突然ではあるが、たまたま読み返す機会があったので、35 年前の本を取り上げる。水上勉の『
土を喰う日々 - わが精進十二ヵ月 -』である。
高校三年生の頃、おそらく新聞広告を見たのだと思うのだが、この本に興味を持った。だが、受験の真っ最中である。買うのは受験が終わってからにしよう、と我慢することにした。
ある時、模擬試験を受けていたら、国語の長文読解で、随分と自分の嗜好に合う文章が取り上げられていた。ん? と思いながら読んでいったら、それはどうやら『土を喰う日々』の一部のようだった。
「先を越された」
真っ先にそう思った。
まぁ、俺が見た広告が文庫の広告だ、ということは、単行本が出たのはそれより前、しかもこれは雑誌連載をまとめたものだから、文章自体が世に出たのはもっと前で、先を越されるもなにもないのだが
*1、読みたいけど我慢しよう、と思った矢先に、我慢の原因である試験に出たのだから、その腹立たしさったらない。次の休みに本屋に行って買ってやった。しかも、読んだ。元が連載だから一回分はそれほど長くない、勉強そっちのけ、とはならなかったので、浪人せずに済んだ。
今回、それを本棚から引っ張り出して読み返してみて、確かに面白いとは思ったのだが、高校生の自分がどこに興味を持ったのかは我ながらわからない。もちろん、出題されたのがどこだったかなど覚えていない。
これはエッセイで、この時の水上勉は軽井沢に住んでいる。この人は昔、寺の小僧さんだったことがあり、台所を任されていたため、料理のやり方を心得ている。軽井沢でも、自分の畑で作ったものや山の幸などを料理して客にふるまったりしている。
大久保恒次の『うまいもの歳時記』から、鹿児島でのタケノコの呼び方について触れている。旨い順に、
デミョ、
コサン、
カラ、
モソなのだそうだが、それぞれ、寒山竹で「大名」、布袋竹で「小桟」、
ハチクは「淡竹」と書き、最後は孟宗竹である。この辺は、例えば
鹿児島の竹などに詳しい。
「
りこぼう」というキノコが出て来る。ハナイグチというのが標準和名らしく、Wikipedia の
記事を読むと「
ジコボウ」「
ラクヨウ」「
イグチ」などの俚言形があることがわかる。
「
山くじら」という料理が紹介される。ググると、イノシシの肉の隠語らしいことがわかる。島根の美郷町はこれで
押してるらしい。
が、このエッセイでは「こんにゃくの刺身」を指している。おそらくその辺りの方言ということになるのだろう。群馬県下仁田町の業者がこの名前でこんにゃくの刺身を
売っているようだ。
ちょっと方言から離れて興味深い表現を紹介する。
大根の料理で油揚げと煮たものについて、「土の味が大根にしみて微妙だ」としている。これは、美味だ、と言っているのだが、若い人には理解できないだろう。
デジタル大辞泉は「趣深く、何ともいえない美しさや味わいがあること」を第一の語義に挙げている。
栗をご飯や小豆と合わせたときの味わいがどうしてできるのかについて「めしと小豆にきいてみなければならぬが、彼女たちの会話をきく耳をもたぬことが不幸である」と言っているが、この「彼女たち」はめしと小豆のことを指している。「彼ら」ではないところが面白い。
ところで、この本を読み返したのは、本について文章を書け、という依頼があったからである。
依頼主である
苦楽堂の社主は、多くの若者と話をするうち、若者が本を読まないと言われるが、それは、例えば学校の課題図書などで一冊目との接点はあるが、それを読み終わった後、どうしたら二冊目と出会えるのかがわからなくて戸惑っているのだ、と考えた。本を読む者は、その方法や例を示さなければならない、と出版されたのが『
次の本へ』である。「ある本を読んで、それに影響を受けて別の本を手に取った、という経験」というのが主たるテーマだが、錚々たるメンバーによる、色々な切り口からの深い文章、味わいのある文章、楽しい文章が並んでいる。
評判が良かったようで、このたび『
続・次の本へ』が出版された。それに俺の文章も載せていただいている。
この『土を喰う日々』のエピソードは、本との出会いという点では面白いと思うのだが、残念ながらほかの本との接点にはなっていないので、下書きの段階で没にした。
結局、どういう話を書いたのかは本を手に取っていただくことにする。“shuno”というハンドルは使っていないので、全部読まないとどれかはわからない、ということになっている。俺の文章はともかく、読み通す価値がある本だということは請け合う。
*1
「ミセス」での連載と、それが単行本になったのは 1978 年、手元の新潮文庫は 1982 年。(↑)
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