テレビ朝日の正月番組「
新春全日本なまりうたトーナメント」を見ての文章、最終回。
12 組から決勝に残ったのは、山形、鹿児島、広島、青森の 4 組。
先頭は山形で、
スピッツの「ロビンソン」。
司会は桂文枝だが、この今日のラスト「宇宙の風に乗る」を、「宇宙には風は吹かないと教わった」とネタにしたことがあるのを思い出した。
「疲れた肩に」が「
くたびった肩さ」。「くたびれた」が「
くたびった」になるのは、東北南部の音便化で、秋田ではこういう形にならない。
秋田で「疲れた」と言えば「
こえ」だが、これは「
おれ、こえ (私は疲れた)」「
かだ、こえ (肩が疲れた)」という風には使えるが、この「疲れた肩」に相当する「
こえ肩」というような形では使いづらい。なお文法的には、前者は「叙述的用法」、後者は「限定的用法」と呼ばれる。
「思わず口にするような」が「
思わず口さするみでな」。これも秋田では「
口にするいんた」となる。「みたいな」と「ような」の違い。秋田では「
口さする」とは言いにくいような気がする。
「二人だけの国」が「
二人ばりの国」になっていたのだが、これはどうなんだろう。「
二人ばり」は「二人しかいない」という意味じゃないんだろうか。元の意味は、「二人以外の人がいない」だと思うのだが。
もちろん、数学的には同じなんだが、「二人しかいない」には「ほかの人もいるはずなのに」という含みがあるような気がする。
文枝のネタにした「宇宙の風に乗る」は「
乗るべー」になっていた。元の歌詞の意味がわからないので、なんとも言えないのだが、この「
乗るべー」は「乗るだろう」なのか「乗りましょう」なのか。
鹿児島は、
あみんの「待つわ」。
「割とやるもんだねと」が「
まこていっぺこっぺじゃねっと」でわけわからん。「
いっぺこっぺ」は「あちこち」って意味らしいんだが。
「生きるのが辛かった」も「
生きちょっどがちながらやった」で、「
生きちょっどが/
ちながらやった」と切るんだろう、という見当はつくのだが後半が分からない。
「結ばれるってことは」が「
きびらるっちゅことが」。これは「
きびる」が「結ぶ」らしいということはわかったものの、「紐で結ぶ」「縛る」らしく、男女のことに使えるのかどうかは微妙な感じがする。
「永遠の夢」は「
いっずいとんの夢」。「
いっずいとん」は「いつまでも」らしい。「ふたつ」を「2 つ」に変換する融通無碍な MS-IME だが、「とわ」では「永遠」が出てこない。「永久」だけである。
デジタル大辞泉もそのようなのだが、今時はもう「とわ」って言ったら「永遠」じゃないかな。
「流して流されて」が「
流して流されっせ」で、この「
せ」は先週も取り上げた。メジャーな方言だからあらかた耳にしてるような気になっていたが、そんなことないもんだねぇ。当たり前か。
広島は
My Little Lover の「Hello,Again〜昔からある場所〜」。
この歌は途中で「リグレット」という単語が登場する。「後悔」という意味だが、ググると競走馬やバンドの名前などの固有名詞、アニメ番組のほかは歌の名前くらいしか出てこない。要するに日本語としてはまったくこなれていないというか、水面の油みたいに浮いてる語なのだが、その違和感は、方言訳によって歌詞全体が身近になってみると顕著になる。
俺が初めてカタカナでこの語を見たのは Reimy (現 REMEDIOS) の「青春のリグレット (
松任谷由実作)」という 1984 年の曲なのだが、ググったときにそれの歌詞の記事が第一ページに出てくる、っていうのが、そのこなれなさを示している。
ここで特徴的なのは、「痛む心」が「
にがる」になっていること。何度も取り上げているが、病気関連の語は、ニュアンスが重要なので難しい。この「
にがる」は体の内側のうずくような痛みを示すので、心が痛い場合にはぴったりなのである。
「愛がさまよう影」が「
愛がねじける影」となっていたが、この「
ねじける」はちょっと適正さが不明。「ねじれる」とか「(心が) ねじける」とは違うんだろうけども。
最後は青森で、山口百恵の「プレイバック PART2」。
「真っ赤なポルシェ」が「
たげあげポルセ」。
まぁ、「
ポルセ」はサービスかなと思うが、「
たげあげ」は「非常に赤い」で、最初の「
げ」が鼻濁音、次の「
げ」が濁音である。
「交差点の隣の車が」が「
交差点でわぎ (脇)
の車が」になっている。「
わぎ」は字数の関係で「
わぎー」と伸ばしているのだが、それがこの歌のノリによく合っている。
「ミラーこすったと」が「
鏡ばやってまったって (やってしまったと)」に大笑い。同様に「私もついつい大声になる」の「
わもべろっと大声さなるっきゃ」も楽しい。
ポイントの「ちょっと待って プレイバック プレイバック」が「
わい待ぢへ もどりへ もどりへ」になってるのも凄い。
後半、「坊や」が「
ぼんず」、「一体何を教わってきたの」が「
せばだば何ばすかふぇられで来たんず」というのも、おそらく津軽弁を知っている人はもれなく大喜びであろう。
全体にこの歌は意味だけでなく音もはまっており、訳が非常に上手くいっている。この歌は、早口でまくし立てる感じがあるのだが、それがケンカ腰の津軽弁の雰囲気とよく合っている。
結果を先に言ってしまえば、この人が優勝である。これは文句なしであろう。
ケンカになると感情が表に出てくるから、翻訳が機能しなくなり、方言よりの発言になる。また、標準語は一種の敬語でもあるから、ケンカのときにはそれを捨てる、ということもある。したがって、この歌は方言との相性がいいと考えられる。
今回の津軽弁の場合、「
もどりへ」にしろ「
ぼんず」にしろ、元の歌詞と字数の合う単語があり、ぴったりはまったことも大きいと考えられる。
審査員の
伊集院光が、青森の人は怒らないというイメージがあったが、怒らしちゃいけないと思った、と言っていたのが印象的。
このことでも分かるとおり、選曲が重要である。元の歌詞と、単語の音符への割り当て方によって、方言への翻訳がはまったり、逆に、やりにくかったりする。もし第二回があるとしたら、スタッフはその辺に気を遣うといいだろう。いや、今回も気は遣ったと思うんだが、ちょっと曲によって差が大きかった様な気がするので。
一般人もやってみるとよかろうと思う。まぁ、披露する機会があるかどうかという問題はあろうが。
今回の出場者を見て、あれ、と思ったのは、前に紹介した『
「方言コスプレ」の時代 ニセ関西弁から龍馬語まで (田中ゆかり、
岩波書店)』で「男方言」に分類されている、鹿児島、広島、高知からの出場者が女性だったこと。それに近い福岡や愛知もそうである。
鹿児島の出演者が言っていた通り、「男方言」のイメージがある方言でも、(考えてみれば当たり前のことだが) 女性は女性らしい表現をするものである。
それを明らかにした、という意味では、この番組は、民放の方言番組にしては上手く行った部類に入るのではないか。
あとは方言についての説明をなんとかすれば完璧。