Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第472夜

広い、正しい、大丈夫



 サルの声に方言があることがわかったそうでニュースになっていた。
 住んでいる地域の植生によって通りやすい声の高さが変わる、というのが原因なんだそうな。
 でも、随分と前に聞いたことがあるような気がするんだなぁ。鳥の声だったか? いずれ、ソースは、『言語』か『日本語学』かどっちかなんだが。
『言語』は、そういうのを取り上げることが多くて、昆虫が意志交換に使う分泌物や、人間の言葉を理解するというチンパンジーのアイちゃんのことも連載していたことがある。
 というわけで、「言語」という単語が指す範囲は、普通の人が思っている以上に広いんだ、という話。

 その前に鳥の声の件を確認。「ウグイス AND 方言」でググると、そこそこ見つかる。地域によって鳴き方が違う、というのはよく知られた現象らしい。ちょっと毛色が違うが、宗教音楽について書かれているメシアンの音楽語法というページもある。
 となると、毎日新聞の記事の表現「人間以外で生育環境による方言が確認されたのは世界初」というのは嘘ということになるわけだ。読売は「人間以外の哺乳類で鳴き声に地域差が確認されたのは初めて」と書いている。
 鳥の声で言うと、「ききなし」にも地域差がある。「聞き做し」と書く (「見做す」と同じ形) が、ウグイスの声を「法華経」、コノハズクの「仏法僧」などのあれだ。

 コンピュータのプログラムを記述するための言語というのもあるわけだが、これは人間が意識的に設計したもので、人工言語に分類される。
 これは、いわゆる「言語」とは違って「思想・感情・意志 (大辞林)」を表現するためのものではなく*1、プログラムを作成するための処理対象であるから、ルールは厳密に決まっている。違反するとプログラムができない。*2
 そのルールがメーカーや時期によって異なることはあり、それは「方言」と呼ばれる。
 どっちにしろ、ルールは明記されているので、「正しい」「正しくない」がきっちり決まる。*3
 しかしながら自然言語の方は、事前に設計して作られたものではく、「文法」なんて単語はあるが、それは、実際の言語現象を観察して帰納的に導き出したもので、「こんな感じ?」という域を出ない。諸説紛紛になるのはそのためだが、「正しい日本語」教徒の皆さんはそんなこと想像もつかないようで、安易に「正しい」とか「正しくない」とかおっしゃる。
 最近の若者が秋葉原のことを「アキバ」と呼ぶのはけしからん、なんて言う人がいるが、あれはもともと「秋葉が原 (あきばがはら)」というところで、「あきはばら」という呼び方の方が後発。どこに基準を置くかで、変わってしまう「正しさ」なのであった。「さざんか」―「山茶花」はどうしましょうかね。

 言葉はファッションである、という人がいる。
「ファッション」というとあれなので、自分がどういう人間か、どういう人間であると受け止めてもらいたいか、ということを示す手段である。あるいは、そういう役割を持っている、と言い換える。
 よその地域に行っても自分の方言を押し通す人、標準語にする人と、それは各自のスタイルである。藤井隆の標準語はいいが、今となっては、明石家さんまが標準語を (話せたとして) 話したら不自然きわまりない。
 太宰治の話をするとき、「太宰治」と呼ぶのと「太宰」と呼ぶのとでは印象が異なる。そこに、発言者のなにがしかの姿勢が含まれている。
 あるいは、佐高 信 (さたか まこと) を「さこうしん」と呼ぶ人もいる。知らないのではなくてわかっててやってるのだが、そこにも一定のニュアンスが込められている。
 それにしても、仲がいいわけでもないのに呼び捨てにしたり、名前を本来とは異なる形で呼ぶ、というのは、普通はものすごく失礼なこととされているのだが、それが侮蔑表現にならない珍しい例である。
 昨今は、「キムタク」*4とか「ゴマキ」とか、短縮形が流行である――とか言うと、えらく恥ずかしいことになる。「エノケン」「アラカン」「バンジュン」と、昔からある手法。
 これに対する教徒の皆さんの反論は想像できる。いっしょにするな、であろう。つまり、「省略してはいかん」という正論 (のようなもの) の陰に、好き嫌いを隠してある。こっちが本音。俺が、「正しい日本語」を嫌うのはこれが理由である。
 外来語がいかん、省略語がいかん、というのであれば、「サボる」「ダブる」なんて絶対に使えないはずだもんな。

 スポーツ方言、なんてのも考えてみたい。
 スポーツに関する報道でしか現れない表現、のこと。
 野球で、勝った試合の数から負けた試合の数を引いて、それがマイナスになる (つまり負けのほうが多い) ことを「借金」と表現したのは長島茂雄だそうである。
 野球は、その語彙を軍事用語に頼っている。“draft (徴兵)”“dug-out (塹壕)”“base (基地)”などなど。日本語でも、「塁」はやはり「基地」のことだし、チームが「軍」だし、そもそも「死」があれだけ頻繁に出てくるスポーツもそうないんじゃないか。サッカーのほうで、「突然死」を追放、「自殺」もまもなく消えそうなのとは様相が異なる。あ、「憤死」も野球方言だね。「勝ち越し/負け越し」も文脈によって意味が変わる。*5
 そう言えば、「ベンチに入る」って表現の正当性はいかがでしょうか。相撲で、幕内力士となることを「幕に上がる」と表現するのに古い相撲ファンは怒っているようですが。
 ところで、日本の武術で、技がスパンと決まることを「本」と数えるのはなぜだろう。

『言語』の 12 月号で、国立国語研究所の新野直哉氏が「『野球』の命名者は正岡子規だ、という間違いが広く信じられているのはなぜか」ということを書いていた。
 それによれば、1970 年に、中馬 庚 (ちゅうまん かなえ) が、「『野球』と最初に訳した人」ということで殿堂入りしているらしいのだが、野球ファンは実は野球殿堂を軽く見ているのかもしれんな。

問題な日本語」の第二弾が出ている。
 その名も「続弾 問題な日本語」。
 編者の北原保雄氏自ら、「続弾」なんて単語は無い、と書いている。わかっててやってるわけ。
 俺はこれから、「正しい日本語」教徒なんか鼻で嘲っちゃうよ、というメッセージを読み取った。すごいぞ、大修館。
 本質的に、変化するものであるものをつかまえて、「正しい」「正しくない」を言ってはいかん。用字などごく一部にルールはあるが、それだって時と場所によって変わる。あるのは「ふさわしい」「ふさわしくない」だけだ、というのが俺の意見。

 かく言う俺も、味噌ラーメンを注文して、「大丈夫ですか」と聞かれると、ムッカリ来る。今の時点では、オーダー確認の表現として「大丈夫」はふさわしくない。




*1
 作った人の哲学が感じられることはある。 (
)


*2
 書いた人の意図と、解読するほうの理解が食い違って、意図せざる結果を引き起こすことがある、というのは自然言語と一緒だが、それだってどっちかと言えば、書いた方が悪い。(
)


*3
 そうすると失敗しやすいよ、後で困るよ、というようなラインを「正しくない」に含めるかどうかで議論のネタになることはなる。 (
)

*4
 彼が略称になったのは、ほかのメンバーと違い、「中居」「香取」「草なぎ」「稲垣」という、目を引く名前じゃなかったからじゃないか、などと思ったりしたがどうか。(
)


*5
 試合の途中で、得点が相手チームより多いことも、試合後に勝ち負けを数えて、勝ちのほうが多いことも、「勝ち越し」と言う。 (
)





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