Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第413夜

またしても地震



 大きな地震だった。
 その直前には台風も来ていたし、なんだか今年は日本海側が踏んだり蹴ったりだなぁ。
 いや、台風は太平洋側も襲ったか。まぁ、なんとも言葉がない。
 その頃、俺は、取りためたビデオを見ながら酒を飲んでいたところで、ちょっと長いな、と思ったのですぐにビデオを止めた。あちこちチャンネル変えてみたが、ニュースへの切り替えはやっぱり NHK が一番早かった。その後も、余震が起きる度に切り替えたので、30 分番組のビデオを見るのに 1 時間くらいかかった。
 身勝手なもので、震源が秋田ではないことが確認できたし、ニュースも同じことを繰り返すだけになったので、そこからはもうニュースは見てない。続報は翌朝の新聞だった。
 で、思ったのだが、NHK の各支局って、ひょっとして全ての部屋にカメラ置いてあるのかな。地震になるといつも事務室が映るけど。スタジオならわかるんだが。

 新潟の山間部にどれだけの外国人がいるのかは知らないが、災害が起こった場合の手助けとして話題になるのが、簡略化された日本語である。阪神淡路の地震で注目された。
 先週、『日本語は悪魔の言語か?』に取り上げられていた話題として、腹痛を起こして往生した外国人のことを書いたが、同様のことがこういう状況でも言える。
 日本語の苦手な人に話し掛ける際、相手を、日本語の運用能力について子供と同等に位置付ける、ということはストラテジーとしてすぐに思いつく。ある表現を思い浮かべたときに、難しい漢字を排除しようと考える、ということもあるだろう。
 が、それは失礼だ、ということのほかに、何の役にも立たない、ということが起こりうる。極端な話、「ポンポンいたいの?」と「優しい/易しい」言葉で言ったところで、「ポンポン」が「腹」のことである、ということを知らなければ、「下腹部に持続性の疼痛」と言うのと大差ない。全くわかりやすくなっていない。それは、我々が英米人の幼児表現をどれだけ知ってるか、ということを想像すればわかる。逆に難しいのである。
 今月の『言語』で「日本語総点検―正しい日本語なのに何回ちょっとヘン?―」という特集があり、その中で取り上げられている。

 前に、一緒に歩いていた人が荷物を持ちにくそうにしていたので、持とうか、と言った所、「悪いからいい」と断られたことがある。そんなによそよそしくしなくても、と俺は気を悪くしたが、それはそれで、俺に気を使った結果ではある。思いやり、というのはさように難しい。
 同じことが、「易しい日本語」にも言える。

 これに、方言の問題がかぶさる。
 地域社会は、外国人が存在するかどうかとは別に、既に多重言語社会である。その地域の方言と共通語 (それも、地域共通語、県単位の広域共通語、全国共通語などが想定できる) を使い分ける社会だ。
 日本人同士ですらコミュニケーションがスムーズに行かないことがある。そこに、日本語を母語としない人がやってきた場合、その人は、「どの日本語」を規範とするべきなのか、ということが問題になる。
 勿論、それは、日本人でもさして違いはない。大方の場合、その転入者はひとまず全国共通語 (いわゆる「標準語」) を使うだろう。やがてそこに溶け込むに連れて、少しずつ地域の言葉を覚え、それが自然に使えるようになる、という過程をたどるに違いない。
 そこに、命にかかわる災害が降って沸いたらどうなるか。
 動転していても、自分の方言に戻ってしまわずに標準語が話せればなんとかなる。「火事だ!」「土砂崩れだ!」と言えれば問題はない。ただし、「ワンジだ! (秋田での『火事』の発音)」「山抜けや! (京都で山崩れのこと)」としか言えないとすると、ちと危ない。
 日本語が母語でない場合はもっとキツイだろう、ということは想像するまでもない。

 助けを求めた相手が標準語を理解できなかったら、なんてことも考えてしまうが。

 ここから先は言葉の問題ではなくなる。
 自分の身が落ち着いた後でもいいので、「向かいのおばあちゃんは一人暮らしだったな」とか思い出して心配してみる、というくらいの「思いやり」があれば、カタコトの外国語や、慣れない方言でも、通じ合えるようにはなるはずだ。

 に『東北−つくられた異境』という本のことを書いた。
 明治に起きた大津波で、東京から医師団がやってきたが、患者が何を言ってるのかわからず、対処のしようがなかった、というような記事が紹介されていた。
 流石に、今はそういうことはなくなっていると思う。少しはあるかもしれないが、その頃のように、二割もわからない、ということはないだろう。
 なんらかの共通ツールとしての言語は必要なのである。それが、方言の一方的な衰退である、というのはやっぱり寂しいわけだが、その逆が非常に難しい、ということは説明の必要もあるまい。
 これも『言語』の「鉄とダイヤモンド (金子亨)」という文章だが、「ダイヤは希少価値があるのに、使われなくなってしまう言語に希少価値がつかないのはなぜ」という問いがあった。
 話は単純、言語は使うもの、「使わない」という選択肢が存在しないもの、だからだ。「この世界で俺だけが使える言語」に意味はないのである。

 亡くなった方の冥福をお祈りすると共に、被災者のみなさんが一刻も早く生活のリズムを取り戻すことをお祈りする。
 尤も、命が失われた、ということを別にしても、それは「元の生活」ではないのかもしれないが。

 俺も微力ながら募金を、と思ったのだが、今年は色々あったはず、一覧になってるところはないか、と赤十字に行ってみた。
 なんと、義捐金は今、9 種類もあるのだった。ちょっと途方にくれた。




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