さて、やっと正月松の内の番組が終わったところで、1/20 の
秋田魁新報の記事から。
記事と言っても報道の部分ではなく、内館牧子の「明日も花まるっ!」という連載エッセイ。
これは、1/7 の「北斗星」というコラムについて触れたもの。結局、松の内に話が戻ってんじゃん。
この「北斗星」は、正月の帰省を引き合いに出して、秋田弁を喋る人が少なくなったことを、「言葉も含め、全国画一化の流れはとどめようもない」と嘆いている。
まぁ、ぶっちゃけ、よく見る意見である。俺は、おそらくこのコラム子もそれほど秋田弁を喋ってないのではないかと思っているが、確認のしようがないので「思う」に留めておく。
中で、明治の秋田の政治家、町田忠治について触れている。「東京遊学中」「他県人を秋田弁に同化させようとした」のだそうだ。「『日本普通の言語』を話す者を『江戸弁を弄する軽薄児』と指弾して快哉を叫んだという」とある。
大阪の人がどこに行っても大阪弁を使っているのを不快に思っている人がいる、というような話を聞いたことはないのだろうか。東京で、周りに秋田弁を使わせよう、というのは、今風の言葉で言えば「引かれる」に十分な行動の様な気がする。まぁ、だから、コラムも「その心意気には恐れ入る」としているのかもしれない。遠巻きに拍手するしかない、ってことか。
最後に「衰退の一途をたどる秋田弁だが、そこに宿る気骨や文化まで忘れ去ってはなるまい」としているが、これもまた例文集から持ってきたような定型文。秋田弁に宿る気骨って具体的に何、と聞きたいところである。
「明日も花丸っ!」に戻ると、内館牧子はこれを読んで、「心から安堵した」そうだ。
というのは、去年の 6/17 の「北斗星」で、なんじゃそりゃ、という文を読んだかららしい。おぉ、さらに半年以上も遡るのか。
当然、秋田弁に関することだと想像されるので、だったら俺も切り取ってあるはず、と思って探したが見つからなかった。しょうがないので、
県立図書館に行ってコピーをとってきた。読んだ記憶はある。おそらく、あとで切り取ろうと思って忘れたのに違いない。
内容は、秋田弁のことと言うより、女優の原節子のこと。
冒頭が「
ほれぼれするような秋田美人から秋田弁が漏れると少々興ざめすることもある」。読み返して笑ってしまった。そりゃ怒るわ。内館牧子が「
これを一面に載せる感覚を、どうにも理解できないのである」と書きたくなる気持ちもわかる。
去年の北斗星は「(映画『麦秋』で) 原節子さんの秋田弁に聞きほれてしまった」「何度でも聞きたくなる」とべた褒めなのだが、内館牧子の方は「映画撮影のために、何日間か練習した秋田弁もどき」と一刀両断である。
俺は、「秋田弁大好き」って姿勢を前面に出されると、半歩引いてしまいタイプではあるが、内館牧子の「
方言に対する理解が浅いのではないか」という疑問には賛成する。
要はこのコラム子、原節子が好きなのであろう。おそらく、「それだけ」と言ってしまっていいと思う。秋田弁が聞きたいのではなく、原節子の台詞、声が聞きたいのである。
何度か書いたような気もするが、自分の好き好きを「好き好き」に留めておかないで理屈をくっつけたり、無理に一般化したりするとトラブルの元になる。今回もそれである。やっちまったねぇ、という感じ。こういう文章をブログに書いたりツイートしたりすると炎上する。
秋田の新聞で、秋田美人が秋田弁を喋るのを「興ざめ」と表現してしまったのは致命的である。これの言い訳に耳を傾けようと思う人はそんなにいないと思う。
これもよくある表現方法だが、単純に褒めることができない人がいる。たとえば、あるベテラン歌手の歌がすばらしいと思ったときに、その歌手を褒めるだけでは満足できずに返す刀で「それに引き換え最近のアイドルとやらは」「そんなのを聞いている今の若い連中が気の毒」と何かをけなさずにいられないような人。ああいう感覚なのかもしれない。
ただ、美人が方言を話すと興ざめする、という感覚はそれほど奇異でもないと思う。
興ざめというのは強すぎるにしても、ファッショナブルなイメージの女優やモデルが方言で話すとビックリする、という感覚はそれと地続きである。
それもおそらく京都弁なら OK で、秋田弁だと「微妙」な感じになるんだろうね。
「北斗星」は無署名のコラムなので、その原節子ファンの人と、1/7 に秋田弁の衰退を嘆いた人とが同じ人なのかどうかはわからない。
もし同一人物なら大笑い――と書きたいところだが、ことが好き好きに絡んでくると、そういうことは往々にしてある。
で、入れ込み方が強ければ強いほど、当人はその矛盾に気づかないので始末が悪い。
まぁ、お前もな、という話ではある。