Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第635夜

出身地がわかる! (後)



出身地がわかる! 気づかない方言』に借りた文章、三本目。

 よその地域のことで申し訳ないが、それは通じないだろう、と思うのは茨城の「しみじみ」。
「しっかり」「ちゃんと」という意味らしい。仕事の指示で「しみじみやれ」と言われた日にゃすれちがいは必至だ。

 土に埋めることを「いける」と言うのは栃木。
 遺体を「いける」と使われると大分、びっくりする。

 これはそのうち取り上げようと思って寝かしてあったネタなのだが、「を」の呼び方。
 新潟で「下のオ」、富山で「小さいオ」、標語で「難しいオ」。
 ほかに「重いオ」「くっつきのオ」なんてのもあるらしい。
くっつきのオ」は「カリキュラマシーン」で使っていたような記憶があるのだが。

 岐阜で学校ネタが出てくる。
 漢字ドリルを「カド」、計算ドリルを「ケド」というらしい。これは香川では「カンド」「ケイド」となる。
 小学生が言い出したんだろうかねぇ。まさか教師や親じゃないよな――と思いつつちょっとググってみたら、学校からのお知らせの類にも使われる表現らしい。大人かもしれない。
 これが地域方言かどうかはちょっと保留したい気もする。

 床にペタっと座るときに、膝を腕の中に抱えるやりかた。いわゆる「体育座り」。
 この本では、大阪の「三角座り」のほかに、愛媛の「おちょっぽ」が紹介されている。
三角座り」は、尻・膝・足で三角形になるから納得性があるが、「おちょっぽ」は「正座」からの転用だと書かれている。福井などでは正座のことを「おちょきん」という。なぜ、「正座」が「体育座り」になったのかは不明。

 滋賀の「みずくさい」も、気づかないだろうなぁ、という気がする。
 味噌汁などの塩気が薄いことを言うらしい。

 山口・広島辺りには、頭が痛いことを「頭が悪い」と言うらしい。これには大分びっくりする。よく冗談なんかで口にしたり耳にしたりするが、そういう方言があるとは。

 表紙に載っているのが、広島の「たちまち」。「とりあえず」という意味らしい。イラストは、飲み屋で「たちまちビール」と叫んでいる青年。
 冒頭の「しみじみ」と似たような感じがある。
 熊本に行くと「さしおり」という語が出てくる。「さしあたって」という説明もあるが、これもビールの枕詞らしい。

 同じく広島で面白いのが、醤油差しのくちから醤油がつたうことを言う「よぼう」。これに単語が割り当てられているのか。新潟の「おころげる (炊き上がったご飯をかき回して水分を飛ばすこと)」に匹敵する細かさだ。

 島根で、辛い、疲れた、という意味で「せつない」と言うらしいが、秋田でも「へづね」という形で使う。

 福岡に飛ぶが、ボールペンのインクがなくなったことを「つかん」と言う…言うだろ? ボールペンがつかん。なんで取り上げられてるんだろう。
  「ああなるほどね」という意味の「あーね」は中高生の語彙だそうで、新方言かもとされている。

 これも言うような気がするんだが、佐賀で、辞書などに掲載されていないことを言う「ついてない」。
 言うよなぁ…。

 長崎。
 ランドセルなどを背負うことを「からう」と言うらしい。
 それで思い出すのが、「合羽からげて三度笠」の「雪の渡り鳥」という歌。状況は似てるような気がする。
 大辞林で「からぐ」を引くと「からげる」に飛ばされて:
  (1)紐(ひも)などで縛る。
  (2)着物の裾(すそ)や袂(たもと)をまくり上げて、落ちないようにとめる。
  (3)縢(かが)る。
 という語釈に行き当たるのだが、それのどれも合羽に合致しない。勿論、ランドセルにも。
 うーん、どういうことだ。方言はともかく、この歌の状況がわからん。

 ついに鹿児島。
 靴下がずり落ちていることを「ずんだれてるよ」と言ってしまった、というエピソードがあるが、それは無理だろうと思う。意味がわからなくても語感がコメディ。

 さて、最後。一番、気づきにくい方言と言っても差し支えないのではないかと思われるのが、大分の「離合」。
 車がすれ違うことだそうである。標識にも書かれているというから、「気づかない」度は高い。なまじ漢字で書けるだけに方言だとは夢にも思わないのであろう。

 この本の良心的なところは、巻末ではあるが、「こんな方言は使ってない」という声も掲載している、ということである。
 東北では「しばれる」が評判悪いが、「キトキト」「だぎゃあ」「あきまへん」など、よく引き合いに出される表現が多く否定されている。
 これは単に、ある表現がその県全域・全年齢・全階層で使われているわけではない、ということの裏表である。使っている人もいれば使っていない人もいる。聞いたことがない、という反論もわかるが、その人が聞いたことが無いだけなのかもしれない、ということは念頭におく必要がある。勿論、この本で大々的に取り上げられている表現を使わない人もいる、ということでもある。




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