Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第56夜

いつもあなたが




 またまた文法の話である。今日は、
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じはつ【自発】(名) (1) 自分から進んですること。(2) 文法で、意志と関係なく、
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しぜんに、ある状態になること。自然可能。「故郷のことが思われる」の「れる」
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など。(*1)
 というような話をしてみようと思う。


 「さる」という助動詞がある。
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 「この万年筆、きれいに書がさるな(この万年筆はきれいに書けるな)」とか、「朝か
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ら晩まで働けば、かさってや
(朝から晩まで働くと、たくさん食べてしまうんだよなぁ。
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『か』は『食う』の未然形)」といった風に使う。
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 意味は、勿論「本人の意思とは無関係に自然にそうなってしまう」ということである。
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 前者の例で言えば、書く動作をしているのは人間だが、実際に上手く書けるかどう
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かは万年筆次第であって、人間の意思とは無関係である。
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 後者は、一日中、真面目に働くとおなかが空いて、本人が思っている以上に食べて
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しまう、ということだ。
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 他には、ダイレクトメールなんてのは「届かさる」ものであるし、非常に面白い本や軽
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い雑誌なんてのはどんどんと「読まさる」ものだ。
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 応用例で、掲示板を指して「こごさ『落書き厳禁』って書がさってらべ」と言ったりする。
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今、怒っている人が書いたわけではないのである。
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 注意するべきは、本来は意図的に行うものである動詞にしかつかない、ということか。
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考えてみれば当たり前だが、「出てくる」とか「あふれる」というような、黙っててもそうな
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る、という動詞には「さる」はつかない。
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 この「さる」は津軽・南部など北東北全域で使用する。


 標準語でも古語でも「れる」や「られる」が自発の助動詞ということになっている。上の
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「思い出さ-れる」なんてのがその例だが、置き換え可能でないところを見ると、形の違
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う同じ言葉というわけではないようだ。「この万年筆はきれいに書かれるねぇ」は不自然
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だし、「おなかが空いていくらでも食われるねぇ」は明らかにおかしい。
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 もう1歩進めれば、こういう言い方自体をしないのだと思われる。「この万年筆はきれ
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いに書ける」「いくらでも食べられる」と可能の形で表現する方が自然だ。
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 他にも「れる/られる」の例を考えてみたのだが、「しのばれる」位しか思い浮かばな
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い。辞書(*2)には、「心情的な表現に用いられることが多い」とある。
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 どうやら「れる/られる」は、「さる」とは違って、「自然にそうなってしまう」という側面も
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持つ動詞にくっつけて、「意図的にやったのではない」ということを強調するのに使われ
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る助動詞のようだ。
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 また、「さる」の場合、行為主体と結果に影響を及ぼすものとが同一でない、という特徴
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もあるようだ。「上手く書かさる万年筆」「黙ってでも届かさるダイレクトメール」などがいい
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例であろう。書いているのは人間だが、その結果は万年筆に依存する。問題になってい
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るのはダイレクトメールだが、送ってよこすのは他の人間。「食(か)さる」「読まさる」の場
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合は、食べよう(読もう)としている自分と、食べている(読んでいる)自分とを別に捉えて
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いると考えられるのではないか。「かさる」では「へぇ、俺はこんなに食ったのか」と感心す
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ることができる。


 というわけで、「さる」という、「標準語に無くて、秋田弁にある助動詞」、一件落着である。
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非常に珍しい例と言える。
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 今気づいたのだが、「自発」の意味の、(1) と (2) は、本人の意思が働いているかどうか、と
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いう点で全く反対なのだな。
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 やはり、文法はわかりにくい。



*1:『講談社学術文庫 国語辞典(初版)』(1979)
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*2:『大辞林(初版)』(1989) 三省堂




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第57夜「歳末に秋田弁を考える」

shuno@sam.hi-ho.ne.jp