数週間前のことだが、
文化庁が「国語に関する世論調査」という調査の結果を発表した。
不思議だと思ったのは、「
伝家の宝刀」を「
天下の宝刀」と間違える例。
聞き間違いだと思うんだが、この単語を耳からの情報だけで理解しなければならない状況、というのが想像つかない。日常的に使われる表現ではないから、覚えるとすれば活字からだろうと思ったのだが。やっぱり時代劇ですかね。あるいはニュースか。使ってみたくてしょうがない人がいるようだが、衆議院を解散する権限のことをよくこう表現している。
「伝家の宝刀」と「天下の宝刀」とでは意味が違うが、主体は「刀」の方なので、文章全体を大づかみにする程度なら大して困らない。この辺りに、誤用が生まれる措置があるんだろう。でも、「宝刀」って単語も使われないよなぁ。あるいは、その表現自体を知らなくて、考えた末に、「伝家」よりは親しみのある「天下」の方にマークした人ってかなりいるんじゃないか。
なお、前に紹介した『
問題な日本語』は、「汚名挽回」は間違いではない、という立場をとっている。
「
青田刈り」と「
青田買い」の混同についても話題になっているが、ちょっと気になったのは、「青田刈り」という単語そのものが間違いだ、と言っている声があることである。
「青田刈り」という単語は昔からある。現に、この仮名漢字変換ソフト・MS-IME は「青田刈り」を一発変換する。これは、まだ実る前の青い稲を刈り取ってしまうことである。つまり、収穫できないのであり、収穫を見込んで実る前に田んぼごと買い取ってしまう「青田買い」とは全然意味が違う。
減反が話題になった頃によく聞いた単語だが、ひょっとしたら、米作の盛んでないところでは馴染みのない単語なのかもしれない。
というわけで、やっと方言に近づいてきた。
稲作の話。
さすがに米どころだけあって、細かい現象、細かい事物を表現する単語が多い。以下、『秋田のことば
(秋田県教育委員会編、無明舎出版)』から拾ってみた。
あら
精米したてで、米と籾が混じっている状態。『語源探求 秋田方言辞典
(中山健、秋田協同書籍)』によれば、魚のアラなんかと同じ語だそうだ。
しんだ
殻ばかりで実の入っていない籾。
えねべぁ
刈り取った稲を置いておく部屋。「稲部屋」。
ほによ、
はさ
刈り取った稲は一定期間、干しておくわけだが、その設備。
「
ほによ」は「穂堆」と書き、立てた木の棒にひっかけていくもの。
「
はさ」は「稲架」と書くが、もうちょっと大掛かりで、木で枠を作ってそこに載せていく。
稲の干し方は、全国各地でそれぞれ特徴があるんだそうである。
ちぎや
米屋。「搗き屋」。
まれに、米屋や菓子屋で「ちん餅」という表記を見かけることがある。
これは商品ではなくサービス。米を持ってくれば有料で搗いて餅にしてやる、というもの。「ちん」は「賃」。
ひこばえ
刈り取った後から出た芽のこと。「孫生え」と書く。南国だとこれも収穫できるらしい。例によって、これを俚言だと思ってる人は多いようである。
ひこばえだか落穂だかを指す俚言があったはずだと思って自分のメモをひっくり返してみたのだが、どうも見当たらない。
「落穂 and 方言」で検索すると、方言調査のことを落穂拾いと表現しているところがいくつかあって涙を誘う。
新人、未熟者を指して「新米」ということがある。これが、「新前」の変化したものだ、ということは今回、初めて知った。そうか、これも誤用だったのか。
長々と書いてきたが、今回の調査のポイントはそこではない。
中高年の誤用の方が多い、ということである。
「正しい日本語」教、破れたり、だ。
誰だかメモをとってないのが残念だが、分析した人の解説が感涙ものである。「大人は言葉を知っているから混同する」。往生際の悪い。
大人の日本語が「正し」くないことは、テレビやら新聞やら雑誌やらで見聞きする、彼らの言葉遣いでわかっていたことだ。それが数字になって出た、ということの意義は大きい。
社会で中核をなし実権を握っているのは中高年。その彼らの言動が、世間に影響を及ぼさないはずはあるまい。現在の日本語が乱れているんだとすれば、彼らの「乱れた」日本語が、控えめに言っても、一因である、ということに意識が及ばないというところが、年を重ねて偉くなってしまった人の悲劇なんであろう。