Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第637夜

江戸語東京語標準語 (前)



ドラマ』誌の一月号に、脚本家の (この雑誌に書いてる人の大半が脚本家だが) 水原明人氏が「東京弁と大阪弁」という文章を書いていた。
 この人、日本語に関する造詣も深く、「東京の話し言葉研究会」というグループに参加して、芳賀綏・井上史雄・荻野綱男各氏と一緒に研究したこともある。後で紹介するが、講談社現代新書から『江戸語東京語標準語』という本も出している。

 この文章の前半は、それぞれの印象である。「バカ」と「アホ」の違いというのはどこでも聞く話で、はぁはぁてな感じで読んでいたが、東京で育った母親が、大阪で育てられた兄弟から「そんなキツい言い方せんでも」と言われた、という話はちょっと身につまされる。母親はキツい言い方などしていないのに、大阪ではそう受け取られてしまうのだ。
 孫引きになるが、「江戸っ子」という言葉が文献に出てくるのは 1771 年だそうである。幕府ができてから 170 年後というから、30 年を区切りとすれば 6 世代ということになる。三代続いたかどうか、ということを云々できるようになった時期、ということだろうか。

 で、『江戸語東京語標準語』。
 タイトルの通り、江戸時代から現代までをわかりやすく俯瞰している。
 江戸時代の部分を読んで思ったのは、人々の言葉遣いについて書いた本って多いんだなぁ、ということ。
 まぁ、300 年も続いたんだからそうでしょうよ、ってなことかもしれないが、やっぱり言葉遣いって関心の的になるんだなぁ。
 それが、江戸と全国の藩の間の違いを説明、というような実利的な背景を持っていた、というようなことは本の中に書いてある。

 時代が明治になる。
 江戸が世界初の百万都市である、というのは有名な話だと思うが、最盛期には 130 万人いたそうである。ところが政体がガラっと変わって、全国からやってきていた大名や旗本が江戸を脱出し始める。彼らは金持ちだから、成り立たなくなってしまう商売もあるわけで、江戸から東京になった時点で 26 万人に減ったんだそうだ。これはすごい差だ。1/5 だぜ。
 そこに入ってくるのが新政府の役人達、その予備軍である書生達。
 彼らは、旧徳川的なものを排除しようとしたので、江戸っ子の言葉遣いを嫌った。かといって例えば薩摩弁を押し付けるのは流石に無理、ということで、山の手の言葉を使うようになった。これが現在の標準語の原形となる。
 面白いのは、元々、武士が山の手、町人が下町というような住み分けがされていて、言葉遣いも違っていたが、武士がいなくなって空いたところに新政府関係者が入ってくる。山の手と下町の違いは一層はっきりすることになった、という点。
 では、山の手の彼らが尊敬されていたかと言うとそんなことはなく、本来が田舎者だし、威張っているし、ということで「ノテのカッペ (山の手の田舎っぺ) 」と馬鹿にされていたらしい。

 さて、標準語である。
 明治十年代までは、いきなり標準語なんつっても無理だよ、という意見が公にできるくらいの雰囲気はあった。
 が、日清戦争、富国強兵の時代を経て、明治三十年代には、早く標準語を決めろ、という意見が地方からも上がるようになる。

 ここで登場するのが岡倉由三郎という人物である。
 あの岡倉天心の弟なのだが、後に英語教育者として有名になる。
 この頃は、方言撲滅を唱えていた。「標準語」という言葉も岡倉由三郎が作ったものだと言われている。
 孫引きになるが、「先ず一般の地方語の消滅のために、何とか好き (よき) 方法を採らねばならない」というような考えを発表している。
 当時の語感がどういうものなのかはわからないが、俺にはこれがものすごく強烈な表現に思える。消滅のための好き方法、とは。
 この本によれば、標準語の源泉は、社会的、政治的に上のものが使う言葉、という考え方を持っていたらしい。
 それは、現実としてはそうなってしまうのかもしれないが、それがあるべき姿だと言っているのだとしたら恐ろしい話である。

 この辺の動きに関する文章を読んでていつも思うのだが、この時代、方言は「選定」するべきものだった。前後して国定教科書も出てくるのだが、「おとうさん」「おかあさん」という、当時の東京ではほとんど使われていなかった表現が掲載されるのは、これによる。個々の表現を選んで取り上げるという姿勢で作られたらしいのである。
 文法とか音声はどうやら眼中になかったか二の次だったらしい。

 つづく。
 今年は多いなぁ、「つづく」が。




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