ピアノの発表会があった。
詳しくは
別館を見て欲しいのだが、いらない力が入りまくってメタメタの結果となった。
俺の知り合いは誰も来ていなかったが、来てなくて良かった、と胸をなでおろしているところである。
失敗すると「すいません」てなことを言う人は少なくない。気持ちはわからないことはないし、お耳障りな音楽 (みたいなもの) をお聞かせして申し訳ない、と思うのは思うのだが、聞くほうも全員が上手いことは期待してないと思うので、そう気にすることもないのじゃないか、と考える。まぁ、開き直りも含め。
というわけで、今回は「謝罪」と方言。
秋田弁で言うなら、まずは「
ぶぢょほ」か。勿論、「不調法」。「
なんと、ぶぢょほしてしまって、もうしわえけねす」などというが、親しい間で、深刻でもないトラブルであれば、「
さい、ぶぢょほ」で済ませることもできる。
「
なんと」は、「なんとまぁ」というのと同じで単なる感嘆詞。「何と」などと書くと、なんか意味がありそうで却ってややこしい。「
さい」も感嘆詞で、説明が難しいが、ニュアンスとしては「しまった」が近い。
「
しかだね」というのもある。「仕方ない」なのだが、これは迷惑をかけた方が言う。お詫びのしようがない、というような意味で、一応、説明はつくのだが、他所で言うと、「そうなるのは避けられなかったのだよ」という意味にとられてしまいかねないので要注意の表現である。
謝罪表現については、方言に限らず、色々と研究がある。
たとえば『
日本語学』の 1993/12 月号で、謝罪表現の特集をしているが、沖 裕子氏が「借りるよ」「おう」というような、お礼も謝罪もないのに、全く問題ない状況・関係がある、ということを指摘している。
俺、『日本語学』はしばらく買っているが、この辺だけがすっぽり抜けている。
明徳館 (秋田市立図書館) にはなくて、
県立図書館に行ったのだが閉架だった。あたりまえか。
それはいいとして、検索ソフトの使い勝手が恐ろしく悪い。1 ページに 8 件しか表示されないのに、「次へ」と「前へ」のボタンしかないのだ。増刊が出ることもある月刊誌を 10 年分、遡るには一体、何度、そのボタンを押すことになると思っているのだ。しかも、図書館なのに、押すたびにピッと鳴りやがる。で、ヒットしたデータがいくつあるのかも表示されない。作った奴と、OK 出した奴の神経が信じられん。
話が逸れた。
謝罪は、人間の生活に無くてはならない表現で、頻繁に使われるため、すぐに慣用となり、表現形式が固定化する。そこから逸脱した、オリジナリティあふれる表現を使うと、謝罪とは受け取ってもらえなかったりするし、その反対で、固定した表現しか使わないと、誠意が無い、などと逆の効果をもたらしてしまいかねない。
かと思うと、「遅くなりました」のように、字面のどこにも謝罪の要素は無いのに、謝罪として成立する表現もある。
研究しがいのある分野のようだ。
上の「
しかだね」とも関連があるが、「謝罪」と「感謝」は地続きである。これは様々な論文で言われている。北陸で、感謝の表現として「
きのどくな」と言うが、それなんかが典型であろう。
お菓子を貰う、なんて状況を想像してもらうとわかるが、お菓子をくれる人は、そのお菓子の所有権を放棄するのであり、したがって、そのお菓子を食べることができなくなる。そこに着目したのが「
きのどくな」という表現である。
こういうとき、「ありがとう」に「すいません」を付加することもあるが、それも同じことである。実は、地域的に特殊な表現手法ではない。
お菓子を貰うときに、「
しかだね」は言えるが、「
ぶぢょほ」は言えない。これは、「
ぶぢょほ」が自分の責任を認めるための表現だからだろう。
物を貰う、というのは、確かに相手に迷惑をかける (かもしれない) ことではあるが、貰う方に過失があるわけではない。
山陽ないし九州の一部 (山口、岡山、宮崎の例が見つかった) では、「
ことわり」が「謝罪」という意味を持つところがある。
え、と思ったが、
大辞林にあたったら、「いいわけ。謝罪」と書いてあった。この二つがやはり地続きであることはなんとなく理解できる。
そもそも「ことわる」に、「拒否 (あのお話はお断りいたしました)」と「事前許可 (責任者に断ってから外出する)」の二つの意味が同居しているのはなぜだろう。
謝罪と言えば、前から気になってるのが、事故や不祥事の記者会見で行われる責任者の謝罪。より正確に言うなら、それを強要する記者やカメラマン達である。頭下げろ頭下げろというオーラが立ち上っている。
彼らは、警察権や裁判権を誰から与えられたのだろう。
会見の内容を正確に伝え、その謝罪が本心なのか、発表された対策が有効なのかを検証するのがメディアの仕事ではないのか。
責任者を口汚くののしるのは我々不勉強な市民のほうだ。それと同じことしかできないのであれば、ジャーナリストなんぞ不要である。