最近、「慣れ」にかかわる出来事が二種類あった。
一つは、電気釜。買ったのは去年なのだが、気づいたのは今年。つか、ついこないだ。
買ったのは一番安い奴で、時計を内蔵していない。したがって、朝飯の分を炊く場合、そのときの時刻と朝の時刻との差を計算して、「8 時間後」てな具合にタイマーをセットする。
ずっと使いながら、なんか飯の炊き上がりが今ひとつだなぁ、と思っていた。味は気にしない性質だが、炊きたてって感じじゃない。昨今の家電は、技術革新はあったかもしれないが、過剰かつ方向を間違ったコストダウンのせいか、昔より出来が悪い、って印象があるので、こんなものかと思って放置してたが、あれ? と思ってマニュアルを確認してみたら、前の奴と違って、炊飯開始の時間ではなく、炊き上がりの時間を設定するのだった。つまり、7 時を狙うべきところを 6 時を狙ってセットしてたわけ。
*1 炊き立てじゃないのは当然である。おそらく、内容物の重さとかで炊飯にかかる時間を計算、そこから炊飯開始時間を逆算しているのであろう。
が、これまで数十年も炊飯開始時刻でセットしてきた。「夜 9 時にセットする場合は 9 時間後」という覚え方をしてしまっているので、単に一時間ずらせばいいだけなのに指折り数えないと何時間後だかわからない。しかも、しょっちゅう間違える。
*2
もう一つは、派遣先の職場のパソコン。
俺が所属している会社と違って金持ちなので、みなさん、一台のパソコンにモニタ (テレビ画面) を二台接続している。画面に表示できる情報が増えるので便利らしい。その順番が俺に回ってきて二代目のモニタが支給された。
メーラーとかワープロのように常に起動しているソフトと、作業内容に応じて使うソフトをどう配置するかはこれからの工夫になろうが、不思議なことが一つ。
Windows の標準設定では画面の右下に時計がある。また、IME の起動状態もその近くに表示される。
作業中、時間が気になったときどこに目をやるかというと、二台並んでいるモニタの内、右側の奴の右端なのである。それはセカンダリの (後から追加した) モニタでタスクバーはない。当然、時刻も表示されていない。IME の起動状態も同様。
困惑すると同時に、「俺は画面をそういう風に捉えていたのか」と一人で頷いたりしている。
秋田では「慣れる」を「
なえる」「
ないる」など‘r’が脱落して音便化した形で発音することがある。
一方、「それは慣れだな」というような名詞形の場合に、「
なえ」「
ない」と言うことはあまりない(絶対無いとは言わない)。おそらく、語形が短くなって、音便化させる必要性が減ったからであろう。
ところで『秋田のことば (秋田県教育委員会編、
無明舎出版)』は「馴れ」という字を使っているのだが、これって合ってるの?
「方言 AND 慣れ」でググってみたが、結構、深刻な話が多いようである。引越した先の方言になじめず辛い思いをしている人が少なくない。
知らない言葉は恐く聞こえる。京都弁みたいに、最初っから「やわらかい言葉」とかいうイメージを持たれていれば別だろうが。
「みちのくの小京都」とか言われる角館の言葉も、そういう風に言われる事はあるが、それは観光客が耳にする限られた範囲の表現だから、という側面は否定できない。暮らしてみれば、「ただのズーズー弁じゃん」ってことになるかもしれない。京都も同様。何度も言うように京都の人だってケンカはする。やわらかいだけの言葉ではない
また、地域によっては敬語体系がそれほど充実していな場合がある。一般に敬語は西高東低なので、西日本から東日本、さらに東北に引っ越してくると、「知らない人」から「知ってる人」に変わった途端、ぞんざいに感じられるような扱いを受けることになる。移動が逆方向だと、まどろっこしい、遠まわしの言い方ばっかりで本心が見えない、ということになりかねない。
残念ながら、しょうがない。まさに、慣れるしかないのである。
中には、引越し先の土地が嫌い、というケースもある。関西が嫌い関東人、関東が嫌いな関西人というような例がいくつか見つかった。これは、別の悪昧でどうしようもない。転勤辞令を待つしかない。
言語習得で思い出すのは、「言語形成期」という言葉。これ、柴田武氏が作った言葉だということを、こないだの『
日本語学』誌の「新日本語学者列伝」で知った。
言語形成期前半にある乳幼児の言語習得では、耳で聞いて、真似て、訂正されて、を数年かけてゆっくりと繰り返す。当人は言語を勉強しているという意識がない。慣れのプロセスに似ている。
これに対して、言語形成期後半またはそれを過ぎてからの習得は、文法書と辞書を駆使して、理屈から入る。だから、勉強が上手く行かないと「なんでそんな言い方するんだよ」という文句が出ることになる。これは、上記の、よその方言に対する違和感に似ている。
前者の場合、苦労したという意識無しで話せるようになるが、理屈が抜けてるので、たとえば外国人から「どうしてそうなるのか」と聞かれても説明できない、ということになる。後者の裏返しである。
昨今のモニタはほとんどが横長である。
テレビ受像機もそうであることを考えると、おそらくパソコンでテレビを見たり、ゲームをしたりする際の需要なのであろう。
が、これはちょっと長めの文章を読んだり書いたりしようとすると非常に使いづらい。それなりの高さを確保しようとすると、モニタ全体がものすごく大きくなる。これ、はじめてワイドテレビが出たときの不都合と同じなのだが、メーカーはなんでそういうことを繰り返すんだ?
*3
キーボード無しのタブレットが話題になっている。まもなくノートパソコンと比率が逆転する、という観測もあるが、俺はタッチパネルからの文字入力には我慢がならない。スマートフォンやタブレットで使うためのキーボードも多数、発売されていることから、なにも俺だけじゃないことがわかる。
だが、それが別売りのオプションであり、かつ、それのない機械が広い指示を受けている、という事は、横長モニタのことも考え合わせると、全世界的に文章・言葉が二の次になってる、ってことじゃないかと思うのだがどうか。