『月刊
言語』の 2008/1 月号が、「日本語のスタイル」という特集をやっていて、それが結構、方言に触れているので、その線で今年の第一回をでっちあげてみようと思う。
渋谷勝己氏の「スタイルの使い分けとコミュニケーション」は、先週もちょっと触れたが、ツールとしての方言・言葉という点からの文章である。
「合理的、効率的なコミュニケーションを行うためには、ことばの多様性などないほうがよいはずである」というのはまさにその通りで、それゆえに、方言が (一見) 衰退する方向に動くのは当然のことなのである。
それは方言に限らず、敬語、集団語、若者言葉なども同様なのだが、それは厳然と存在する。つまり、違うことにもまたコミュニケーション上の意味がある、ということなのだ。
おそらく多くの人が言葉遣いというものについて合理性・効率性という尺度を持ち出すことに抵抗を感じると思うのだが、それは「文法」というものの不完全性を考え合わせて見るとわかる。
人工言語 (エスペラントとかではなく、コンピュータのプログラミング言語や制御言語の類) には明確な文法が決まっていて違反するとはねられてしまうが、自然言語の文法には、それぞれの言語ごとに色々な考え方があることでわかるように、現在あるものについて後から「こんなルールみたいだよ」という風に考えたものである。つまり、我々が日常生活で使う言語には違反を許さないようなルール
*1がない。そもそも、合理性とか効率性かとは別の次元に存在するものである。言葉遣いに対して合理性を持ち出されたときに生まれる違和感とすら別の次元だと思う。
高木千穂氏の「関西若年層にみる東京語の使用」では、前掲の渋谷氏の文章でも触れられているように、関西人はどこに言っても関西弁を話す、というのは、特に若年層において、当てはまるとは限らない、ということを数字とともに述べている。
アンケートが 25 人、というのがちょっと気にならないこともないが。
話は急に変わるが、いろんなアンケートが世の中にはある。俺がよく目にするのは、mixi のニュース機能で、新聞社がやったもの、ネットでの調査を専門に行う会社のもの、などがある。
ネットの記事はテレビやラジオと違って自分のペースで読むことができるせいか、そうしたアンケートの中に、母数が非常に少ないものや、有意に違うのかどうかと検証してないものがあることに最近、気づいた。
たとえば、サーチエンジンとして
Yahoo! を使う人と
Google を使う人の違いをまとめたものがあった。それぞれの友達の数について (友達の定義がどうなってるんだ、ということはさておき)、前者が 3.4 人、後者が 2.6 人という結果を「大差ない」としている記事があった (調査そのものは
Eストアーだが、そう表現していたのは別のメディア。記事が消失したのでどこかは不明)。だが、この差は 0.8 人、ほぼ一人とみなしていい数字であり、大雑把に略すと 7:5、これはものすごく大きな差のはずである。
また、岩波書店が国語の教師に対して、近頃の生徒の国語力についてどう思うかと聞いたアンケートがあるのだが、「非常に低下」と「やや」を合わせると 9 割で、地元の新聞もそう紹介していたが、これ、母数がちょうど 100 で、つまり、そう答えたのは 90 人。これを「9 割」と表現してしまうともう圧倒的多数がそう思ってるんだ、ということになってしまう。見たところ、どこの地域をターゲットにしたのかも公開されてないし、数字の一人歩きの典型であろう。
と、こんなことを書くと高木氏の文章にケチをつけてるみたいになるが、目的が違う、ということで、そのつもりはない。これで決定版の説などぶちあげているのではなく、傾向を見て、さらに追求するべき点を述べているから。
ここで注目されているのは、仲間同士 (つまり、関西弁話者同士) の会話で挟み込まれる東京弁 (あるいは標準語) である。これも「スタイル」にかかわることで、「言語遊戯的」と表現されているが、突然、東京弁を挟み込むことによって発言を際立たせる、という効果を狙った発言である。これまで言及されることが少なかった、と書いてあるが、もしそうだとしたら、当たり前のこととして放置されていたのかもしれない。
となると、ひょっとして、コード チェンジとかスタイル チェンジってあんまり深く研究されてない、ってことなんだろうか。
やっぱり先週とつながる話。何をどう表現するかについては、我々は無意識のうちに選択している。そこには、あえて標準語を使う、ということも含まれるわけで、方言愛好者だってそうなのである。好きずきとルールの問題は別なのであって、接点はないかもしれないくらいの考えでいるべきなのではあるまいか。
金田純平・澤田浩子・定延利之三氏による「コミュニケーション・文法とキャラクタの関わり」は、方言には触れていないが、定延利之の本で紹介されていた例もまじえながら「キャラクタ」について触れている。例が漫画など身近なせいもあって、読みやすい。
山口治彦氏の「汗と涙のシンデレラ」は、いわゆる「シンデレラ・ストーリー」の文章が、話し手と聞き手の「共犯関係」によって構築されていく様子を解説している。面白い。
というわけで、読み返してみたら、この文章自体は方言についてほとんど触れてない、ということに気づいた。
でもこのまま公開する。
今年もこんな感じにヌルくお届けする予定である。