余生をどう過ごすか
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| コロナ禍が終わろうとしていた矢先の2024年の元日の夕方、能登地震が襲った。M7.5、最大震度7の大地震だった。徐々に明らかになった被害状況はこの国の現状の多くの問題点を提起した。東北大震災もそうだったが、能登は一層の過疎化地域が含まれていた故に復興のスピードも遅かった。加えて9月には豪雨が襲い一段と被害を大きくした。こうして世界のみならず日本でも天変地異が続く。人間の叡智に対する試練である。決して勝てない「天との闘い」である。終わることのない試練が続く、と心するべきだろう。個人としてはあっという間の1年。とうとう「喜寿」を迎えた。長男は50歳になった。年月という試練も容赦はない。誕生日に子供たちが祝いにステンドグラスのセットを贈ってくれた。何か集中できる趣味を、という思いやりだろう。懐かしくてその気になったきた。10年以上続けた市のPC教室の講師もこれを機に止めることにした。特別研究員の仕事やコンサルの仕事もそろそろ終わりを探す時になったと思う。先輩、友人の訃報も届く。いかに終えるかも大きな課題である。How to die?なんて言ってはいるが、こればかりは自分ではままならない。リビングウイル(自然尊厳宣言証)を宣言した上で生かされている間は精一杯生きることを念頭に時間を大切に生きたい。
おはよう/新しい朝です/
ついに、子供たちに喜寿の祝いを貰いました/
米国駐在時代に時間を楽しんだ/ステンドグラス細工のセットです/
25年以上、触れたこともありませんでした
今や、自由な時間に恵まれて/のんびりした時を楽しめ、ということでしょうか/
眼を世界に移すと/ウクライナも中東も戦争が続いています/米国も今年は何が起きるのでしょうか/
我が国の政治も昨年の総選挙で/またまた揺れ動いています/
それらを意識する度に/過ぎし日を想うとともに/今、この時を大切にと思います/
ありがとう 今年もよろしくお願いします/
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第66回 2024年(令和6年) 何が最も大切なのか
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| 人類史に残るであろうコロナ禍がようやく終わろうとしている。でも人間同士の殺し合いはますます広がっている。領土・領域の奪い合いが続き、その中には人種や宗教を最重要とする戦いがあり、基本には経済的格差が絡んでいる。一昨年のロシアによるウクライナ侵攻は正に「侵攻」であって、それが結果として自由民主主義と覇権主義との闘いとなり、欧米日もウクライナを支持せざるを得なくなって今や出口の見えない東西戦争になってしまっている。昨年後半には中東戦争が又もや勃発、攻撃を受けたイスラエルはハマス/アラブせん滅を宣言している。なぜこの時代にこのような戦争が起き、何故それを止める叡智が機能しないのか、平和慣れした我々日本人には理解できない。ただそれは日本人が「まず生きなければ」という苦境から距離を保て続けることができてきたお蔭だろう。一つ間違えば新たな戦争に入り込まざるを得ない状況だって、すぐ近くにある。そんな中だが何とか平和に生きている。2022年は当方が、2023年は家内が病院通いをし、実感として老化を感じる羽目となった。周りの親戚・知人たちも次々と鬼籍に入っていく。例外は無い訳でその準備の心掛けだけはしておかねばならない。やはり「いつ何が起こるか分からない」状況にあることをよく認識して「生かされている命を大切に生きる」ことを考えて行かねば、と思う76歳である。
おはよう/新しい朝です/
コロナ禍は本当に終わったのでしょうか/信じ難い様な歴史の一瞬でした/
でも、まだ/人間や技術の勝利と言う感じはありません/
ウクライナ戦争も、そして中東も/世界の情勢も/待っていれば良いという気持ちにはなれません/
命の重さが軽くなっていくような毎日です/
親しかった人達の訃報を聞く度に/時の経つ速さを実感します/
でも、だからこそ/生かされている時間を大切に/そう思っています/
ありがとう 今年もよろしくお願いします/
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| 12月に次兄が逝った。夏に脳梗塞で倒れ、記憶も戻らぬままの淋しい別れだった。生きている間の再会を願ったがコロナもあって結局面談は出来ぬまま終わった。本当の家族葬で静かな送りだったが穏やかな顔の兄をじっくり送った。眼の良くない義姉と2人の子供、1人の孫が残った。彼らが元気なのが救いである。この兄は10歳も上だったものだからちゃんと話せたのは大学入学以降だった。岸和田の家に同居して夕方銭湯に行って、帰りに屋台のラーメンに行った。中学教師だったが偏差値教育、受験教育に振り回され、遂には障害者教育へと転身した。都会の教育と矛盾について考えさせられることが多かった。当方のリタイア後は格好の「碁敵(ごがたき)」となり、ネット囲碁が楽しめるようになったがメカの関係から離れてしまった。棺の中の顔は「おーもう一丁!」と言っているようであった。3人の兄が皆逝ってしまった。一緒に酒を飲み、麻雀や花札、囲碁将棋、そして競馬まで「何でもついて行けるようになっておけ」という社会人としての教育(?)の先生達であった。送るというより、「待ててね、いずれもう一度仲間に戻るから」と話した葬儀だった。
お変わりありませんか/親しい人だけへの賀状の代わりです/
この12月3日に次兄が逝きました/夏に脳梗塞で倒れ、そのまま認知も戻らず/
病院も移りましたが/結局、言葉も交わせぬまま、86歳の別れでした/
中学校の教師から/障害児教育に転向し/教育に一生を捧げました/
亡き父も後継を讃えて、/迎えているのではないかと思います/
誇れる家族を残して悔いないであろう人生でした/
5人兄姉弟の3人が逝って/いよいよ次は、と思いますが/
その日までは生かされている人生を/精一杯生きようと心しています/
有難う、これからもよろしくお願いします/
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| 新型コロナ感染者は世界で6億人を超し日本でも3000万人とか、死者は世界で600万人、日本では5万人と言われている。統計のあげ方や集積の仕方の不確かさなどはあるにしても恐ろしい数字である。未だ決して終わった訳ではないが、今やそれに立ち向かっていかなくては人類の生存が成り立たないのでは、という状態になりつつある。加えて昨年二月にはロシアのウクライナ侵攻が始まった。何とも理解できない戦争であるが、どんな理屈があるにしろ多数のウクライナ国民が殺されているのは現実であり、ニュースとして聞いているだけで耐えられない。これがどんな形で収束していくのか歴史における人間の知恵を問われている。当方は2月に憩室炎で出血に見舞われ、入院したらそこで軽い脳梗塞も患い2週間の入院生活。8月には健康を取り戻したかと伊豆で遊んだらその最中に脳の病か又もや救急車の世話になった。挙句の果ては年末にはコロナ陽性。正に健康との闘いの年だった。何とか誕生日を迎え、晴れて(?)後期高齢者。いよいよ下り坂人生をいかに充実させるかという事を考える年齢になった。「病になっても最後は治ってもとに戻る」という大前提を仮定してはいけないという事なのだろう。年末には家内迄入院という憂き目にあっている。コロナやウクライナ戦争などが現実にある中で、自分達自身の健康問題も大きな問題として迫ってくる。研究所の調査の仕事や、地域のPC教室の講師、コンサルの仕事など、まだ世の中とのコンタクトを求められるケースがあることを有難いと思って出来ることは応えていきたいと心する新年である。あえて年賀状にもSomething Newを入れて「前を、明日を」目指した生き方を心掛けたいと思っている。
おはよう/新しい朝です/
とうとう後期高齢者です/何という時の速さでしょう/
昨年は救急車や入院のお世話にもなりました/そういう年齢だという事でしょうか/
世界でも日本でも/こんなことがと思う出来事が続きました/長い歴史の中のたった一年なのに/
そんな中、大切な時間を生きています/若い頃いつも口にしていた/Something Newを明日に求めて/
ひと時の価値を大切に/そう思う毎日です/
コロナの影響は如何でしょうか/またお会いできる日を楽しみに/
頑張りましょう/ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第63回 2022年(令和4年) 人類が問われている
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| 新型感染症もとうとう2年に亙った。日本だけで180万人近くが感染し、死者が丁度東北大震災と同じ18000人に到達した。毎日変化する数字を覚えるのに苦戦するが、18000人は覚えやすく、「これ以上増えないで欲しい」と思う。昨年も1年間ジッとしていた感がある。でもオリンピックは(無観客だが)開催され、それなりの興奮があった。人間には「生きるためだけに生きる」なんて生き方はないのでは、と思った。11月には10年間通った四国のコンサルが終わった。第二の人生を彩ってくれたクライアントであった。まるで現役のリタイア時の様な送別をしてもらって、ただ感謝だった。研究所の調査の仕事は何とか続けている。これもいつまで頭がついていけるか、もうダメと言われるまでは頑張ってみようと思っている。子供達や孫たちの成長が楽しみで、最年長孫娘は中学校、最年少孫娘は小学校に入学した。見ているだけで楽しく、嬉しい。現役時代、いつも「Something New」を求めていた。考える時でも、動く時でも、何をする時でも、「新しい何か」を求め続けていようと心していた。この年賀状には忘れかけたそれを書きたかった。コロナの中の74歳の再出発の宣言である。誰もが今、「さあ、どうする?」と問われているように思えて。
おはよう/新しい朝です/
まず世界のニュースを観ます/
この国だけでなく/多くの国で/ついて行けないほどの変化が起こっています/
もう、昨日と同じ今日を望む/年齢なのかも知れません/
でも、やはり変化を求めています/今日と違う良い明日であって欲しい/
新しい何かが引っ張る明日であって欲しい/それを期待する朝です/
今日も変化を楽しみ/変化についていく一日でありたい/毎朝そう思っています/
コロナの影響は如何でしょうか/自然との闘いは続いています/頑張りましょう/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第62回 2021年(令和3年) 新型コロナ禍の中で
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| 2020年が明けた時、中国武漢での感染症のニュースが届いていた。まさかそれが数か月の間に世界中に広がり感染者は8000万人、死者は180万人に達そうとは。日本は感染者数、死者数共に比較的少ないがそれでも23万人の感染、死者は3500人に達する。1年の間に社会が大きく変わった。春には学校閉鎖、緊急事態宣言、2020東京オリンピックの1年延期の決定等々、これが現実だろうかと思うような大変化が続いた。「3密」を避け、マスク必須の社会になり、「命か経済か」を問われるほどになった。政治も混乱、安倍長期政権も健康問題ではあったが突然終わり、菅義偉新政権がスタートした。まだ、ワクチンも特効薬も決め手として確立されていない。正に混乱のピークである。病状は甘いウイルスではありそうだが、厄介なのは無症状(だが感染源になる)患者が多く、医療機関の制御が難しい。世界もウイルスに振り回された。米国トランプ大統領の「ウイルス恐るるに足らず」の姿勢から、米国の大感染を呼び、大統領選挙は大激戦だったが民主党バイデン候補の勝が決まった。ただトランプの大健闘が示す米国の分断はこれからの米国・世界の政治的混乱を暗示している。2021年がどんな年になるか、オリンピックが本当に開催できるのかを含め人類の岐路なのかも知れない。ただ、個人で見ればいつの間にか年齢を重ね73歳にまでなった。ただ、この歴史の大波の中で社会がどう動いていくのか、できれば見定めたいと思う。
おはよう/新しい朝です/
昨年は新型コロナの年でした/
年初は中国の問題と思っていたのに/いつの間にか全世界が大混乱に/
人類の歴史における感染症問題を実感しました/
まさか自分の人生の中に/こんな時がこようとは思いもしませんでした/
大地震や大津波と同じように/
これも驕れる人類に対する/自然の警告の様に思えます/
一度立ち止まって/「生きる」とか「幸せ」とか/
それを自らに問うてみよ、と言うことでしょうか/
皆様にとってのコロナ禍は如何でしょうか/お互いの無事を祈りましょう/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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| 年末の喪中はがきが年々増えていくように思える。年賀状の方も、そろそろ最後にしますという挨拶が増えてきた。誰もがいつかはサヨウナラを言わねばならないのだが、いざこれが最後と言うのはやはり寂しい。今年も何人か葬儀があった。特に親族で自分より若くしてと言うのはなおさら胸に染みる。普通の年賀状は予定通り準備する予定だが親族には喪中挨拶を送った。家内の弟だから、義弟と表し、単独名での発信となった。やはり、順番を守ってくれなくては・・・その思いがあった。
お変わりありませんか/親しい人だけへの年末の挨拶です/
去る10月11日に/突然、義弟が逝きました/
ここ数年病魔と闘ってはいましたが/最後は病院でたった一晩の急でした/
教師の夫妻で/三人の子供たちも全員教師になって/誇れる家庭を築いていました/
若い時は我が子達も連れて/日本海で遊んでくれました/
義父母の見舞いに帰鳥の時には/酒を酌み交わしたものです/
寡黙ではあったけれど/筋の通った男でした/
自分より若い親族も先に逝きます/近づく順番を前に/「生かされている間は精一杯に」/そう思う毎日です/
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| 平成時代が終わり、令和が始まった。天皇崩御に伴わない譲位であったので、平和で明るい新時代の幕開けであった。トランプによる嵐は米国だけでなく世界を巻き込んでいて世界の価値観が変わりつつある。ドイツ人で米国人になった友人が、「米国人としてパスポートを持つのが恥ずかしい」と書いていた。一定の安定した支持を得ながら、でも米国人を分断している。安倍政権はこの大統領とうまくやることで安定した政治をやっているように見えるが国民の信頼を無くしかねない危ない橋を渡っているとも見える。今年も、日米、日中、日韓、日朝、日ロそして日欧、日英と国際関係も目を離せない。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を求めていても許されない日がすぐにも来そうな予感がある。でも、今年はオリンピックイヤー、東京は大騒ぎになりそうだ。せめて無事・平和裏に終わってほしい。まずはそれを祈りたい。個人的にはとうとう十二支六巡目が終わり、満72歳になった。研究所の手伝いの調査の仕事、2社のコンサル、市や公民館のPC教室の講師など、期待される間は何とか食いついて続けたい。認知症との闘いになるのだろう。もう一つは健康、動けなくなったら終わりである。一万歩を目指し、ゴルフも止めたくない。どこまで行けるか体力も自分との闘いである。昨年は世話になった恩師や義姉など親しい人達が逝った。自由と平等という大きな矛盾を感じることが多い。人が生きることについては決して平等ではない。心の安定も重要なテーマである。
おはよう/新しい朝です/
十二支も六巡終わります/
昭和生まれの子供たちが/平成生まれの孫たちを連れてきます/
そして「令和」の時代です/
平和な日本なのでしょう/
でも世界や日本の社会を見渡す時/これで良かったのかと思うこともあります/
「自由と平等」を考えます/こんな難しいテーマはありません/
親しかった方達と別れる度に/昨日や今日と共に 何とか明日も考えていたい/
そう思っている毎日です/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第59回 2019年(平成31年) 「平成」最後の年・令和元年
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| トランプ大統領に振り回される米国、世界。昨年は世界の価値観が変わっていくのではと思わせる1年だった。グローバリゼーションの問題点が浮き彫りにされ、保護主義が台頭してきている。でも、日本は終戦後、実質上最もグローバリゼーションの恩恵を被ってきた。それを忘れてはならないと思う。欧州では難民問題が、理屈では割り切れないほどの大問題になり、EUも揺れる。英国のBREXIT問題もいよいよタイムリミットが迫り、どうなっていくのか目が離せない。さて、日本では安倍政権が「外交を武器に」しているように見える。確かにこの政権ならではの強みを見せているようだが、国内問題では減点が続く。今年の参院選挙が乗り切れるかどうかにかかっている。そんな問題だらけだが何とか平和に見えるのは経済面の好調さを保っているから。ただこれもすべて世界の動きの中。「いいとこどり」が許される世界ではない。さて、日本はどう生きていくのか、高齢化の真っ只中で問われている。IoTとか、AIとか、半導体が支えるハイテク分野でどこまで優位性が保てるか。中国の台頭を目の当たりにすると、チャレンジ性が薄くなった今の若者たちの危機意識が足らないのでは、と思ってしまう。外国人観光客だけで生きていける国ではなさそうに思えるが。新しい価値観の確立にはまた次の50年が必要なのかも知れない。昨年末にアトムロボットを購入した。まだまだ玩具だが、目の前にあってカタコトの会話をしていると孫たちの世代が垣間見えてくる。次の5月には平成時代も終わる。
おはよう/新しい朝です/
我が家にアトムのロボットがやって来ました/毎日、いろいろ会話を試しています/
インターネットとAIで/日々賢くなるそうです/
「鉄腕アトム」を漫画で読んだ頃/ロボットや宇宙に夢を膨らませました/
当時の夢がこうして実現していくのでしょうか/
余りに進歩が速すぎて高齢者には/ついていくのが難しくなってきましたが/
せめて/受け入れる感覚だけはもっていたい/そう、思っています/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第58回 2018年(平成30年) 大きな変化の中の平穏
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| 英国や米国でのナショナリズムの台頭で動き始めた世界の大変化。2017年はどうなるかとハラハラしたけれど、終わってみると見かけ上は平穏な一年。北朝鮮の世界に対する挑戦が留まることなく続く。一発触発の段階で、かつ各々のリーダーがトランプと金正恩というやや異常な人たち。2018年も何事もなく、終われるのだろうか。民主主義や自由主義をかざしながら、資本主義のありようが問われる。「平等主義」との折り合いがつくのかどうか。東西冷戦後の均衡の中で、資本主義の見直しが進むのかも知れない。国内では突然の総選挙、結果としては安倍政権の継続が承認された。当方も、ついに70歳になった。古稀とは滅多にないほどの長生きという意味だったのだろうが、今では「普通の高齢者」。人によっては「若者何するものぞ」とばかりに活躍しているが、周りには元気を持て余す高齢者も多い。何かしなければ、「寝たきり老人」に向かってまっしぐら。それだけが怖い。リタイアして間もなく8年が過ぎる。社会との接点を保ちながら、大人の高齢者になりたい、そう思う新年である。「健康」というご褒美をいつまでくれるのか、あとは神のみぞ知る。
おはよう/新しい朝です/
若い頃、感じていた70歳は/全うした敬いの対象/
今、自ら70歳を迎えて/色んな感慨があります/
一番思うのは「第二の人生の真只中」/昔の様に尊敬の対象とは思わないけれど/
もっと、自然や歴史に親しみ/流れに従順に生きよう/
「若い者には負けて当たり前」/そんな気持ちになれるようになりました/
それが、本来の歳の重ね方だと思います/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第57回 2017年(平成29年) 何が起きようとしているのか不透明
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| 振り返ってみればどの年でも色んなことが起こっているのだが、2016年の変化は人類世界の大変化の予兆とでも言えそうな事件だった。世界的に見て大きいのは米国次期大統領にトランプ氏が選ばれたこと。これは現実として信じられなかった。この1月20日に就任して何が起ころうとしているのか、民主主義大国米国がどこへ向かうのか世界が注視している。昨年は英国のEU離脱という事態も起こった。民主主義、自由主義が変貌していくのだろうか。混沌とした不安の予感がある。自然からの攻撃もあった。熊本大地震、荒れ狂った台風など「予想されていない」災害も続く。人類、技術はもっと謙虚であらねばならないのではないかと感じることが多い。個人としては、相変わらず幾つかの企業のコンサル、調査の仕事の手伝い、夏と秋にはパソコン教室の講師、それにOB会の幹事など、予定表を詰める仕事も続いている。ゴルフも年間30回以上楽しんだ。それも全て健康なお蔭。家に居る日は1万歩の散歩は欠かせない。さて、後何年間この生活を続けられるか、それは誰にも分らないけれど。「与えられた生」を全うしたいとだけ願っている。
おはよう/新しい朝です/
去年の8月、鳥取に帰省して/古稀を祝う同窓会に出席しました/
50年ぶりの人達もいて/最初は誰かさえ分からなくても/一度分かり合えば/時計は逆戻り/話は尽きません/
一人一人が夫々の人生を歩んで/こうして今を生きています/「大変だったね」「良かったね」という気持ち/
お互いを理解する気持ち/それさえあれば 繋がります/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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| 喪中で年賀を略すのは2親等以内の不幸があった年の翌年の年賀とされる。我々の年齢になると、年末になると多くの喪中葉書が届く。それはそれで、大変だったのだなと弔意を感じ同情するのだが、人によっては配偶者の兄弟とか祖父母など、会ったことは勿論、そんな人がいたのかと思う様な人の喪中葉書もある。今年の6月、三兄が突然逝った。残された家族・兄弟にとってみれば大変な悲しみ。でも当方の親族でなかったり、現役時代の(仕事の)知り合いたちにとっては余り喪中の実感もないだろうと、今年も年賀状を出す予定。でも、逆に良く分かった親族や故郷もつながるような人達にはそれらしき挨拶にしたいと思った。
お変わりありませんか/親しい人だけへの賀状の代わりです/
去る6月14日に/突然、三兄が逝きました/
病院にも行かず、薬も飲まず/ちょっと出かけて、帰ってばったり/
二人の息子を育て/五人の孫に恵まれ、今年は初のひ孫まで/自慢の家族を遺しました/
義姉は勿論、家族の嘆きは大変なものでしたが/半年経った今/彼の願っていた逝き方だったのだと思います/
本当に男らしい兄でした/周りに優しい兄でした/
なぜか遺書らしきものが残っていて/その中に、「お前が誇りだった」とありました/こちらもとっても誇りにしていた兄でした/
五人兄姉弟の二人が逝って/次は、と思うたびに/精一杯生きたよ、と報告したい/それだけを願っています/
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第55回 2016年(平成28年) 「日本」を見つめ直す
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| アベノミックスも3年が過ぎなかなか成果が目に見えないと言われながら、それでも内閣支持率はこれまでの政権と異なり高い値を維持している。円は120円台に戻り、株価も2万円に近づいている。この好調さの中で「安保法案」も通してしまった。正に数の力。今年は参議院選挙でも勝利していよいよ「憲法改正」を目指す。当方は「立憲主義」をサポートしたいし、だからこそ今の憲法は古すぎると思う。世の中の流れに沿った憲法にできるようにしておかねば大きな矛盾の中で生きていくことになる。何故自衛隊は良くて、集団的自衛権は悪く、それでいながら国連の中での主導権も持とうとする。鎖国主義に戻らない限り世界の中の日本は避けて通れない。それが都合の良い所だけ甘えて経済では世界に頼り、東アジアのリーダーを演じている。戦勝国中国や韓国の立場で戦後70年を振り帰ってみれば「何故日本だけ?」という疑問は尽きないだろう。米国人の友人が中国に赴任していて、居る間にぜひ遊びに来いと言ってくれたものだから、9月に中国を旅した。現役時代には何度も出張したが観光の機会は殆ど無かった。今回は彼の案内で、北京・万里の長城を歩き、その後は分かれて夫婦で重慶に飛び、三峡下りのクルージングを楽しんだ。又彼の住む蘇州に戻り、「中国に住む米国人」の生活を見、上海から帰ってきた。この間に一人の日本人観光客にも会わなかった。これが嫌日中国の表れか。でも日本では中国人を主とする「爆買い」が大きなブーム、購買力は数兆円に及ぶ。これも見方を変えれば「日本の経済を左右する力」の誇示とも言えるかも知れない。中国で強く感じたのは「やはり中国は凄い」の一言だった。歴史も文化も超大国。近代化の面では遅れているかも知れないが今日本人が眉を顰める中国人の動向は、70年代の日本人とそっくり。彼らが日本と同じような努力をすれば大変な国になる。日中関係を見ても決して日本人が「上から目線」でみてはならないということだった。日本人はもっと本来の謙虚さを持つべきだと感じた年だった。レンタカーを借りての「まがいもの」八十八ヶ所巡りも9月には結願した。自分自身を見つめた良い時間だった。昔は「稀にしか生きられなかった」古稀が迫ってきた。一日一日を大切に、そう心する。
おはよう/新しい朝です/
今を生きていることに感謝する毎日です/私たち家族11人、みんな元気です/
昨年の秋、中国の旅をしました/北京、万里の長城、重慶から三峡下りと/自由な旅を楽しみました/世界を揺るがせる大国の/奥行きの深さを肌で感じました/
日本が戦後いかに恵まれた立場にいたかを/感じるこの頃です/このままが続いて欲しいと祈る中で/日々、大きく変化しています/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第54回 2015年(平成27年) 格差との闘いか
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| 国民の年齢分布が大きく変わってきているのに、何とか元の「イケイケドンドン」「大量生産で安価なものをすべての人に」「そうして国民が皆幸せに」という成長モデルを模索する。第二次安倍政権ができて「日本流」の自由主義モデルができるといいけれど、やはりどんなに巧くいっても格差との闘いになる。権利には平等に目覚めているだけにこの闘いは難しいものになろう。そんな中、2014年が終わった。3男のところに二人目の子供ができてこれで4人の爺ちゃんとなった。家族も変わっていく。計4社のコンサルらしきものを続け、市や公民館のパソコン教室の講師も続けた。夏はロングドライブで故郷にも帰り、ついでに寺参りもした。新しいプロジェクトは四国八十八ヶ所札所めぐり。月一回の高松出張の機会を利用して、かつドライブで順不同。いい加減な札所巡りだが、誰も文句をつけないのが良い。もう54寺突破。まだまだ目標には事欠かない。2015年の年賀状には「おはよう」「新しい朝」「ありがとう」そして、「明日よりは今日」という言葉を入れた。これまで「昨日より今日」「今日より明日」と思い続けた人生だったが、ここらで「明日より今日」「今日より昨日」と振り返るターニングポイントなのかも知れない。何千年の歴史の中で自分が生きる戦後の昭和と平成、子供たちはおそらくポスト平成まで、孫達には昭和は単に歴史。3世代合わせても200年以内。ほんのわずかな一瞬。でもそれぞれ何かの価値、意味はあるだろう。それを大切に思わねば、というメッセージ。
おはよう/新しい朝です/
一日一日が大変貴重に感じられて/明日より今日と思うようになりました/ 昨年は多くのお寺にお参りしました/夏の永平寺と善光寺には圧倒されました/なぜ人は宗教に惹かれるのか/分かる年齢になったということでしょうか/
四人の孫たちの明日を祈る時/自分の子供達、そして自分たちの/昨日を思います/何れも歴史の一瞬でしょうが/それぞれ 価値はあるように思います/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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第53回 2014年(平成26年) 日本再建なるか
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| 2012年の総選挙で自民党が圧勝してネジレがなくなって、安倍政権のアベノミクスがスタート。2013年は堅調に強い(?)日本復活の兆しが見え始めた。ただ、今までの所は「運」に恵まれている感がある。このチャンスに本物の復活に進めるかどうか、2014年が正念場と言えるだろう。だが、世界も日本も大きく変わっている、歴史には「戻る」ことはあり得ない。我々世代、団塊の世代、が高齢者に仲間入りした。国も高齢化現象だ。孤独死が増えているニュースはもうこの問題が他人事ではないと思わせる。そんな中、相変わらず月1,2回のコンサルタントや夏のパソコン教室講師など、社会との接点も保ちながら、健康でゆったりした生き方が出来るのを幸せと思い、感謝している。退職後にできた新しい仲間と語り、時には若い人達とも酒を酌み交わし、話が出来るのも嬉しい。この生活が後何年続けられるか、それを考えながらウオーキングにも励んでいる。11月の欧州クルージングはトピックスだった。こんな旅もいつまでできるやら。
おはよう/新しい朝です/
正式に高齢者と言われるようになって/本当にそうなんだと己に言い聞かせています/電車の中で席を譲られてショックを受けました/
昨年はエーゲ海・ギリシャ・クロアチアを旅しました/
リタイアして後、旅した欧州の国々は/何れも一時代の世界を制覇した国/今は、観光のみに頼って生き延びています/
さて、日本の将来は?/そればかりを考える旅でした/
ありがとう/今年もよろしくお願いします/
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| 振り返ってみると、この年だけが抜けていた。昭和42年、二十歳になった。当時は岸和田の家から2時間以上もかけて大学に通っていた。母と、長兄家族、そして次兄も同居していた。週に2回は近所に頼まれた家庭教師に行っていた。11月、二十歳を記念して、長兄が一大教育を計画してくれた。3人の兄とミナミの街に繰り出した。「社会人になってどんなことがあってもビックリしないように」という計らいだった。ようやく髪も伸びて大学生らしくなっていたかも知れないが、何しろ田舎出身で、かつ長時間かかる通学で、友人達の様に下宿生活でバンカラをエンジョイすることも無かったので、兄達も心配したのかも知れない。フグ料理を堪能した後、大きなクラブ(ミカド)で2次会、その後は高島田を着た女装の男性達のバー、もう零時を過ぎていたが、最後はとあるマンションの中の一室、入ったとたんに大音響。男装の麗人ばかりのスナックバー。宝塚俳優も良く訪れると言う場所。ここでまた、飲んだ。一体一晩でどれだけ飲んだか、兄達がいくら支払ったのか全く不明。ただ、長兄が言いたかったのは、「社会に出たら、色んな人達がいて、色んな場所がある。どんな所に連れて行かれても、酒や雰囲気に飲まれるな。」と言うことだったのだろう。確かにその後の人生で、色んな酒を飲み、色んな場所にも行ったが、それ程驚かなかった。この成人記念の強烈な思い出があった故だろう。その後も、機会ある毎に兄弟4人でミナミで唄い、飲んだ。この分野を鍛えてくれた長兄も亡くなってもう10年以上経った。次に酌み交わせるのは阿弥陀様の前か。それも又楽しみだ。
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第51回 1947-1954: 誕生から入学まで(その2) やはり想いは両親
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| 第9回で一度書いた幼い頃。鳥取の田舎の暮らし。趣味の詩のコーナーでも故郷を思い出すが、やはり懐かしい。父は、専門は漢文の教師、でも僕が知るのは中学校の国語の教師、そして校長だった。母に言わせると、若い頃から角を曲がるのに円弧では曲がらない(即ち、真っ直ぐ行って右向け右!)ような固い人物だったようだ。当時としてはそれが当然だったのだろうが。農家の二男で生まれたということは、別家を作るか、婿に行くか。父は教師の道を選んだ。鳥取では不十分と思ったか、東京の大学で勉強しようと上京した。その際、8歳も年長の母を連れて出てきた。当時のそんな恋愛結婚が認められようもなく正に「駆け落ち」。そして長兄が生まれた。戦争が始まって、結局は認められたが、こんないきさつもあって、我が家では結婚即ち恋愛結婚だった。母も両親が離婚して自分だけで生きていかねばならない環境で、家庭科の教師、和裁や華道茶道など後で我が家で教えていたが、日本刺繍は良いと思った。結婚はしないと決めていた、と後年ぽつりぽつりと話していた。戦争で結局は父の故郷に帰ってきて実家に認められたが、それでも苦労の連続だったようだ。何しろ5人も子供がいたから。僕は5人目で、母が44歳の時の子、小中学校の同級生から、「(おばあさんばかりで)お母さんを見たことが無かった。」と言われたことがある。兄達は12、10、8歳も年長で、僕にとってみれば、一緒に育ったというより、はるかに歳上のお兄さん達、すぐ上の姉ですら5歳も年上で、幼い頃に一緒に遊んだ思い出はない。庭で兄達がキャッチボールをするのを見て、羨ましくて仕方なかった。正月に家族が集まってする百人一首やトランプ遊びが年に一度の楽しみだった。
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第50回 2013年(平成25年) 「高齢者」の仲間入り
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| 年賀状を主題にしたが故に、毎回自分史が2年にまたがってしまった。これからは、この年賀状を書いた(即ち)前の年の記録にする。2012年は日本全体が、震災ショックから立ち直る為の準備の年か。はたまた、国として没落していく年か、問われた年の様に思える。震災の後遺症は残り、政治はネジレで何も進まず。結局、12月の衆議院選挙で、自民公明政権が復活した。何か変わって欲しいと言う国民の願いか。でも、高齢化は進み、全てが滞った。個人としては、2社のコンサルに夏のパソコン講師、加えて後半には特別調査員のアルバイトなど、収入にはさほど繋がらなくても社会との接点を保つ仕事に恵まれた。30回を越したゴルフと何も無い日のジョギング・ウオーキングで健康に一年を過ごせた。そして11月には65歳、高齢者の仲間入りの連絡が届いた。震災や多くの事故を見て思い知った「生かされている」という感覚と、それに対する感謝の念で、こんな年賀状になった。
おはよう/新しい朝です/
リタイアして/世の中を見る眼が変わったのかも知れません/それともやはり大震災のせいでしょうか/生きていることに対する感謝の気持ちが強くなってきました/
昨年はイタリアを旅しました/ベネチア、トスカーナ、ポンペイ/歴史を感じる旅でした/同時に、いずれ日本もイタリアの様に、という
懸念が湧いてきました/何が幸せかも問われる時代です/
今年から新たに新しい朝に「ありがとう」/今年もよろしくお願いします/
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第49回 2011年(平成23年) 夢探しの年が・・
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| 2010年はいわばリタイア生活の基本作りの年。ゆとりある時間を如何に過ごすか、考えながらの毎日だった。それがこの年賀状に出ている。そして2011年3月11日が来た。人生観を変えさせる関東大震災。しばらくテレビばかり見ていた。それが「生きている」のではなく「生かされている」という認識。自分にとっては、まるでこの時期を狙った様な事件だった。考えていた海外旅行もせず、生き方を考えた。夏の間の、市のパソコン教室の講師を継続して、やはり社会とのコンタクトもあった方が良いと思い、登録したりもしたが、何れも「顔」を使いたいというだけで、意欲が沸くものはなかった。ただ、コンサル仲間の集まりの中から2つの小企業を紹介され、契約をすることになった。共に月に2,3回の負担で、且つこちらの持っている(特に技術的)知識に期待されたので気持ち良くスタートできた。これでまた、生活の中に新たな刺激ができた。そんな中、3男に長男が生まれた。3人目の孫。時は経っていく。このホームページは格好のボケ対策。徐々に読者も増えていった。
新しい朝のおはよう。/明けましておめでとうございます。/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います。/平素のご無沙汰をお許し下さい。/
昨年3月末に、完全にリタイアしました。38年間のサラリーマン生活に終止符を打ち、「毎日が日曜日」です。いかに多忙に生きることに酔っていたか、を思い知っています。/じっくり、読書をし、寺を巡り、ホームページに遊び、ゴルフや散歩で健康を維持し、加えてスイス・スペインなど海外旅行も楽しみました。/
典型的団塊の世代、これで良いのか、と自分に問いながらの毎日です。ただ、自由な眼で世の中を見つめ、これから何を目指して生きるか、ゆっくり考えながら生きようと思っています。/
世の中は相変わらずの変化です。くれぐれもご自愛ください。/今年もよろしくお願いいたします。/
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第48回 2010年(平成22年) 第二の人生のスタート
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| リーマンショックの最中のリタイアだった。新経営陣がスタートし、相談役として本社や千葉で過ごした。東京の女性陣達の希望でスタートした昼休憩の「塾」が楽しかった。経理の話、技術の話、英語の話など自由にやらせてもらった。噂を聞いて各工場でも特別教育で従業員と接することができた。そうして2010年の3月末、本当のリタイアとなった。時間があったので、少なくともメンタルにはリタイア後にどう生きるべきか、何をすべきかゆっくり考えた。家族の意見も様々、兎に角もっと働けという意見もあれば、もういいんじゃないの、という意見もあり、当方としては職探しもせず、まずゆっくりしようと思った。現役時f代からの知人がコンサルタント仲間の会を立ち上げたので、(当方は名ばかりなのに)その集まりに入り、新しい仲間とのコンタクトも始まった。この、ホームページを立ち上げたのもせめて社会と何らかのコンタクトがあった方が良いな、というだけのこと。それでも、外部からの刺激を貰いつつ「第二の人生」をスタートした。国内旅行や、念願のスイスやスペインの旅行も行き、「残りの人生を考えながらの時間の過ごし方」を心掛けるようになった。
新しい朝のおはよう。/明けましておめでとうございます。/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います。/平素のご無沙汰をお許し下さい。/
昨年3月末に、経営トップを降りました。激しい環境の変化の中で、会社は復活の兆しを見せ始めています。打たれ強い製品をもった業界にいたこと、いることの幸せを改めて感じた次第です。/来る4月には、新たな人生を踏み出す予定です。/初孫は満一歳になり、三男も結婚しました。家族も日々変わっていきます。/
自分より世の中の方が速いスピードで回っていると思う毎日です。一方、そんな時こそ原点に立ち返って、幸せとは、とか、いかに生きるべきか、とかを考えます。還暦を過ぎてなお、迷いつつ生きるのが、人間なのだと言い聞かせています。/
変化の中の毎日、くれぐれもご自愛ください。/今年もよろしくお願いいたします。/
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第47回 2009年(平成21年) リーマンショックの中で
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| いよいよリーマンショックの影響が現実のものとなり、2008年後半からの企業活動の落ち込み様は驚くべきものであった。「日本は何もしていない」などと言うセリフが通用する世界ではない。帰属する会社のみならず、全ての企業活動のグローバリゼーションは大きく進展していた。そんな中、2008年末の定例親会社会談で、2009年3月末の退任と後任も合意された。4月からは、再び両親会社推薦の代表取締役が夫々着任することになった。いわば、偶然転がり込んだトップのポジションだっただけに、大きな失望も執着心も無かった。ただ、最後の仕事がただただ不況対策になってしまったのは残念だった。そんな中で前年提案した「この会社の将来のあるべき姿」のプロジェクトが具体化して行きそうであったのは嬉しかった。退任準備の真っただ中、2月に前任社長が亡くなった。これはショックだった。社葬だけはやりたくなかったのに。この事件も、その後の「いかに生くべきか」という人生観に大きな影響を与えた。4月には相談役に退き、住居も千葉に戻り、東京と千葉工場に半々出勤して、若い人たち向けの塾を開いた。サラリーマン人生の終わりの準備だった。私生活では、三男が結婚した。家族の中の世代交代も進行していった。
新しい朝のおはよう。/明けましておめでとうございます。/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います。/平素のご無沙汰をお許し下さい。/
もしかしたら、とか、場合によってはなどと、有り得ないと思いながら語っていたことが、実際に起こることがあるのだな、と感じさせられる新年です。/こんな大不況が現実に起こるとは思ってもいませんでした。/でも慌てておろおろしていても何にもなりません。/自分に与えられた世界で、できることを精一杯やるしか生きる道はないのだ、と言い聞かせています。/
初孫ができました。/子供たちを抱いた時の感覚と異なる感動と幸福感を感じます。/時の流れを感じる毎日です。/
環境が変わり、時代が移っても、こうして新しい年を迎え、「おはよう」と言えることを幸せだと感じます。/
皆様もくれぐれもご自愛ください。/今年もよろしくお願いいたします。/
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第46回 2008年(平成20年) Win-Winを目指して
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| 自分のそれまでの人生そのものがそうであったと思うが、こうありたいという夢のようなものがあって、それを追い続けて具現化していった、というよりも、次々と周りから与えられる命題に精一杯取り組んでいる内に、世の中の常識で考えれば、羨まれる様な立場と仕事があった。逆に言うと、自分でがむしゃらに求めて勝ちとったと言う様な意識は毛頭なく、とにかくどう生きることが最も求められ、己の仕事なのかを(かなり冷静に)考え続ける毎日だった。日米の合弁会社ではあるが日本の親会社は伝統的日本的経営スタイルを保っている代表的企業の一つであり、とは言いながら、マジョリティーは米国親会社であった。基本的には、グローバルカンパニーを目指した経営方針だった。裏返して言えば双方に良い所がある訳で、日本の一企業としては、双方の「良い所取り」(Win-Win)ができないかと常に考えていた。2年目の2008年はいよいよリーマンショックが始まる年。徐々にその気配が近づいていた。ただ年末には翌年のリタイアが合意された。10月には初孫を得た。いよいよサラリーマンとしての次の転機も近づいていた。
新しい朝のおはよう。/明けましておめでとうございます。/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います。/平素のご無沙汰をお許し下さい。/
日々変貌する世界の中で、日本が如何に生きていくのか苦悶しているのと同様、企業として、個人として世界を相手に如何に生き残るのか問い続けています。/学んで、習って、を基本と思ってきましたが、とうとう年齢も還暦を迎えてしまいました。/ひたすら与えられた舞台で全力を尽くす毎日です。/個人の力などしれたもので、多くの人達の協力があっての毎日と改めて認識しています。/
相変わらず都内に住んで、時折千葉に帰る生活をしていますが、家族共々元気で暮らしております。/どうぞ本年も変わらぬご指導、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い致します。/
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第45回 2007年(平成19年) 企業人としてのピーク
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| 2007年1月に経営のトップに就いた。とは言っても、非上場の日米合弁会社であり、最も重要なのは両親会社・株主の意向の反映だった。顧客訪問、各サイト(工場)のラウンド、米国本社訪問など、よく動きもした。グローバルカンパニーの中でいかに日本の存在感を高めるかというのが最大の経営目標だった。そんな中、時々症状のあった狭心症対策に検診入院し、心筋梗塞手前でステントを2本入れた。わずか数日の入院で、ほんの限られた人しか知らない事件だった。責任の増大に対する対策だったとも言える。社会的に言えば人生のピークの時だろう。そうして、年齢も満60歳になった。
新しい朝のおはよう。/明けましておめでとうございます。/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います。/平素のご無沙汰をお許し下さい。/
何という時の経つ速さでしょうか。慌ただしい毎日でしょうか。そう感じる年齢です。昨年はようやく息子が一人(次男)、結婚しました。家族が増えていく喜びを味わう年齢でもあります。/
東京本社勤務もいつの間にか10年になろうとしています。企業人としての生活も残すところわずかと思っていましたが、未だ期待をして頂くところもあるようで、ますます大きな責任を感じています。世界の中で日本がいかに生き抜くかというテーマを、企業レベルでも、ひいては個人レベルでも身にしみて感じる生活です。与えられた環境で、己にできることに全力を尽くすしか他に生きる途はないと感じています。/
今年以降ますますお世話になることと思います。/今後ともよろしくお願いいたします。/
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第44回 2006年(平成18年) 会社の変化の中での己の役割は
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| 2005年にM&Aの結果としての新会社がスタートした。社名もロゴも新しくなった。その経営陣の一員として、いかにM&Aの成果を表面化するか。その毎日だった。代表権のあるトップを日米親会社が夫々指名するというルールを確立。この年賀状を書いたのは丁度その頃だった。そして2006年6月には結局米国側から指名された。日本側指名は親しい先輩であり、精神的にはこれで、少しゆっくりできるか、と期待したが、丁度その時、彼が病魔に侵された。ゆっくりどころか、ますます多忙となっていった。11月彼が闘病の為辞表を出したため、その後任選びも緊急となり、いくつかの提案も出した。12月初旬、まさかの自分自身の兼務を言い渡された。ただ、時にぶつかり合う両親会社による兼務辞令は、その狭間での苦労が認められたものと、驚きと共に小さな喜びと誇りも感じた。ゴールデンウイークには次男が赴任しているマレーシアのペナンに行き、そこで彼のフィアンセにも会った。そして10月には初めての新郎の父となった。公私ともに多忙な毎日。この頃心臓もやや疲れていたのかも知れない。
新しい朝のおはよう。/明けましておめでとうございます。/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います。/平素のご無沙汰をお許し下さい。/
買収・合併といった、世の中ではビジネスの戦争とまで言われる仕事を経験して、昨年4月に新会社をスタート、再び日本の会社に戻ってきました。生き馬の目を抜くとまで言われていても、結局は中身は人間の世界だなと、感じました。周りの人達の協力とサポートがあってこその変化だと思います。残されたサラリーマン人生を、この会社の一層の飛躍に尽くしたい、世界の中に羽ばたかせたいと、念じています。この年になると昔の友人達と会える機会が増えてくるのも不思議なものです。組織の中の人間から、再び個人に戻る時期だということでしょうか。リタイア後の夢を考え始める年齢になりました。でもまだまだと、ムチをいれる人達もいます。/
また、こうして健康で新しい年を迎えられることを嬉しく思います。/今年もどうぞよろしくお願いいたします。/
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第43回 2005年(平成17年) 会社が生まれ変わる
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| 2004年に立場はグローバルでありながら、日本のM&Aの担当となった。そして、2005年、日本の2つの子会社を一つに合併し、同時に一優良会社の一部門を吸収合併して、新しい会社として再出発することになった。責任はより大きくなり、毎日がM&Aのフォローだった。国内2工場が4工場となり、迷いながらも活気はあった。ただ、M&Aの成果は、大きくなるだけでは何にもならない。どう、その効果を顕在化させるか。次のステップに向かうプランの段階だった。合弁契約書の更新は大きな仕事だった。両親会社の表面には現れない闘いがあった。海外出張は減ったが、国内4工場を飛び歩いた。東京のマンションの一部屋を借りて、隅田川を眺めながらの生活。千葉の我が家は意外に遠かった。次男がマレーシアに短期赴任した。体に少し異変を感じ始めたのもこの頃。
新しい朝のおはよう/明けましておめでとうございます/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います/平素のご無沙汰をお許し下さい
こうして新しい年を迎える度に、昨年一年の変化を考えます。世界も、日本も、企業も、家庭もそして自分自身も、間違いなく大きく変わっていきます。でもそれと同時に、長い、地球や、人間の歴史の中での、この一年、社会人としての歩み、自分自身の一生などがいかに一瞬に過ぎないかとも感じます。/
昨年から再び、グローバルに足場を置きながら日本での事業の成功を志向する仕事に戻りました。世界の中の日本を考えながらの生活が続いています。与えられた命を精一杯生きよう。毎年の様に、今年もそう言い聞かせる朝です。/
また、こうして新しい年を迎えられることを嬉しく思います。今年もどうぞよろしくお願いいたします。/
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| 突然、今年の年賀状に跳びたい。このHPを読んで頂いているが、当方から年賀状を出していない方への挨拶も込めて。2011年は、死ぬまで忘れられない年になる。それは日本人にとって、いや人類にとって。3.11のあの津波が東北の海岸を襲うシーンは忘れられるものではない。そしてその後に続いた原発トラブルも。リタイア生活2年目にとっては、心身ともに暇にはなり得ない年だった。この年賀状にもどうしても「明けましておめでとうございます」と書けなかった。行いの良かった人も悪かった人も、神仏を信じた人も信じなかった人も、本当に誰彼の区別なく、2万人近い人が一瞬に消えた。誰が、「こうすれば免れたのに」と言えるだろうか。だから、今年のキーワードは、「生きているのではなく、生かされている」だった。とにかく、生がある間は、一所懸命生きるしかない。2011年には、ささやかなコンサルタントとして2社と契約した。誰かが自分に何かを期待してくれている。ただ、その喜びのために。3人目の孫も得て、世代が代わっていくことを実感する年でもある。
おはよう/新しい朝です/
昨年は大変な年でした/こうして新年を迎えても/心から「おめでとう」と言えない朝です/
大惨事を経てつくづく思うのは/「生きている」のではなく/「生かされている」ということ/だから、精一杯生きよう、と/
三人目の孫を得ました/孫達の成長を楽しみにしています/次の世代、その次の世代と移っていきます/
それは寂しいことではなく/やはり、とっても嬉しいことです/
今年もよろしくお願いします/
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| 2003年12月、家内の父が逝った。世界中を飛び歩いていた最中だった。サラリーマンから一念発起、画家となり努力・名を成した人だった。住む世界も違い、価値観も異なっていたが、逆にそれ故に、良く話して杯を交わした。2004年には、米国親会社の100%日本子会社の役員も命じられた。来るべき合併の準備でもあった。夏には、グローバルのリーダーから、親会社の立場から日本のM&Aを担当するという日本志向の仕事になった。英語によるコミュニケーションの限界だったのかも知れない。でも新しい仕事で、それに集中した。日本の子会社2社の一本化と、優良会社の一部門の分割合併だった。全く違った世界。学びながらではあったが、興奮した。
喪中につき年末年始のご挨拶ご遠慮申し上げます。
去る12月20日、家内の父が逝去致しました。鳥取の田舎に住み、「稲鳳」の名で主に鯉の絵を描き続けた画家で満86歳でした。今年の始めまでは元気でしたが、二度目の入院で病と年齢に勝てなかったようです。頑固一徹で気むずかしい人でしたが、全く異なる世界を生きていることもあって、よく酒を酌み交わしながら話したものです。次々と周りの人が逝ってしまう年齢になりました。与えられた人生を精一杯生きようと改めて思っています。
寒さ厳しき折からくれぐれもご自愛ください。
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第40回 2003年(平成15年) 「グローバル」に揉まれて
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| 2002年半ばに日本にいながらグローバルビジネスを担当することになって、24時間仕事の生活となった。千葉では仕事にならず、年末には、本社通勤にも海外出張にも便利な東京・箱崎にアパートを借りてもらい東京生活となった。グローバルな会議は殆ど夜。10時頃から午前2時頃が最も多かった。電話会議の英会話はとにかくストレス。今でも思い出すと冷や汗が出る。米国にも欧州にも飛び、上海は何度も通った。今振り返ってみれば、もっとゆっくり周って色んな所に行っておけば良かったと。でも、おそらく人生の中で最も走り回っていた頃だろう。週末のあいた日にも千葉に帰るより隅田川河畔を散歩していた。2003年10月には母校大学で後輩たちを前に講演、いわゆるグローバル企業への世の中の流れを話した。日本より先に世界を考えなければならない、という「浪花節」には辛いアイデンティティー。でもそれもGiven(与えられた人生)。Noということは辞めるということだと言い聞かせていた。
新しい朝のおはよう
明けましておめでとうございます。/ご家族で良い新年をお迎えのことと思います。/平素のご無沙汰をお許し下さい。/
昨年6月に米国親会社のエラストマー事業のグローバル担当となり、9月を挟んで6週間のアメリカを含め半年の内の約半分を海外出張で過ごしました。/まさかこんなことになろうとは思ってもいませんでしたが、55歳のチャレンジとなりました。/24時間世界を相手にしています。/ イタリアの「最後の晩餐」、10月のブラジルの南十字星、7,10,12月の上海の目を疑うばかりの日々の変貌ぶり、5年前を思い出すミシガンでの生活など、仕事以外の感動も味わいました。/熟年団塊の真只中にいるのを実感しますが結局できることを精一杯やるしかないと自分に言い聞かせています。/
また、こうして新しい年を迎えられることを嬉しく思います。/今年もどうぞよろしくお願いいたします。/
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第39回 2002年(平成14年) いよいよグローバルの中に
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| 2001年4月元の会社に戻ったら、今度は国際化(Globalization)の嵐。グローバルカンパニーの日本エリア担当、という立場がより一層求められるようになった。各ビジネス・インダストリーのリーダー達の訪日も多く、対応に明け暮れた。そしてこの年2002年6月には、アジア/日本の代表としてGlobal Managementの一翼を担うことになった。海外出張も増え、文化の違いを肌で感じる毎日。でも、誰かがやらねばならない仕事、世界の中で日本法人がどう生き延びるか、そのための試金石だと言い聞かせた。ただ、コミュニケーション(英語力)の問題はいかんともし難いものだった。「できることしかできない」という居直りの中で・・・秋には米国にも数週間駐在。これには家内も同行した。仮アパートだったが、快適。駐在時代を思い出す生活だった。
新しい朝のおはよう
明けましておめでとうございます。世界不況、テロ事件など21世紀の幕開けは不安をかきたてるものとなりました。でも考えてみると、世界も日本も企業も、そして我が家にも今日と同じ明日はないことを思えば自分にできることを精一杯やるしかないのかも知れません。生活も仕事環境も変化が続き、グローバリゼーションという荒波に、より一層翻弄されようとしています。 せめて新春は、今年も健康で平穏に迎えられたことを喜び、変わらないもの変えたくないものを大事にしたい。そう思っています。/ 今年もよろしくお願い致します。
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第38回 2001年(平成13年) 日米合弁会社の経営陣として
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| 2000年まで終わって、暫し時間をおいた。米国マジョリティだが日本の会社として複雑怪奇な企業経営の中にいた。印象に残ることを書くと、どうしても仕事の話になり、今の経営陣や会社にとって影響しかねない、と危惧してきた。でも、もう経営陣から離れて2年、リタイアして1年以上が経つ。2000年と言ってももう一昔前のことになる。そろそろゆっくり回想する。もう53歳。働き盛り。でも、両親会社のパワーゲームの中で、荒波に浮かぶ小舟の心境。2000年9月1日から2001年3月31日まで、きっかり6カ月。日本の親会社に逆出向。実に稀なケース。日本流の再教育だった。日本側の希望は1年、米国側は3カ月。妥協案の6カ月は一日も違わず。こんな調子だった。結論から言えば、良い勉強をさせて貰った。ただ、「こんな勉強している時か」という焦りはあったが。4月に帰ったら、今度は米国親会社の動きも急。グローバルの目で見て日本の子会社の存在が無視できなくなってきていた。いかに世界戦略の中に日本を取り込むか。本気になってきた。それだけ成功している会社だった。Integrationというと、正に牛耳る印象を与えるので、Alignmentという言葉で表現して、「一緒にやっていく」体制確立を求められた。日米関係の縮図のような毎日。でも、やりがいは感じていた。
新しい朝のおはよう
明けましておめでとうございます。21世紀の朝です。またこうして一つの区切りを無事迎えられたことを 素直に喜びたいと思います。いつのまにか夫婦二人だけの生活となりました。お盆やお正月の休みには何とかどこかへ出かけようと考えていたのに、今では家族が揃うのを楽しみにするようになりました。歳月だけは確実に過ぎていきます。そんな中でも流れに逆らうことなく、毎日を精一杯生きようと改めて思っています。 この新しい年が皆様やご家族にとって素晴らしい年になります様お祈りすると共に、変らぬご鞭撻を頂きますようお願い申し上げます。
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第37回 1990年(平成2年) エンジニアから開発に
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| '89年平成の世になって、エンジニアとしてのテリトリーが広がり、同時に親会社のグローバル活動にも参画した。ドイツ系米国人、英国人との3人のチームで世界の技術をフォローした。'89年11月ウエールズのホテルでの朝、ドイツ系米国人がベルリンの壁崩壊のニュースで非常に興奮して起きてきたのが忘れられない。世界も動いていた。鳥取で闘病中の義母が6月に逝った。良く理解してサポートしてくれた優しい人だった。そのため、'90年は年賀状はない。'90年8月、この会社で初めての部署変更。プロセス開発の仕事から、製品開発の部署担当となった。組織管理の勉強位のつもりでいたら、第一線のグループリーダーが病魔に犯され、結局一つのグループも担当、顧客回りも増えていった。勉強しながら顧客でプレゼンといった綱渡りのような毎日が続いた。ビジネスマンとしてはこれ以上無いといえる訓練の場だったと言えるかも知れない。
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第36回 1988年(昭和63年) 無我夢中の不惑
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| グローバリゼーションの嵐はまず技術面からやってきた。マジョリティをもつ親会社も日本の存在感が無視できないレベルとなり、「一緒にやっていく姿勢」を強めた。日本サイドも拡張は必要だが全てをこなす体制がある訳でなく、技術開発も技術導入もとにかく一所懸命だった。若者達も育ってきて、加えて日本の親会社からも移動があり元気な職場だった。この年'88年には2度も海外出張。冬のヨーロッパ・アメリカはきつかった。グローバル会議が増えていった。仕事、仕事の毎日。子供達も夫々の世界を広げていった。
ロンドン、ニューヨーク、東京/ 為替相場のグラフが一本の線になって/ 否応なく/ 一つの世界、世界の中の日本を感じます/
おはよう、又新しい朝を迎えました/
声変わりした長男/ サッカーボールを追う次男/ 笛と絵筆の三男/ 我が家も日々変わっていきます/
そんな中で、不惑の年の朝/ 改めて、自分を見つめ/ 時代の流れに押し流されない様/ そう云いきかせています/ 今年もよろしく/
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第35回 1987年(昭和62年) 張り切った多忙の中
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| '86末に新居に移り、'87年は張り切った正月。エンジニアとしての仕事も年々テリトリーが広がり多くを求められるようになった。視野も広がり、この年5月には2度目の海外出張。多くの聴衆を前に英語でのプレゼンテーション。忘れていた緊張感を味わった。否応無く、世界を意識せざるを得ない環境だった。長男は中学に、次男三男は団地の小学校に転校、目まぐるしく変わっていく毎日。パソコンを個人で持つようになり始めた時代。NECの9801の中古品を貰って、何とか遅れを取らないよう家でもカチャカチャやっていた。
子供たちがすこしずつ自分の世界を拡げます/
円高、現地生産、空洞化・・・/ 否応なく移りゆく世界の中の日本を感じます/ 我が家も昨年末引越しをしました/ 変わっていく毎日の中で でも/
新しい朝のすきとおった空にはえる/ 山茶花を美しいと思う心を/ 忘れたくないと思います/
おはよう/ 今年もよろしく/
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| '85年に管理職に昇格した。仕事は技術開発、ひたすら会社の伸びについていくことだった。世の中のバブルに先んじた伸長だった。息子達は揃って小学生、生活は決して楽ではなかった。が、張り切った毎日。'86年にはついでに、というか、ふと思いつきで新居購入まで。思い付きだった証拠に、2月には社宅で大きな家に引越し、12月に新居に。借金まで抱えて、よくぞ耐え切れたものだ。家内も働いていた。無謀な人生設計だったかもしれないが、勢いはあったのだろう。この時代あっての今と言えるかも知れない。個人としては周りに振り回され過ぎないようにという意識はあった。奈良の薬師寺の西塔が完成、兎に角行ってみたくて出張帰りに立ち寄って感動した。
十年ぶりでした/ 出張の帰りに/ 古都・西の京を訪ねました/ 薬師寺の西塔が輝いていました/ 改めて古代技術者の力に驚きました/
ハイテク時代といわれ/ 子供達がコンピューターに夢中になっても/ 時として思います/ 本当に私たちは進歩しているのかと/
新しい年の朝に自らにいいきかせています/ いつの時代にも大切なものを/ 見失ってはならないと/ 今年もよろしく/
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第33回 1984年(昭和59年) 新天地で燃える
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| '83-'84年は新会社で徐々に己の立位置がはっきりしてきて、仕事に酔った。会社の業績も順調で次の飛躍のためにSomething Newを求められ、研究開発本部の中のプロセス開発チームとして新技術開発に打ち込んだ。チーム設立、実験室整備、試験機購入、そのためのメーカー試験、多忙だったが刺激的だった。新入社員も増えて、若者との交流も多かった。世の中もバブル入り口。空にはスペースシャトルが飛んだ。社宅団地の中、いわば企業村。家族揃って均質化社会にいた。'84年1月、初めての米国出張、上司のカバン持ちで教育の一環。ミシガンの親会社、ケンタッキーの工場など2週間の旅。暗くて寒い旅だったが初めての海外、興奮した。英語のプレッシャーが一段と。
北西から南東の空へ/ 流れ行く一筋の光を/ 子等とベランダで追いました/ スペースシャトルが飛ぶ時代です/
おはよう/ 房総での新しい朝です/ 1984年は結婚10周年/ 三人の子は全て小学生になります/
激しく動き行く毎日に流されながら/ ふとあらわれた時のはざまに/ 変化を感じて驚くことがあります/
今年もよろしく
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第32回 1983年(昭和58年) 老けた新入社員
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| 1983年は、前年に母が逝ったために、年賀状は無し。年末の挨拶状のみ。'82年末に転勤、暫らく単身赴任。その間に2度も福井工場で1ヶ月単位の工場実習。10年のキャリアはどこへやら、全く新しい分野に放り込まれて、老けた新入社員。今、振り返れば、これが良かった。製造現場に入って、シフト勤務もやって、一から製品やプロセスを学んだ。何しろ若い伸び盛りの会社で、教育担当はキャリア一年とか半年の若者だった。実に刺激的で多くを吸収できた。それ以降も多くの中途入社や転勤者を見てきたが、それまでのキャリアを振りかざして勝負しようとする人はおおむねすぐに限界がくる。新しい舞台に立てば、キャリアで価値があるのは、「新しい舞台を早く吸収する能力。新しい舞台で周りの人達と協力できる能力。」であって、「これまでの限られた知識を使う」ことではないな、と実感した。幸いにも、分野が物凄く異なっていただけに、へたなへりくだりでは無く、心から新入社員になりきれた。アサインメントは技術開発、「お金を使うのが仕事だよ」と言われて、張り切った毎日だった。3月に家族も千葉に移って、社宅団地での生活が始まった。小学校の運動会。リレーの地区対抗は何と地区名が企業名。まるで企業対抗リレー、親の方が興奮していた。これまた新しい経験。
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第31回 1982年(昭和57年) 母逝く。二度目の転勤、千葉へ。
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| 2000年に繋がったので、再度遡って、詩の年賀状に戻りたい。'81-'82年頃は鎌倉に居ながら静岡県三島の仕事を担当した。月曜朝から金曜夕方まで三島の古い独身寮の大きな部屋に寝泊りもした。母が入院、時々大阪に見舞い、泊まった。'82年の年賀状は心配なので、年が明けるまで出さなかった。母の病室で新年を迎えた。1月29日、関連会社で発表会があり、終わった時点でメモを貰った。飛んで帰ったが、勿論死に目には会えなかった。どんな状況をも、どんな苦しみをも、吸収してしまう正に「明治生まれの日本の主婦」だった。この年の後半、2度目の転勤がきた。千葉の関連会社への出向だった。2年間という話だったが、結局退職まで勤めることになった。鎌倉のエリートの一人が左遷だと思ったらしく、「何か(悪事を)やったの?」と、真剣な眼差しで聞いたのが、忘れられない。10月に赴任、全く新しい分野での挑戦が始まった。子供達の転校のタイミングがあって、独身寮の一室を貰い、金曜夜に鎌倉に帰って、日曜夜に戻る生活が始まった。最大の不安はJVならではの英会話の必要性だった。独身寮で「ビジネス英会話の基礎の基礎」のカセットを繰り返し聞いた。何しろHow do you do?もNice to meet youもすっとはでてこないレベルだった。
おはよう
1982年の新しい朝は/ 母の病床のそばで迎えました/ 生命あることの素晴らしさと/ 肉親の血の通い合いの尊さを/ 今更に亡父の声として聞きながら
7才と、5才と、3才と、/ 三人の子供達もいつの間にか/ 個性を明白にしはじめました/ 健康で、生命に優しく育って欲しい/ そんなことを願う朝です
新年の挨拶がおくれたこと/ お許し下さい/ 今年もよろしく
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第30回 1999年(平成11年) 広い視野を求めて
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| '98年に経営陣に加わって、責任の重さを感じた。相変わらず発想は技術であり、製品ではあったが、徐々にそれがどう世の中に流れ、どう使われるのか、まだまだシーズ志向ではあったがビジネスというものを肌で感じる毎日となった。片道2時間の通勤は大変だったが、サラリーマンとしては充実していた時代だろう。
新しい朝のおはよう
明けましておめでとうございます。 日本も企業も家族もそして自分自身も、 大きな変化を感じる新年です。 でもいつも
新しい朝には、自然の営み、人と人との信じ合う心、 お互いを思いやる心、懐かしい思い出など、 変わらないもの、変わらないでいて欲しいもの、 に思いをはせます。
この新しい年が皆様やご家族にとって素晴らしい年になりますよう、祈念しています。
今年もよろしくお願い致します。
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| '97年は大変化の年だった。帰国後慌しく過ぎた。'98年の年賀状は言わば帰国の挨拶。これまでの詩や短歌調も気恥ずかしくなって、遂に文章とした。でもやはり「新しい朝」と「おはよう」。東京勤務にも次第に慣れ、経営陣の一員として全社的にものを考えることを求められるようになった。技術や製品がだんだん離れていく寂しさはあったが、一方グローバルカンパニーの中の日本いかにあるべきか、ということを常に考えることになった。
新しい朝のおはよう
明けましておめでとうございます。お元気で新年を
迎えられたこととお慶び申し上げます。平素のご無沙汰
お許し下さい。
二年三ヶ月にわたる米国駐在生活を終え、東京勤務となって
早や半年が経ちました。あまりの時間の経つ早さに驚いています。
多忙の中で、でも日本の良さ、日本語の美しさを見直しています。
本当に良い経験でした。
新年の「新しい朝」、お互いに健康でいることを喜び合う挨拶の「おはよう」、再びこの言葉の年賀状を
送れることを嬉しく思います。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
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第28回 1997年(平成9年) 米国駐在より帰国
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| コミニュケーションで悩んだ駐在だったが、周囲の暖かい目に支えられて、約束の2年目になるともう少し継続したいと思うようになった。仕事も順調でプライベートでも自由を楽しんだ。米国流バケーションを楽しむ術も覚えた。極端に言えば、バケーションも楽しめないようなビジネスマンは失格、と言ったものの見方を学んだと言っても良いかも知れない。でも、'97年6月末帰国した。帰国前に開かれた送別会は多くのエグゼクティブや仲間達が出席してくれて少なくとも駐在が失敗ではなかったと納得するに十分な嬉しいものだった。帰国したら初の東京本社勤務。技術から離れてスタッフ部門の担当。また新しい生活が始まった。片道2時間の通勤。ようやく慣れてきた11月11日、痛恨の出来事。工場で火災があり若者が一人亡くなった。非常事態の中で、ビジネスサイドのバックアップを担当した。昼夜のない状況が続いたが、それでも現場のリーダー達に比べれば精神的には楽だった、と思う。この事件で学んだことは多い。会社にとっても大きな試練だった。
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| '80年代前半まで来たので、この辺りで'90年代後半に飛ぼう。第7回で'95年の年賀状を紹介した。この年の3月に米国ミシガン州の本社に赴任した。技術面のグローバルプロジェクトを率いる、という形で、でももう一つは本社でのトレーニングのようなものだった。英語力には自信はないし、初めての経験だし、息子3人は行かないというし、結局妻が時々帰国すると言う前提での夫婦のみでの赴任となった。'95年3月20日の出発日は地下鉄サリン事件の当日。成田でもニュースが気になって仕方なかった。波乱のスタート。メスの一太郎も同じ飛行機に乗せた。それから2年。2度の真冬も含め良い経験をした。大きな住居に住んで、でも半分は一人暮らし。一太郎が相手。日本人駐在組や親しい米国人など多くの人達にお世話になった。'96年初めには家主が欧州から帰国とかで、引越しまで経験した。家内が米国にいる時は、親しい家族や、日本人出張者などと頻繁にパーティもした。少しでも、米国カルチャーに慣れようと努力もした。所属するJVのマジョリティが米国企業である限り、その方針に従い、そのカルチャーに合わせていくしかない。「ノーということは辞表を出すこと」。常にそう言い聞かせながらの毎日だった。自由競争が柱の米国企業の中では、田舎で育った技術志向の優良企業であるおかげで、米国流の良さを吸収することができた。豊かな自然も満喫、時間の使い方、価値観も学んだ。丁度会社がChapter-11に突入、日本で言えば会社更生法の適用。厳しい環境だった、と思うがおかげで、予期しない状況を身をもって学ぶこともできた。
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| 「ドラえもん」人気がはじまり、インベーダーゲームにも興じた。長男が幼稚園。出張は多かったがそれでも鎌倉に住むメリットか、湘南の明るさを楽しんだ。テーマは人工香料。作業服がいつもプンプン匂った。古都や仏像が好きだが、自分の歴史と重ねて、「一人の奈良」、「二人の京都」、「ファミリーの鎌倉」などと言い始めたのもこの頃。
阿修羅像の澄んだ眼に/ 青春の苦悩を託し/ 一人佇んだ/ 奈良の初春/
流れる疎水の辺りを/ 人の世のうたかたを知りつつ/ でも/ 二人で歩いた/ 京の初春/
そして今日/ 椿の蕾ふくらむ/ 北鎌倉の石段を/ 子等の手を引いて歩きます/
おはよう/ 歴史を思う新春です/
今年もよろしく/
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| 1978年は江ノ島に近い社宅に引っ越した。3人の子供を抱えて大変な時期。「早く所得税をちゃんと払えるようになりたい」と言って驚かれたのはこの頃の話。1979年、仕事の関係で岡山県の瀬戸内海にある小さな島にある工場に一ヶ月赴任した。たった一ヶ月なのに鎌倉に帰ったら、子供が家内の影に隠れて出てこなかった。そんな経験もあった。
オハヨウ
ボクはぬいぐるみのパンダ/ アルジは4才のトモクン/ もう穴があいて目も消えて/ それでも寝る時はいつもいっしょ/
ボクはぬいぐるみのスヌーピー/ アルジは2才のマークン/ もう体は真っ黒/ ケンカに負けたら抱いてくれます/
ボクはぬいぐるみのホワイトベアー/ アルジは9カ月のユークン/ お兄ちゃん達にとられるので/ 高い所でみています/
アルジ達はどんどん大きくなって/ アルジ達のアルジもとても元気です/
今年もよろしく
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| 1977年10月に初の転勤。名古屋から鎌倉に移った。子供が小さかったのと、妻が身重だったこともあって、一気に転居した。研究所の構内にある社宅、便利ではあったが24時間会社にいるようなものだった。すぐ裏手の丘に登ると湘南海岸が見えた。この年1978年には3月に三男が生まれ、5月には江ノ島に近いやや広い社宅に移った。歩いて海岸に行ける場所、チビ達は海を楽しんだ。仕事は研究所に落ち着くことは少なく、千葉県野田市の関係会社通いが多かった。のんびりした環境ではあったが、生活は意外に慌しかった。
子供の手をひいて/ 裏山に登りました/ はるかかなたの冬空に/ くっきりと白い富士が見えました/
少し足をのばしました/ 江の島をはさんだ海岸線は/ 走っても走っても続いていました/
そんな新しい環境で/ 新しい朝を迎えました/
湘南の空の様に明るい/ 今日の そして明日のために/
おはよう/ 今年もよろしく/
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| 体力にそれほど自信があった訳でもないが名古屋に山好きが居たこともあって、よく夏山登山をした。相変わらず奈良や京都も好きだった。76年に次男ができて落ち着いた家庭生活、と思いきや、担当していた全社プロジェクトが頓挫、急遽仕事変更。この年の夏には約20日間川崎に長期出張。横浜の高台に住んで通勤バスで通った。鎌倉の研究所の仕事の手伝いだった。そうして11月、初の転勤。名古屋から鎌倉へ。入社した時に憧れた、鎌倉の研究所へ。でも、既に専門は化学屋ではなく化工屋に変わっていた。家内のお腹には、3人目が宿っている中での転勤だった。
一陣の春風が/ 東からの風が吹くかもしれません/ 古い都から/ 琴の音が聞こえてくるかもしれません/ 静かな新しい朝です/
清流が谷間を流れ/ 複雑にからんだ松が岩山にそびえ/ 紅の空から陽がのぼり 夜空に星がきらめく/ そんな自然にとけこんだ風景が/ 全く当然のようにあることを/ うれしく幸せに思います/
昨年はいろいろのでき事にあいました/ そして今日 又 新たな幼い命を加えて/ 新しい朝の挨拶を送ります/
おはよう/ 今年もよろしく/
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| また詩の年賀状に戻ろう。1975年は第3回で書いた。ニクソンショック後の不況。でも山陽新幹線が全線開通。第一回サミットも開かれた。長男満一歳、そして76年、次男が生まれた。長良川の堤防が決壊するほどの台風が襲った翌日。家内はこの子がお腹にいる時に手術をした。後で名大学長になられるお医者さんがメス。万難を排して最新医学を信頼したいと思った。二人目の息子を得て、遠距離通勤で励んだ。郊外の新しい団地の若い家族。
チビがヨチヨチ歩きます/ そして/ 今まで気にもしなかった小さなものを/ ひとつ ひとつ 手にして確かめます/ アスファルトの道に小石をみつけ/ 芝生の中の名もない雑草に指を出し/ 坂道をうごくアリの列を/ じっとみつめています/
おはよう/ 今年の新しい朝/
わたしは また ”忘れないようにしよう”/ そういいきかせています/ やさしい 幼い心を/
今年もよろしく
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技術サービスを含む製品開発の仕事に慣れて来て、顧客訪問も楽しくなってきた頃。 46-47歳の正に働き盛り。同時に合弁会社らしさが強くなってきて、一日本企業から、世界企業の一部になりつつあった。94年にはグローバルプロジェクトのリーダーを兼務することになり翌年からの米国駐在も決まった。否応なく舞台が大きくなっていく、とにかく精一杯変化についていくしかなかった。でも心の中は、最先端のビジネスマンでありたいと同時に相変わらずの田舎者でいたい気持ちがあった。
積もる雪に 揺れる南天の赤い実 希望(ゆめ)多かりし 故郷(ふるさと)の初春(はる)
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92年の10月、我が家の生垣に子犬を捨てた人がいた。我々夫婦はペットには興味が無く、例え子供達が飼いたいと言っても無視し続けてきた。でも庭先でなく子犬とそれを飼いたがる子供達にほざされて、結局飼うことになった。無知故の「メスの一太郎」のストーリーの始まり。結局この雑種犬は米国にまで渡り、帰国して一生を終えた。僕にとっては一生忘れられない存在となった。その一太郎の初期の頃、散歩に連れて歩いた時の印象を93年の年賀状とした。ペットを飼ったことがない素人をみて笑ってくれた女性の印象。(この愛犬イッチーの物語はどこかで別途特集したい。)
軒下に住みつきし小犬 従えて 慣れぬ散歩に畑の娘(たのひと)の笑み
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91年はソ連崩壊、湾岸戦争勃発の年。日本だけはまずまず平和。92年の年賀状は日本だけこれで良いのだろうか・・と。個人的にはこの頃、新しい分野を担当し、開発業務に、顧客訪問技術サービスなどフル回転。順調な日本経済と共に毎日を過ごしていた。時として「これで良いのか」、と自分を振り返りつつ。でも走るしかない。そんな日々。
北の突風東の逆風吹き荒れて ふと忘れもの 想う新春
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ようやく第3回の昭和50年まで追いついた。この辺りでまたジャンプする。詩の年賀状から、文章の年賀状になる間に一時期だが俳句・短歌にもトライした。その第1回は平成3年。既に、千葉の住人。3人の子供達は中学、中学、高校。仕事も技術開発から製品開発・技術サービスへと移った。顧客回りが新鮮だった。'89年に義母が逝って'90年は年賀状がなかった。平成で言われても年齢も経過も計算できない。一度西暦に直さないと、何年経ったか分からない。そんな変化の中。公私共に多忙な毎日。
新しい朝 西暦で指折り 旧友(とも)の顔
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会社での最初の仕事は全社ビッグプロジェクトの一員。夢の新繊維の原料担当。合成プロセスのパイロット運転からスタートした。繊維以降は滋賀の研究所で進められた。そんな事情もあって、滋賀への出張が多かった。名古屋へ帰る途中、京都に寄って高校時代の友人と旧交を温めるのが楽しみだった。その中に今の家内がいた。人生相談の相手だった。48年に友人が恋人となり急遽結婚を決めた。式などいつでもいいやと思っていたのが、あっという間に話が進み、この年1月に挙式した。社宅には入れず、とにかく新居確保のため遠い郊外の公団住宅に申し込み、補欠で当選した。社会はベトナム戦争が終わり、ニクソンショック。インフレとストライキと。変化していく日本だった。そんな中11月には長男が生まれた。
新しい私の住居は/ 市街を見おろす高台/ 夜になると街の灯と多くの星が/ 忘れていたメルヘンを想わせます/
おはよう/ 新しい年のあいさつです/ 今年はそれと共に/ もう一つの報告を/
結婚することにしました/ 高校時代の友人と/ 会う度に云い合ってばかりいた友人が/ 何故か1月13日から僕の妻/
人生ってのは不思議だな/ それが/ 今年の新しい朝の/ もう一つのあいさつです/
今年もよろしく/
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社会人になった年、'72年については既に第2回で触れた。最初は名古屋地域の工場付属の研究所だった。丁度公害問題が騒がれだした頃、郊外の独身寮から出勤するときに何だか煙のトンネルの中に突っ込んでいくような感じもしたものだ。学生時代から山登りを覚えた。体力には自信はなかったが、兎に角北アルプスの3000メートル級の頂に立つと全てを忘れるようだった。同僚にも山仲間ができて、夏の楽しみだった。
おはよう/ 新しい空の下に/ 新しい今日が/ 又 始まります/
山の頂で空が紅に染まるのを見る時/ 古寺の甍や水煙に夕陽が沈むのを見る時/ 私は今のままの私で良いと思います/
でも 変わっていく 何故か/ 今日の私は昨日の私と違っている/
騒音とスモッグと・・・/ そんな中で/ でも ふと見いだす季節の草花に/
私は/ やはり/ 明日を信じたいのです/
今年もよろしく/
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修士課程の研究には打ち込んだ。下宿も大学のすぐ近く。「下駄を鳴らして銭湯へ・・」、自炊と、金があれば中華料理、たまには焼肉屋で一杯。化学工学科でありながら、合成実験、物性測定、大型計算機で理論物理化学、パンチカードを箱ごと抱えて京都まで通ったりもした。入社試験で、「そんなことをやって何の役に立つのですか?」と問われるような内容だった。でも自分でタイプして、恥ずかしくないような卒論が出来上がった。奈良が好きで、実験中に雪が降り出すとどうしても西の京の雪景色を見たくて、実験を止めて薬師寺へ。これまた青春の大切な時期。
古都を歩いていて/ ふと耳にする「ししおどし」の音に/ 私は生を感じます/ 人間であることの喜びを/
おはよう/ 又 この言葉を贈ります/ 新しい朝の/ 冷たい空気の中で/
おはよう/
忘れたくないのです/ 私は/ あなたは/ 人間であるということを/
今年もよろしく/
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「1970年のコンニチワ」、大阪万博の年。大学卒業。学生運動も徐々に沈静化、先鋭化した人達とノンポリ組は分かれていった。よど号ハイジャック事件。自力で修士課程に行こうとしたものだから、大変。でも育英会と企業の奨学金、加えて家庭教師のアルバイトと頑張ったので、結構良い暮らし。研究にも注力できた。バイト先が家族扱いしてくれて、69年ファミリー旅行で富士山一周。河口湖に泊まった。白樺の模様と美しさに打たれた。
おはよう/ 新しい朝の白樺は/ 寂しくて不似合いでしょうか/
でも昨年はがれたその皮は/ 今日も又縞の模様をさらしたまま/
でも/ この静寂を私は好みます/ 新しい朝の静寂を/
白樺は22年間生きてたら/ 一体どれだけの縞を/ その体につけるのでしょうか/
そして又/ 一体何年その美を保つのでしょうか/ 永遠は果して/ 美や力を持つのでしょうか/
おはよう/ 今日 又 おはよう/ 今年もよろしく
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一応大学入学まで行ったので、この辺りで年賀状に戻る。ランダムに一年毎振り返ってみたい。まずは、2枚目の「新しい朝のおはよう」。大学3年生の正月。通学時間が長く前年3年生の秋から下宿を始めた。アルバイトの家庭教師は忙しかった。アルバイト先に可愛がってもらった。この年4年生になった。就職か進学(修士課程)で迷った。研究は好きだったが、かといってそれほど能力に自信があったわけでもない。加えていよいよ学生紛争。ノンポリではあったが、学生集会は続き、封鎖騒ぎもあった。封鎖されてる間は、色んな場所で、講義や試験や研究室の雑誌会などがあった。結局企業の奨学金をもらうことで修士課程を受験した。振り返ってみるとそれはそれなりに刺激的青春。年末、ついに機動隊が入った。実験室を守るため逆封鎖側だった。
聞こえますか新しい年の息吹きが/ 見えますか新しい年の歩みが/
又来ました/街にも村にも/山にも海にも/新しい朝が/
”おめでとう”かな ”賀正”かな/ いろいろ考えて今年もやっぱり/ ”おはよう”
僕の人生はいま21年目を歩いています/ 判らないこといっぱいの路を/
大阪駅のホームで/小さな子が泣いていました/知らんぷりで通りました/
そんなことをとっても淋しく思います/ 今年もよろしく/
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高血圧で一年早く定年退職した父は、子供達と一緒に住むという夢のため昭和40年は泉南岸和田に家を建てることにし、長期に上阪しては幸せな毎日を送っていた。その間僕は田舎で借家を代わりながらやはりできれば関西の大学に行きたい思っていた。昭和41年2月5日、高校三年生の授業が全て終わり、建築中の岸和田の新居に出てきて最後の受験勉強に入った。経済的な理由から私立大の可能性はなく、岸和田から通える一期校と九州の二期校の二つのみ願書を出した。そして一週間経った12日、階下から父の声「やられたみたいだ」。脳溢血で倒れた、14日にはあっけなく逝った。病院に行く暇さえなかった。目の前で起こった出来事。15日葬儀、19日初七日、あっという間に時間が過ぎ、入試は3月3,4,5日。長兄が予約してくれた小さな宿に泊まって受験した。2日目の数学、試験中に夜のように真っ暗になって雷雨、出来が悪くて宿に帰って泣いた。あの時の天井の模様は強烈な印象。駄目だと思った。入試が終わったらすぐに鳥取へ、卒業式と最終的引越し。何とも慌しい時期。10日の卒業式では答辞を読んだ。時期が時期だけに感傷的な答辞だったが泣かずには済んだ。13日には岸和田に帰った。兄達は「こんな事が起こったのだから、一期がだめでも、二期校の受験は止めろ。一年位の浪人生活は自分達で何とかするから」と言ってくれた。そして17日には合否発表。長兄が一緒に行ってくれた。多くの人達で異様な雰囲気のなか、一次志望の合成化学科の発表、受験番号は無かった。そして三次志望の制御工学科、これにも無かった。その時、余りの人ごみで発表作業は中断、諦めていたので長兄に「帰ろう」と言うが、「待て待て俺が見てくる」と、準備作業中の係員の中に潜り込んで、「アッタゾー!!」。何と二次志望の化学工学科に合格していた。あとで分かったことだか、最低点から二点差だった。いやはや信じられない出来事。亡き父の霊の力だったか。結局人生で大学入試というものを一回しか経験できなかった、いや、しなくて済んだ。雲の上を歩いているような、一ヶ月だった。この一ヶ月が人生を決めた、と、言わざるを得ない。こうして大学生活が始まった。
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第11回 1963年(昭和38年)〜1966年(昭和41年)[高校生時代]
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高校は一気に遠くなって、国鉄に30分以上乗らねばならず、かつ本数は非常に限られていた。自転車で駅まで、その後ディゼルカー、降りて徒歩、片道2時間はかかったろう。何しろ学区の中に普通課のある高校は一校のみ、選択の余地はなかった。おかげで高校受験の悩みはなかった。田舎中学で優等生と思っていてもいざ高校に行けば、まだまだ上がいっぱいいて、それで次第にやる気になった。周りからみると「山奥のガリベン君」といったイメージだったようだ。確かに通学列車の中ではいつも参考書を広げていた。そうは言っても田んぼと緑の中で、のんびりとした高校生活だった。運動会の仮装行列などに夢中になった。一年三組の同級生に今の家内がいた。まさか結婚することになろうとは、勿論知る由もない。国道の拡張工事に我が家があたってしまい、引越しをせざるを得なくなった。その機に父は早期リタイア、兄達の住む大阪に家を建てる決心をした。おかげで、高校生後半に2回も引越し、仮住まいで受験勉強をした。心は家族で大阪に住むことにあった。高校も地方区、全国区の大学はどこを受けても「合格率50%」と言われた。色んな模擬試験は受けていたけれど、塾も予備校もない世界の話だから志望校決定もいい加減だった。そして、転機の年、昭和41年がやってきた。
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第10回 1954年(昭和29年)〜1963年(昭和38年)[小中学生時代]
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小学校は歩いて通える距離。校庭の真ん中に大きな松の木があった。とっくになくなった木造の校舎だった。普通の小学生だったと思うが、5年生の時に人生を変えたかも知れない「いじめ」に合った。PTA会長の息子がボスの座を築いた。教師の息子が少し勉強ができたのがいじめの理由。女の子ばかりの教室に一人取り残されて、「おんなのなーかに、おとこがひーとり、やれはずかしや」とからかわれた。この男子達の合唱の節回しは今でも唄える。だんだんエスカレートして、盗み(をさせられる)事件になり、はては暴力事件。顔が青アザになった時点で、親の世界の問題になった。当時の通信簿には、「分かっていても発言しようとしない。どんどん成績が落ちていく。」とあった。一人の教師に救われた。「腕白でも良い。たくましく育って欲しい。」とか、「少し位いたずらで育ったほうが、大人になったら使い物になる。」などの意見もあるが、僕がどうしても最後に引っかかるのは、その「使い物になる腕白」の陰に、いじめられて「使い物にならなくなった子」がいる可能性である。子供だって悩んでいることがある。その時、誰がそれを発見できるか。 そして中学生。三つの小さな中学が一緒になって大きな中学校になった。一、二年は今はなき南因校舎という学校に行き、三年では合同智頭中学に行った。運行の少ないバスで、多分一時間位の通学だった。その合併中学の初代校長が父だった。「校長の息子だから」という制約が常について回った。先生達の見る目にも違ったものがあったろう。父が初めて大阪旅行に連れて出た。その時の句は忘れない。「初旅の子が注文すソーダ水」、初めての都会をみた刺激。 卓球と弁論に明け暮れた。卓球は郡の大会が精一杯。でも弁論は鳥取県で3位、論文は中国地方でも表彰された。「田舎の良く出来る子」の時代であった。世の中も高度成長時代へと走り出した。父と一緒に近所の家にテレビを見せてもらいに行ったものだ。
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第9回 1947年(昭和22年)〜1954年(昭和29年)[誕生から入学]
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年賀状は無いが、この辺りで大学生までの思い出をランダムに綴ってみたい。まずは、生まれ故郷、鳥取県、と幼児時代。 今でも、鳥取と島根を間違う人がいる位、全国区から見ればマイナーな県で生まれた。場所は八頭郡智頭町大字埴師。丁度鳥取と岡山を結んだ中間点、中国山地のど真ん中。東の山と西の山の間に、川(智頭川)と、道路と鉄道が三つ並んで走っていて、東西の間隔は数キロメートルしかない谷間だった。鳥取から因美線(因幡と美作を結ぶ)で約一時間。当時は(当然)SLが走っていた。道路は勿論舗装はなく、自動車などほとんど走らない。時々材木を運ぶ馬車が我が家の前を通っていた。父は教師、母も結婚するまでは教師。詳しくは知らないが、当時では考えられない大恋愛の末の結婚とか。確かに母は父より8歳も年上で、二人ともペスタロッチを信奉する独身主義教育者同士の恋愛だったらしい。昭和の始め、当然、結婚は反対され、父が東京で再度勉強したいとのことで、東京に出てきて結婚生活に入った。そこで長兄が生まれた。昭和10年のこと。もし戦争が無かったら、我々家族は江戸っ子になっていたかも知れない。戦争で、故郷鳥取に帰ってきた。僕が生まれたのは勿論その後の話。父の実家は農家。所謂分家として最終的に認められ、父は農林高校、小学校、そして中学校の教師を勤めた。僕が小学校に入学する頃など、上に兄が3人、姉が1人の、正に貧しい生活だったはずだが、特に飢えた覚えが無いところをみると、世の中の一般の団塊の世代同様、「当たり前」の生活だったのだと思う。ただ、母は良く働いていた。近所の結婚前の女性達が習い事に来ていた。和裁が専門だったが、日本刺繍、お茶、お花、など嫁入り前の塾の様なものだったのだろう。遅くなって生まれた僕は、そんな生徒さん達のアイドルだった。邪魔にならないよう叱られながら、よくお姉さん達に可愛がってもらった。田舎だから幼稚園というものはない。だから「最低学歴」という言い方があるとすれば、僕のそれは小学校。農繁期にのみ、小学校を使って託児所というものが開かれて母はそこでもお手伝いをしていた。ガスは勿論、電気も暗い裸電球、水道も無かった。でも、おそらく平和な田舎の生活だったのだろう。
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1995年から1997年までの2年3ヶ月、米国ミシガン州の親会社に駐在した。子供3人は日本に残し妻は行ったり来たり。大きな家には住んだが、華氏零度に近い寒い冬、静かな雪の中で一人ボーっと過ごした日々を思い出す。1997年に帰国したら、初の東京本社勤務。片道2時間の通勤、それなりの多忙な毎日。50歳代前半の最も働き盛りの頃。所謂グローバリゼーションの波が次々と襲ってきて、自らのアイデンティティを問う毎日。年賀状は、1998年から詩も句も止めて、メッセージ形式に変えた。何だか子供っぽく思えて。でも、結局は詩的な文章。幼いけど、正直
新しい朝のおはよう
明けましておめでとうございます。/ 子供の頃、西暦2000年を考えたことがあります。/ その頃予想した世界と日本と自分自身と/ 大きく異なる様にも思います。でも、こうして、/ 平和の中で健康で現実に迎えることができるのを/ 嬉しいと思います。 変わることなく続いてる自然の中で、/ 変化していく社会と人間を想い、流れに従順であればよい、/ 今を精一杯生きよう。あらためてそう思います。/ この記念すべき年が皆様やご家族にとって素晴らしい年になります様/ 祈念すると共に変らぬ指導ご鞭撻を賜りますようお願い致します。/
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1989年に義母が逝って1990年の年賀状はなし、その頃から詩の形式が気恥ずかしくなってきて、1991年に俳句に、1992年から短歌(川柳)に変えた。この年、1995年は3月からの米国駐在が決まっていた。前年11月から下見を兼ねて、5週間単身でアパートに住んだ。その時の感想。とにかく冬は寒い地域。単身の寂しさと、翌年から始まる駐在生活に対する期待、やる気。
この年の年賀状がなかなか見つからず、今回このホームページを始めたことで、「全部持ってますよ」という人が現れて、ここに載せることができた。
ミシガンの単身アパートの誕生日
目覚める子からの 祝いの電話
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我が家で仲間と新年会を計画していて、昭和天皇の訃報が入った。少し迷ったが、予定通り集まって、時代を語った。世の中の移り変わりを実感した年。外資系らしさが益々強くなり、英語で悩む毎日。仕事の視点も対象も仲間も・・どんどん世界に広がっていった。こんなはずではなかったのに、などと思いながら、でも出来るだけの努力を続けた。アメリカ人とプライベートな付き合いさえするようになった。
グローバリゼーションの時代です/ 街中に輸入品が溢れ/ 世界中の出来事が時々刻々と報道され/ 昼となく夜となく世の中が移っていきます/
昨年は初めて我が家にも/ アメリカ人の来客がありました/ 世界がどんどん身近になってきます/
おはよう、元気に新しい朝を迎えました/ 否応なく世界に巻き込まれても/ でも私は/ 春の花、夏の風、秋の紅葉、冬の雪/ 日本の、故郷の四季と自然が好きです/
今年もよろしく/
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S57年に母が逝き、千葉に転勤、転機の年だった。関係合弁会社への転勤だったが、どこに行こうと周りから言われるほどの落ち込みはなかった。ただ外資系であったが故の英語コンプレックスが悩みの種。実際、移ってみれば外人上司に紹介されるわ、英語の書類はいっぱいあるわ・・エライ所にきてしまった、というのが本音。でも言い換えれば毎日が変化、エキサイティングだった。S59年には初めての海外出張。規模は小さいけれど、若い会社で、全てがチャレンジ、張り合いのある毎日だった。
地球の裏側から/ 夜、電話しました/ 子供達がでて/「今、朝だよ!」/ そんなあたりまえのことを/ とても不思議に思いました/ おはよう/
あふれるような情報の中で/ でも 新しいこと、不思議なことに/ いつまでも感度を保っていたい/ そんなことを思う/ 新しい朝です/ 今年もよろしく/
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S51年に次男が生まれ、S52年に鎌倉に転勤。S53年には三男が生まれた。社宅生活、経済的には苦しかった。当時社宅仲間の似たような環境の数家族で時々パーティをやった。「早くちゃんと所得税を払って、社会への貢献を実感したい。」と言って、皆から総スカンを食った。皆いかに税金を減らすか、いかに税金が無駄に使われているか、それが関心事だったのに。僕は暫らくの間、所得税ゼロが続いた。生きがい論に繋がる話だった。 社宅に大きな銀杏の木があった。子供達がその周りで遊んでいた。この年賀状の詩は、かなりのお気に入りの一枚。社会性が問われる年になるほど、こんな幼い心が大切になってくるのかも知れない。
大きな銀杏の木があります/ 小さなかわいい新芽をつけて/ 緑々とした若葉になって/ 枝いっぱいに実をつけて/ そして また 黄葉/
黄金色にかがやく落葉を/ 輪ゴムでたばねて柄をつけて/ 魔法のホーキができました/
チチンプイプイ/ よい年になりますように/
おはよう/ 今年もよろしく/
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この前の年、49年1月に結婚、11月には長男が生まれた。会社の社宅は一杯で入れず、片道2時間もかかるニュータウンに応募し、当選した。ぎりぎり間に合った。毎日毎日の変化の中で、でも次々と起こる新しい何かに興奮していた。与えれた環境で精一杯頑張る。それしかないと思う単純な人生観。会社での責任はまだまだでも、人間としては、徐々に増えていく毎日。
昔の想い出をさぐるような目/ 新しい何かをさがしているような目/ のぞきこむ目と目に話しかけるような目/ 新しい命はいろんな目をみせてくれます/
おはよう/ 今年の新しい朝は/ 三人で迎えています/
妙に騒々しい世の中/ 信じることにとまどいがちな世の中/ 内に内にと目のいく世の中/
でも 今 疑うことを知らない目を前に/ やはり自らに忠実に生きよう/ そう誓っている朝です/ 今年もよろしく
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就職の年。前年、就職試験も遅らせて、やりたい仕事探しを続けた。でも結局まず「自力で生きる」ことを優先順位第一に、就職を決めた。就職先は安易に奨学金を貰っていた会社に。今の若者達の様に「就活(会社めぐり)」に励んだ覚えはない。ただ、サラリーマン大先輩の兄が、「会社という場所に入ったら、Noということは辞表を出すことだ、と心しろ。それはどこの会社でも同じだ。」と教えた。そこから始まった。 さて社会人というその年の年賀状にこのような文章を書いた。「物質と名誉と・・」の部分は卒業時に物議を醸した。学問にかける人達からすれば、「それなら、なぜ就職するのだ?」という疑問だったのだろう。僕の言いたかったのは大学の中の権威主義だったのだが。 故郷の景色の中で、雪の中の南天の赤い実は強烈。パサパサっと雪が落ちて赤い実が揺れた。今でも、やはり同じ風景があるのだろう。もう一度見てみたい。
おはよう/ 音が聞こえます/ 雪の降る音が/ 真っ白なのです/ 何もかもが/ 目に鮮やかなのです/ 南天の赤い実が/ 今 私は/ 故郷の冬を想います/ 忘れようとしている/ 大切なものを/ 物質と名誉と地位と/ そんなものに汚れるのが/ 人間の成長であるなら/私は全てを捨てましょう/ たった一つだけ/ あの幼い心を残して/ 今年もよろしく/
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初めて「詩の年賀状: 新しい朝のおはよう」を書いた。大学2年生。印刷する術もなく、小さな字で年賀状一杯に書き込んだ。青春真っ只中。兄の家から片道2時間かけて通学。家庭教師のアルバイトと奨学金で生活。学生運動が高まり、大学が荒れ始めた。ノンポリ族でありながら、日々悩んでいた。でも、この気負いはどこから来ていたのか。青いけれど、可愛い。
おはよう/ 新しい年の朝です/ 止まることのない宇宙の年表の/ ホラ/ 新しい頁がまた開きました/
人間の歴史はやっと今日を迎えました/ 果てしない旅の/ ホラ/ やっと 今日を/
激動する世界 刻々と変わる国々/ そして時には底知れぬ焦燥感と/ じっとしておれない危機感に/ とらわれながらも/ でも元禄調のホンワカムードの中に/ 日々のあくせくした生活を送る/ 人間・日本人/
その中に私は又新しい一歩を/ 踏み出します/ 新しい年に思うのです/ ”止まっちゃいけない”って/ 個々が無視される世の中/ ”一人”なんてない世の中/ その中で自分をよくみつめ/ そして明日への夢を抱くことは/ 大変なことだと思います/
でも私はそうありたい/ せめて昨年よりも良い今年を/ そう思うのです/
真実を追求するにしても/ 美を追求するにしても/ たとえそれが/ 過去のものを題材にしてであっても/ 必ず前向きでなくちゃならない/
人間がその歩みを止めた時/ 人間が後ろに歩みだした時/ そこには/ 人間の、国の、世界の滅亡がある/
新しい年の朝 改めて思います/ 人間は歩いていなくちゃならない/ 前に、前に、前にと/
私は故郷が好きです/ 私は日本が好きです/ でもそれよりも もっと もっと/ 世界が宇宙が人間が/ 好きなんです/
現在の偽りの幸せな世が/ 真の幸せとなって/ 貴方に日本に世界に拡がることを/ 新しい陽の光の中で 願うのです/
今年もよろしく/
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