Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第583夜

一〇〇一話をつくった人を書いた人



 去年の暮れ、最相葉月氏の「星新一 一〇〇一話をつくった人」が日本 SF 大賞を受賞した。ちょうど読み終わった直後で、なるほどなー、と思っていたら、大仏次郎賞、講談社ノンフィクション賞も。なるほどなるほど。
 ノンフィクションはあんまり俺の本棚にはないが、真っ先に思いつくのは佐野眞一氏である。『誰が本を殺すのか』『カリスマ』『東電 OL 殺人事件』とヒット作は多いが、『業界紙諸君!』が地味にお勧めである。日本で暮らすのが嫌になる本だ。
 視点では森達也氏。『放送禁止歌』は、愕然としつつ、意気消沈する本である。
 若手では、稲泉連がいい。『僕の高校中退マニュアル』『僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由』などがあるが、誠実さが伝わってくる。
 最相葉月氏の場合、『絶対音感』『青いバラ』と来て『星新一…』である。
 ノンフィクションっていうのはそういうものだと思うんだが、バックグラウンドの情報量がものすごい。とくに、佐野氏と最相氏の場合はマジでものすごい。
 佐野氏の文章にはよく「ルサンチマン」という語が出てくる。これでわかるように熱く語る人だが、最相氏の場合は冷静に淡々と語る感じ。
 ここ数年、昼休みの睡眠と定期購読雑誌に追われて読書量は減っているが、こういう人たちのしっかりした本は忘れずに読んでいきたい。

 その最相氏のエッセイが地元紙の夕刊に載っていた。「戦争と言語」というタイトルである。
 ノルウェーのジャーナリストがイラク戦争当時のバグダッドの様子を報道できた理由は、ノルウェーにイラク大使館がなかったからだという。つまり、当時のイラクは報道をチェックすることができなかったわけだ。
 さらに第二次大戦時の日本に話は移る。当時、日本とドイツの間を潜水艦で往復したらしいのだが、あるとき、その連絡方法に困った。やむをえず国際電話で、早口の鹿児島弁で伝えた。連合軍がそれを解読できたのは二ヵ月後だったそうだ。*1

 鹿児島弁が選ばれたのは、標準語から最も遠いと考えられていたからだそうだが、確かに鹿児島弁には、幕府の密偵に内情がバレることを恐れた薩摩藩が改造した、あるいは、作った、という噂がある。まぁ、話としては面白いが、そんなことをしたらバレたら困る内情があるということを宣言するようなもんで、お話に過ぎない。
 標準語からの距離で言ったら、秋田弁も津軽弁もタイマンはると思うんだが、だったら解読されなかったかと言うとそれはまた疑問である。
 その鹿児島弁の暗号が解読されたのは、米軍に鹿児島生まれの日本人がいたからで*2、別に米軍が優秀だったからではない。だとすれば、それは偶然の産物、その偶然が秋田便や津軽弁を暗号としたら起こらないかと言ったら、そこに因果関係はないので、なんとも言えないわけである。
 そもそもその「わかりにくい」「遠い」という感覚は日本人自身のものだ。外国人からしたら、「いや、そんなに違わない」ということもあるかもしれないし、逆に、日本人にとってはさほど違わない二つの方言がとてつもなく違うように聞こえる、ということもあるのでは。
 たとえば、高知方言では四つ仮名を区別するが、それって“ji”と“zi”が別の音である英語圏の人々にとっては身近というか当然だったりするのではないだろうか。そこに着目すると、土佐弁と徳島弁は全然、違う、ってことになるかもしれない。

 さて、最相氏の文章は、世界全体が英語圏になろうとしているが、その標準からこぼれた言語がどうなるかに注目したい、と結んでいる。
 その辺をタイムリーに扱っているのが『言語』の 2 月号で、「言語権とは何か」という特集を組んでいる。
 言語権についてはとりあえず字面だけで理解して差し支えない。たとえば、自分の母語で生活し学習し働いていく権利、という風で、そうすると少数民族が近隣の大言語に吸収されていく様子、とかいうことが想像できる。
 その状態でいると、小森宏美氏の「だれの言語権か」を読んでビックリすることになる。ここで取り上げられているのはエストニアとラトヴィアで、この二つが旧ソ連を構成していたことを覚えていれば、ロシア語が大言語で、エストニア語・ラトヴィア語の復権を目指している、という構図を想像するわけだが、エストニアのナルヴァ市はロシア語系住民が 95% を占める、と聞いたらどう思うか。この場合、少数者とは誰か。
 つまり言語の問題は、政治とは無縁ではないどころか、密接な関係を持っている。
 それが頭にあれば、「正しい日本語」教の持つ胡散臭さにも気づくことができるし、その教祖たち教徒たちの攻撃性も説明できる。

 正直言って、この最相氏の文章で、戦時下における二つの言語の事例と、世界標準たる英語の話をつなげた真意はわからない。
 だが、この文章から始まって俺に一つだけ言えるのは、多様性は維持するべきものだ、ということ。思い切って言ってしまえば、それは善だ。
 方言に興味があるのはそれが理由なんだろうと思う。




*1
 どちらも孫引きである。前者はアスネ・セイエルスタッド『バグダッド 101 日』、後者は吉村昭『深海の使者』。(
)

*2
 山崎豊子の『二つの祖国』のモデルになった人である。(
)





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