「
のんびり」という冊子から借りた話、後編。
よく見たら、表紙に「あきたびじ
ょん」って書いてある。奥付にも、「『あきたびじ
ょん』マガジン等企画制作業務委託により製作しています」とある。
県が作っているわけではないようだが、県の業務ではあるようだ。
それを言うと、これが置いてあった
みやざきアートセンターというのは、宮崎市の中央街区活性化を目的に作られたものらしい。事情はいずこも同じ、ということか。急にさびしく思えてきた。
さて、遠藤熊吉の話。
小学校の生徒たちは、バイリンガルとして認められると「ことば先生」という称号を与えられて、下級生を教える立場になる。その面上に書かれている言葉は以下のとおりである。
いつもひっかかるんだよな。「正しい言葉」「美しい言葉」「良い言葉」って何。
でも、今回、この特集を読んで思ったのだが、明治から大正にかけての時代、「標準語も秋田弁もいい」ということを表現する手法がなかった、ってことなのかもしれない。
今なら、この一言で済む考え方は、その当時はまったく通らなかっただろうと思う。それを訴えようとしても、それを表現できない。「正しい言葉」「良い言葉」は苦心の結果だったのではないだろうか。
そうとでも考えないと、標準語イコール正しい言葉としか読めないんだよね、この免状の表現。
遠藤熊吉はかなりの近視だったらしく、畦道を自転車で走ってて水路に落ちてしまったりしたこともあるらしい。その時、「
ひゃっこい」と叫んだ、というエピソードは面白い。確かに、方言は肉体の言語であるようだ。
編集部一同は、秋田弁らしい表現として「
なんも」を推している。お礼を言われた時の、「いえいえ、どうしたしまして」に相当する表現である。「
なんもなんも」と繰り返したりする。ここに、ハートウォーミングな要素を見ているようだ。
あるいは、単に相手の言うことを否定するだけの場合もある。「
ゆんべだば のぎしで 寝らいねがったなー (昨夜は暑くて寝られなかったなー)」「
おらだば なんもだ (俺は別に)」という具合。
方言集が紹介していない、と言っているが、『語源探求』にも『秋田のことば』にも載っている。
こばやしたけし氏の「秋田弁! 単語カード」あたりにもあったような気がするんだが、現物が手元にないので確認できない。
もうちょっと丁寧に言おうとして、「
なにも」と標準語形を使うことがあるが、ひょっとしたらこれ、「気付かない方言」なのかもしれない。だって、標準語ではこういうときに「なにも」って言わないもの。長い表現、「いえいえ、なにもそう高価なものでもありませんので、お納めください」とかいう形では出てくるけど、「なにも」単体では使われない。語形の問題ではない、ということ。
編集部の中に大阪の人がいて、「
かまへん」に似てるかもしれない、と言う。が、「
かまへん」は自分と同レベル、または下の人間に使う言葉であって、目上の人には使えない、そこが「
なんも」とは違う、とのことだが、「
なんも」も目上の人には使えないと思う。感情が強くのってて、「
なんもなんもなんもなんも」と繰り返す場合は別として、普通は「
なんもだす」とか言わないといけないんじゃないかな。
このことは記事中にもあるが、「
かまへん」に対応するのが「
なんも」である、ってことを忘れた展開になってるような気がする。
大阪弁では目上の人になんて言うんだろう。「
かまへん」の変形ではないような気がする。「
かましまへん」? なんか急に京都弁の雰囲気が出てくるんだけども。
冊子は後半、秋田県内の「うどん」の小特集がある。
能代うどんは、親が能代に仕事で行ったときなんかに買ったのをもらうことがある。本荘うどん、象潟うどんってのもあるんだね。
さて、スマホだが、電池が三日持つ、ってことを売りにしてるのに大いに呆れた。たった三日だよ、たった。
俺の基準では、それって欠陥商品。