今回は
稲泉連氏の『
命をつないだ道 東北・国道 45 号線を行く』。タイトルの通り、45 号線とその周囲の道路をつなげようとした人たちについての本。
ここまで何度か「英断」ということばを使ってきたが、これもその連続。
というより、はっきり「違反」「違法」という言葉も使われている。
当然である。先週、公務員の活動は法律に根拠がある、と書いたが、公共財である道路も同様に法律・所管官庁や自治体からの指示などが根拠になっている。自由に作ったりルートを変更したりできない。
ところが、震災でその体系が機能しなくなった。孤立した集落があちこちにあり、行政が復旧して指示を出すのを待っていられない。
そこで現地の建設業者は、道路を勝手に作るのである。
これは「部分最適」が同時多発的に起こったもの、という気がする。
「部分最適」というのは、文字通り、「最適」と考えられる範囲が一部分に限られるもので、「全体最適」というのは全体を見渡して最適だと考えられる状態を指す。全体を個の集合と考えれば、部分最適を積み重ねたら全体最適になりそうなものだが、普通はそうはならない。
たとえば、会社の部署Aが取引先との間で使用する伝票の書式を整理したとする。これまで、「支払期日」と「実際に支払われた日」という欄があったが、意味がないと考えて「実際に支払われた日」をなくした。
その会社の別の部署Bが、その伝票を利用しようと考えたが、部署Bの取引では「実際に支払われた日」が重要な意味を持つので、その伝票は使えないことが分かった、というケース。これなんかは「部分最適」である。
*1
AとBで共通に使える伝票を用意するんだとすれば、「実際に支払われた日」の欄は必要だが、部署Aから見れば無駄な領域である。「全体最適」もまた「部分最適」を満たさないことが多い。
で、道路の話に戻ると、このとき、「全体」を見て判断することができる人がいなかった。したがって、その現場で最適と思われることを判断してやるしかなかった。そしてそれは確かに機能し、孤立した集落の人々が助かった。つまり、「部分最適」を追及したことがよい結果を生む状況だったわけだ。あるいは、地域が分断されてしまって「全体」がなくなり、「部分」イコール「全体」だった、という言い方もできるのかもしれない。
この本には、見たことのない単語がいろいろと出てくる。
・現道
「新道」「旧道」と比較するとなんとなくわかったような気になるが、なんか人によって微妙に意味が違う。
・片寄波
浪板海岸では、寄せてきた波が荒い砂に吸い込まれてしまうため、引く波がないそうである。
・道を通行可能にすることを示す単語いくつか
「開放」は、文字通りで、土砂などがふさいでしまったりした道を通れるようにすること。
「道を開く」も文字通りだが、普段、耳にすることがないので面白い。
「啓開」は専門用語らしい。どちらも「ひらく」という字である。水路に使う語だ、という
説明もある。
「道を抜く」は山道を通れるようにしたときのことを書いてる章で出てきた語だが、感覚的によくわかる。
・修理かける
ちょっとググってみたのだが、単なる俗語表現なのか、俚言なのか確認できなかった。
「メーカーに修理かける」という言い方も結構あり、修理を依頼する相手を伴う、というのが「修理する」との違いなのかもしれない、という気もする。
来週、MTB の
レースに参加するため
南三陸町歌津に行く予定だが、一年前と何が違っているのか、あるいは変わっていないのか、目にすることになるのだろうかと思う。