Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第553夜

篤姫 (後)



天璋院篤姫』に便乗した文章、後編。

 あんまり薩摩弁は出てこない、と書いたが、食い物は結構、出てくる。
 江戸に入った後、虎屋 (この小説の虎屋がそれを指しているのかどうかはわからないが、あの虎屋は室町時代の創業である) の菓子を「かるかん」と比べたりしている。
「軽羹」は山芋と米粉と砂糖を練って蒸したものだが、この砂糖は総称とか代用ではなく、昔から本当に砂糖だったらしい。つまり、高級品である。
 食い物ではないが、故郷をしのばせるものとして「カラカラ船」も登場する。車の帆の着いた船で、子供が引っ張って遊ぶおもちゃ。

 大奥の言葉も当然、よく出てくる。というより、篤姫と和宮という二人の御台所が主人公だから (和宮は、御台所と呼ぶな、と注文をつけているし、御台所として活動した気配はないのだが) 大奥が舞台なので、当然、そうなる。
おゆるこ」というのはお汁粉のことである。
 女の厄年、33 才のことは、この数字を口にするのもはばかられるので、「みそさざい」と読んでいたそうだ。大辞林によれば、ミソサザイは「鷦鷯」と書くほか、「三十三才」という書き方もあるらしい。
 正直言うと、読みながら「不親切な小説だなぁ」と思っていた。時代小説であり、しかも、幕府・大奥・公家のみで庶民が登場しないからそうなるのもやむをえないのだが、難しい表現が次々に出てきて、しかもほとんど説明がないのである。この「おゆるこ」なんかは括弧つきで「汁粉」と解説があるが、それは例外中の例外で、辞書 (しかも厚めの) を脇においておくか、メモっといて後で調べるとか、そういう読み方を要求する小説だ。
はこせこ」とは何か。嫁入り道具らしいことはわかる、枕絵を入れておこうか、という発言もあるので、中に物を入れられるものだ、ということも想像がつく。ちなみに枕絵というのは春画のことで、性教育用に必要だろうか、という相談で何度か使われる。
 ググると、正装のときに身につける紙入れらしい、ということがわかる。いや実は、草履とかと一緒に「箱」に入った写真がいっぱい出てくるんで、それのことかと思った、ということも白状しておく。
 火事になったときに避難したのは「布屋」だが、これはググったら苗字と生地屋ばっかりで断念した。テントってことだと思う。
日髪日化粧」も説明無し。贅沢を表す表現らしい、ということはわかった。
櫛だとう」も同様。これはググってもヒット皆無。
 和宮が体調を崩したとき天璋院が見舞いに行くと、「お裾のお具合よろしからず」。これ、どこが悪いのやら。髪の端っこというから目の辺りかとも思うし、確かに、腫れてるって記述もあるのだが。

 和宮の台詞は異様に少ない。そういう人 (物語中の人格設定) だからしょうがないのかもしれないが。しゃべることがあったとしても、挨拶やらなんやらのオフィシャルなものばかり。
 言葉遣いが感じられるのは、その周囲の人たちである。
 これは前から思っていたのだが、公家の言葉は確かに遠まわしだったり、接辞がやたら多かったりはするのだが、基本的には我々の丁寧語とそっくりだと感じられる。もっと言えば、あんまり似すぎてて、高貴な人の言葉遣いに思えないこともある。そういう意味では、江戸の侍の言葉の方が堅苦しくてしゃっちょこばっていると思う。京都弁にはやわらかいというようなイメージがあって、それは何が理由なんだろうというのが前からの疑問だが、このこととなんか関係あるのかしらん。

 ここまできてしまったら安心して方言を離れることにするが、冒頭で篤姫の父親がへまをして本家からにらまれるエピソードがある。そのとき父親は、一家のものに対し、「居間で謹慎」という指示を出す。これは勿論、家族が一箇所に集まれ、という意味ではない。それぞれが「居るべき部屋 (間)」に閉じこもっている、ということだ。

 小説としてどうかというと、いや、有名作家の作品を偉そうに書評するのもあれだが、なんだか躍動感に欠けるというか。一人の人間を主人公にした物語というよりは、表現が文学的でやたら細かい歴史読本、という感じ。幕末という時代が舞台で、事件は次々に起きるのに、なんかドキドキハラハラするということがなかった。いやそれはひょっとしたら、俺が普段、むやみにドキドキハラハラさせる種類の本ばっかり読んでるせいかもしれないのだが。どうも主人公の考えていることを、地の文で説明してしまっている、という印象がそう思わせているような気もする。
 天璋院と和宮の衝突も、大奥と取り巻きのせいかもしれないが隔靴掻痒の感がぬぐえず、天璋院の和宮に対する意識も近くなったり遠くなったりを繰り返してどうもピリっとしない。史実だといわれたらそれまでだし、仮にも御台所が感情を表に出しちゃいかんといわれたら反論のしようもないんだけどさ。

 歴史は見方で変わるというようなことはよく言われる。どうせならもうちょっと突っ込んで、有吉佐和子の『和宮様御留』あたり読んでみたほうがいいのかもしれない。
 俺の幕末・維新感は大河の「翔ぶが如く」が相当の領域を占めている。だから、島津斉彬のイメージは加山雄三だし、久光は高橋英樹である。一部、「徳川慶喜」も混じっているので、この小説のように慶喜は信用できねぇ奴だ、と言われるとちょっと違和感があったりする。
「翔ぶが如く」では富司純子が天璋院、鈴木京香が和宮だが、悪いが記憶にない。「慶喜」の深津絵里、小橋めぐみも同様。どうもこのキャストだと、やたらに気の強い女とお姫様、という感じではあるが、さて今度の組み合わせはどうなるのやら。




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