Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第483夜

老人とヤンキーの距離



 整形外科の話に戻るが。
 もともと医療機関ってのは老人比率の高いところだが、整形外科は、ほかの診療科よりもっと高いような気がする。身体パーツの磨耗がダイレクトに現れるところだからだろうか。
 であれば、方言がパワフルに飛び交っているかと言えば、なんだかそんな感じがしない。首や腰を牽引してもらってる間はすることがないので (やってもらったことがある人はわかると思うが、体勢の問題で、本を読んでるって訳にはいかない) 人の会話を聞いているのだが、なんだか秋田弁濃度が低い。
 しばらく聞いててわかったのは、音韻だけが秋田弁で、語彙が秋田弁じゃない、ということ。秋田特有の俚言はほとんど聞こえてこない。
 なぜか。
 まず言えるのは、スタッフ側に年寄りがいない、という、その医院の事情。一番上が医者本人じゃないかな。後は、せいぜい 40 代前半というあたり。50 代のベテラン看護師、みたいなのがいない。一方、患者の方は 60、70 が少なくないので、そこに言語上のギャップがある。
 次が、おそらくさほど仲がよくないのではないか、ということ。
 別に仲たがいしているということではない。整形外科は、診察なしで、来てすぐに牽引とかの処置をして帰る、というルーチン的な治療をすることが多いところのようで、患者の滞在時間が短いような気がする。その結果、方言丸出しで喋るほど親密にはならない、ということではないのだろうか。薬局に行くと、そこの薬剤師は、いかにも秋田弁という感じで話し掛けてくる。この人とは、毎回、顔を合わせるわけだ (それぞれの薬剤師は休みのこともあるだろうが)。
 これに、標準語は敬語の一つである、という田舎特有の事情を加味すれば、説明がつくように思う。

 勿論、俺が行っているところに限った話かもしれない、ということは付け加えておくが。

 おかげで通勤経路が変わって、JR をたまに利用する。
 夜は使わない。一度、乗ったが、うざい高校生ども満載で、ものすごく不愉快だった。俺、昔は乗ってたのだが、よく我慢してたな、と思う。
 朝は比較的、大人しいので許容範囲である。寝起きでテンションが低いせいかもしれない。
 そこで思う。やっぱり、悪そうな連中の秋田弁濃度は高い。
 どちらも「距離感」で説明できるのではないか。
 一般に、親密でない相手に対しては、標準語を含む敬語的な表現を採用するが、親密になるに連れて、敬語は影をひそめ、さらに標準語的色彩も弱まっていく。
 悪そうな連中の場合、よく「馴れ馴れしい」なんて表現が使われるが、そういう点では、見知らぬ人間に対する垣根が最初から低い。
 医者における老人も、電車内でのワルも、同じ線上の反対方向の現象なのではないか、と思った次第。

 さて、ここまで書いてきて、「悪そうな連中」をうまく表現する言葉がないことに気づいた。
「ツッパリ」はもう死語だろう。
 まして「不良」なんかは。
 今は「ヤンキー」って言うのかな。
 だが、「ヤンキー」にはどこか諧謔味がある。面と向かったら恐いけど、陰ではネタになってしまう、というか。まぁ、「ツッパリ」もどこか滑稽だったけどな。

 なぜ、悪い連中のことを「ヤンキー」というのかについては諸説紛紛だそうだ。
「大阪のアメリカ村で見られた派手な格好の連中」から、という説と、「河内弁、つまり『やんけ』地域の不良」から、という説が有力らしい。どっちにしろ、大阪っぽい感じではある。
 ただ、この単語が全国区になったのは相当、前のことだと思う。紳介・竜介が使っていたような気がするし、嘉門達夫の「ヤンキーの兄ちゃんの歌」は 83 年だ。

 河島英五に「野風僧」という歌があるが、これは岡山の「生意気」とか「悪い奴」という意味の言葉らしい。
 この歌自体は、そういうワイルドな人間になれ、という内容のようだが、岡山でも、北部ではある種の誉め言葉だが、南部に行くと罵倒する言葉になる、とかいう話を読んだ。
 更に調べたら、海を渡った愛媛の「のぶそな」あたりになると、完全に悪い意味なんだそうで、歌にするなんてとんでもない、ということになる。

 今、注目しているのは、「やからっぽい」である。「輩っぽい」わけだが、解説を聞かなくとも意味がすぐにわかってしまうあたりが秀逸。「輩」が「手合い」なんかと一緒で、悪い意味でしか使われないことから生まれたのであろう。
 なんか関西にかたよっている感じがしないこともないが、現時点では、ググってみても、「やからっぽい」「ヤカラっぽい」「輩っぽい」あわせて 200 件というところなので、明言は避けておく。
ヤカラっぽい」という形があるところを見ると、まだ語源意識は残っているのではないかな。

 昨今、叩かれることの多い、「間違った敬語」も、距離感で説明できるんじゃないかな、と思っているのだが。
 現在の社会が、これまでの敬語体系ではカバーしきれない関係を生み出し、それを主流としてしまったのではないか。つまり、あの「間違った敬語」は、そういう距離感を計りなおしている試行錯誤の結果なのではないか。
 何度も指摘しているが、政治家や役人や経営者などなど、立派な大人も「間違った敬語」を使っている、ということは、これまでの距離感が通用しなくなったから困惑している、ということで説明つかないかな。
 アルバイトが諸悪の根源だ、みたいなことを言っている人もいるが、どうにも困ったちゃんである。ニュースとか見てないんだろうな。アルバイトがそういう言葉遣いをすることをよしとする客がいる、ってことも見落としてるしさ。
 ああいうのを、「若者バッシング」というわけだ。
 直木賞作家の原リョウ*1が対談で、携帯電話の普及について、若者たちが生まれながらにあれを必要としていたわけではない、と語っている。
誰かが与えたんです。それは結局、我々だ。僕は与えた覚えはないのだけれども、言い逃れはできない。
 身震いするほどの気構えだと思うが、そういう覚悟がないんだよな、若者バッシングする人には。



*1
 本当は、「僚」からニンベンを取った字。
そして夜は甦る」でデビュー、「私が殺した少女」で直木賞受賞。最新作は、「愚か者死すべし」。
 その対談は「ミステリオーソ」に収録されている。()






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