あれから二年経った。
変わったこともあれば、変わらないこともある。
NHK の朝のニュースは、7:45 からブロック単位での放送になるが、真ん中の 5 分はニュースではなくなんらかのトピックを取り上げる。去年後半くらいからやっと地震と関連のないトピックが見られるようになってきたが、やはり大多数が地震関連である。
そうかと思えば、政治も行政も地震のことなど忘れている。覚えていたら、復興予算を無関係な事業に使ったりできるはずがない。尤も、そういう使い方ができるようにした党が圧倒的多数の与党になってるのだから、有権者の方もご同様ってことではある。
オリンピックも。被災地の復興に活用したいのなら仙台辺りでやればよい。ダイレクトに金が落ちてかつインフラ整備もできる。コンパクトなことを売りにしているようだが、それはつまり、東京だけが潤う、てことだろう。これも支持率が上がっているらしいが、一般民衆はもう地震に飽きてるのかもしれない、とか思ったりする。
無理に良く言えば、平静さを取り戻したところ、ということで、地震関連で読んだ本・雑誌を取り上げる。まぁ、ここまで取り上げる気になれなかった、ということもある。
まずは「
日本語学」。
去年の 5 月号と 7 月号に関連の記事が載っている。
5 月号はそのものずばりで「災害とことば」。
言葉で初期に話題になったのは、
大洗の「
避難命令」だろう。
防災無線で、法律に根拠のない「避難命令」という表現を使い、また「避難してください」ではなく「避難せよ」と呼びかけることで、住民は「いつもと違う。危険だ」という認識を持つことができた。これについては「災害情報の発信と受容」という記事で触れられている。また
女川では、いつもは女性の声なのに男性の声であったことで、同じような効果を与えた、ともされている。
この記事では、NHK が警報で「東日本大震災を思い出してください」と言うことを検討している、と書かれているのだが、これは去年の暮れに実際に行われて、やはり話題になった。概ね好意的だったようだが、近い人にとっては記憶を呼び起こしてつらさを感じるものになってしまったようである。
が、残念ながらやむを得ない。正常化バイアス (判断に困ったときに「大丈夫だ」という方向に傾いてしまうこと) というのがある限り、呼びかけはそちらに向かうしかない。尤も、「百年に一回」という言葉が何度も出てきたが、そのうち「オオカミ少年」とされてしまうのは明らかで、聞く方が麻痺してしまうことも考えれば、そういう検討は常にしていかなければならないのだろう。
「避難せよ」の文法的解説は「命を救うための命令表現」にある。これによれば、いわゆる「命令」でくくられる表現形式は複数あるが、「〜せよ」を、聞き手が「従わない」という選択をすることが事実上できない「絶対的命令文」としている。だからこそ、危機感を呼び起こすことができたわけだ。
「東日本大震災と被災地の方言」という記事はまず、「消滅してしまう方言」について取り上げている。方言は土地に根付きその土地の人々が日常を暮すための言葉である。逆に言えば、そこに人がいなくなれば消滅してしまうわけである。
現時点では、「それが何だ」という反応が大勢であろうと思われる。そんなこと構ってる場合ではない、というのはわかるが、これは「そこに人が暮らしている」という言語学的証拠がなくなる、ということなのだ。俺は、これはとてつもないことだと思う。
だからって、すぐに戻れ、なんて言わないけど。
あちこちに分かれて避難してしまって、帰還がいつになるかわからない、ということは、その方言の消滅はもう確定なんだろう、と思わざるを得ない。ほかの“Endangered Language”同様、データとして残すしかないのかもしれない。
「
がんばっぺ」などの方言スローガンがたくさん生まれたが、それの受け止め方の調査がある。興味深いのは、そのスローガンを立てたのがよその人であった場合。これに対しては、外から来た支援者が否定的な感覚を持つのに対して、当の地元の人々はそうは思っていない、ということ。地元の人は、それも支援の一つの形という受け止め方をしているのだろうか。同時に外から来た人が自制的であることの表れでもある。
尤も、これについて否定的な感想も目にしてないことはない。
もし大阪だったらどういう感覚を持つのだろう。阪神淡路でどうだっただろう。そもそも、スローガンが外から入ってくる、ってことがないのか。
紙幅が尽きた。
何回になるかは今のところ不明。