Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第710夜

漢字とか感じとか



 こないだの「日本語学」が「常用漢字は、どこで習うか、教えるか」という特集をやっていた。答申されたばっかりの常用漢字表に関する特集である。
 常用漢字表が、強制力のあるものではなく、目安に過ぎないということは知っていたが、今回の改訂が、現状の追認である、ということを知ってちょっと驚いた。
 端的に現れているのが「碍」の字である。
「障害」という表記は不適切である、という声があり「障碍」としたいという意見もあるのだが、「碍」を常用漢字に入れるのは見送られた。したがって、官公庁では「障碍」という表記は使えない。「障害」もしくは「障がい」と書くことになる。
 が、今後、障がい者制度改革推進本部のある内閣府から文化庁に追加の要望があれば再度、協議を行うことになっている。
 つまり、漢字としてどう扱うのかという決まりではないのである。「障害」と書くか「障碍」と書くか「障がい」と書くかは当事者に委ねる、というのではない。「障碍」と書きたいのであれば、書けるようにしてもいいですよ、という姿勢。

 漢字といえば思い出すのが、この春くらいにあった高校名の騒ぎ。
 湯沢北高校と湯沢商工高校が合併するのだが、その名前でもめた。
 公募したのだが、その候補になかった「叡陵」というのに決定したことを教育委員会が発表したところ袋叩きにあった。
 その反対意見の中に、「子ども達が書けない」「読めない」というのがあって大いに驚いた。
 だったら教えるのが教育ってものだろう。
 そもそも、書けない、読めない、って決めてかかってるのはなぜだ。世の大人が子どもをいかに低く評価しているかってことがポロっとこぼれてしまった出来事であった。次世代の教育を放棄しているのになぁ。
 公募作品から採らなかったのが反発を招いただけなんじゃないのか、と思っているのだが、実のところはどうなんだろうね。

「日本語学」に戻る。
 現役の学者たちが、自分達にとって重要だと考える (歴史的) 名著を紹介する「私が薦めるこの一冊」という連載で、佐藤貴裕氏が柴田武氏の『言語地理学の方法』を採り上げている。
 その中で、「言語変化は、原則としてあり得ない」と述べているのが目を引いた。言語は、ほかの人と意思疎通するためのものだから、変わってはその役を果たさない。
 だが、現実には、言語の変化は起こる。自己否定になりかねない現象であるからこそ重要なのだ、というのはちょっと目からうろこが落ちる意見だった。「人間の本質を一瞬垣間見せた露頭のような現象」という表現が秀逸だと思う。
 俚諺形が標準語形で置き換えられてしまうとき、よく「標準語の威光」ということが言われる。「威光」という子どもには読み書きできないかもしれない難しい字からイメージされるように、強い力のように思えるが、実際には、標準語が日本全体を席巻しているわけではない。
 佐藤氏は、その前に、引け目や劣等感があるのではないかとしている。言語的な不足があったときに外部の表現を取り入れる、そこに威光が作用する場合がある、ということである。
 文章では、ジャンケンの手の形が、標準語形ではグー・チョキ・パーだが、鋏について「チー」という言い方をする地域が少なくないことを挙げている。よく見ると、鋏だけ形が違う。「グー・チー・パー」の方が揃うのである。遊びに使うものもであるし、リズムは重要。そういう風に、言語的に充足しているときに「標準語の威光」は通用しない。東京の言葉といわれている「〜じゃん」が、同じ使い方をする「〜やん」があるために関西に伝播できないのも同じ理屈であろう。

 ここのところ一号おきくらいに「日本語学」をネタにしているような気がする。
 それは主に、平日は拘束時間が長く、週末にそのしわ寄せが来る、という状況で人の話し言葉を耳にするチャンスが少ないことによる。
 そんな中で残っているのは、ピアノのレッスンの前に寄る蕎麦屋のマスターや客の会話くらい。時折、中々面白い現象を耳にすることがあるのだが、メモとってねぇんだな、これが。




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