Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第537夜

Aha!(sequel)



 井上史雄氏の『変わる方言 動く標準語 (ちくま新書)』を読んでの感想文、後編。

 まずは国際関係。
 カタカナ語の漢字への置き換えについて、言語的保守化と表現している。
 それはある程度、頷ける点がある。言いかえがごっつ不自然だからである。無理がある。どうにかしてそっちに持って行きたいんだろうな、と思ってしまう。
 大体、カタカナ語についてよく若者が槍玉に挙げられるが、その前に役人の言葉を非難するべきであろう。そうして役人が使った言葉を国立国語研究所が言い換えようとしているのだから、「なんじゃそりゃ」と言われて当然である。
 秋田の「子育て税」はちょっと話題になったようだが、その少子化対策プランに使われている「クラスター」という語に噛み付いた議員がいる。「クラスター爆弾」を連想させる語だから、子供の未来に関する政策にはふさわしくない、とのことだが、これも似た話である。
「クラスター」は、それこそ社会言語学で「クラスター分析」という手法がよく使われるし、オリンピックのような大規模公共事業で作られる施設の塊を「クラスター」と呼んだりもする。何も爆弾にしか使われない単語ではない。おそらくその議員は強烈な印象を持っているのであろうが、それだけで噛み付いたところで、個人的感覚といわれてもしょうがあるまい。
 方言といえば、地域方言のことを連想するが、この辺りは集団差である。しかも地域差を反映しているので、方言研究はまだまだ終わらない学問である、と井上氏は書いている。

 最後の章がその、目からウロコの統計手法。
 東京からの距離を横に、標準語形使用率を縦にしたグラフが提示されている。
 当然、東京が頂点にくるであろうと思われ、それはその通りなのだが、面白いのは北日本に向かってはガクンと下がるのに、西に向かってはなだらかな下降だ、ということである。
 さて、肝はココである。なぜ標準語形の使用率なのか。
 真田信治氏が学生に、方言地図などでは省略されることの多い標準語形がどれくらい使われているかを集計してみたらどうか、という指導をした。普通は、標準語形とは異なる語を調査するのだが、逆に、標準語形がどれくらい使われているかに着目。すばらしい発想だと思う。
 たとえば、屋根の下にぶら下がってできる氷を「つらら」と言うが、この語が実際にどれだけ使われているかを地図上に並べると、西日本に偏る。それは、「つらら」が西日本起源の語だからである。それの利用度というのは、西日本、つまり京都の言葉がどういう風に広がっていったのか、という痕跡にほかならない。
 こうしてデータを重ねていくと、北陸において標準語形の使用率が低いことがわかる。地図を広げれば一目瞭然だが、直線では北陸は決して東京から遠くはない。大阪よりも近いくらいである。だが現実に、北陸は東京を牙城とする標準語の影響を受けにくい。それを説明する物差しは何か。鉄道距離である、と井上氏は考えた。
 なぜ鉄道なのかというと、車の道路は頻繁に変わる。高速道路はまだ伸びるようだし、バイパスはいたるところに作られている。この本では触れられていないが、そのどちらも都市と都市の間をダイレクトに結ぶもので、その間の町がないがしろにされている、というのも今後は影響を及ぼすのではないか。
 現在の鉄道はおおむね、江戸時代の街道に沿っている。したがって、鉄道で考えるということは、500 年というスパンでの人々の行き来を考える、ということである。日本語の変化を考える場合、非常に理にかなった物差しなのである。

 さらに、対象の単語について初出年を調べる。文献に最初に出てきたのはいつか、ということを調べておくのである。それと使用率を見ていくわけだ。
 初出年と普及地域を重ねると、古い単語は主に西日本、新しい単語は東日本で使われることがわかる。それぞれ、京都と東京が中心である。
 首都が東京に移って百年ちょっと、猫も杓子も東京東京という風潮がある、と考えている人は多いと思うが、実はそうではない、ということである。京都が首都であったときの言葉の影響はしっかりと根を張っている。言語の問題は数百年を単位をして考えなければならないのだ。

 最後に、デュースブルク大学のクルマス氏が、高齢化と言葉のことを研究している、という話。人生が 40 年であった時代と、80 年である時代とでは言葉の感覚が違うのではないか、というのである。
 つまり、40 年であれば老人が耳にするのは一世代下の言葉だが、80 年の場合は二世代、ことによっては三世代下の言葉を聴くことになる。そらぁ違うわなぁ、という話である。
 だが、言葉は百年の単位で考えなければならない。三世代でもその一目盛りに足りない。
 まして、たかだかここ十年くらいの言葉遣いを取り上げて、乱れてるの、間違ってるのと言い立てるのは実にみっともない。
 前にも書いたような気がするが、今の若い者は、という文章は古典にも見つかる。現代人の言葉なんぞ、吉田兼好から見れば噴飯ものだし、その吉田兼好だって清少納言にとっては問題外の外である。
 この二人に反論する勇気があるんだとしたら、それはそれですごいことなのかもしれないが。




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