秋田魁新報に、青森で、医療関係者向けに、津軽弁に関する本が出版された、ということが書かれていた (『介護学生のための三つの津軽ことば』、路上社)。
「しくしく」「ズキズキ」「チクチク」みたいに、単に痛みを表現するだけでも多種多様である。これに相当する津軽弁を、若い医療従事者が理解できなくなっている、という現実があるために出版されたものだ。
秋田ではたとえば、「
やむ」という表現がある。これは、「痛い」という意味だが、これを「病む」と連想するとすれ違いが起きる。
東北に限らない。
山陽には「
はしる」という表現がある。これは、体の表面の鋭い痛みである。たとえば、歯痛なんかが相当する。まぁ、これなんかは「走る」を連想しても、さほど的外れではないが、内部の痛みは「
にがる」である。これは、連想は難しい。‘
いや、標準語でもそう。
「うずく」なんて我々にはどうということのない表現だが、意味を正確に説明するとかなり面倒くさい。体の内部で、かすかに脈動している、持続性の鈍い痛み、である。できれば、しばしば精神的な痛みにも援用される、あたりまで付け加えておくべきだろう。
大辞林は「ずきずき」と説明しているが、そんなにはっきりした痛みではないような気がするがどうか。
という具合で、この種の表現は多分に主観的なものとなる。
読んでいる人の中に医者がいたら聞いてみたいのだが、そういう痛みを表現するために、患者が独自の表現を作り出してしまうことがあるのではないか。「いや、そんな、『パラパラ痛い』とか言われても」みたいなことってないだろうか。
これは外国人でも起こる。こないだ読んだ『
日本語は悪魔の言語か?』という本で紹介されていたのだが、ある外国人が激しい腹痛を起こして医者に行った。そこで、どういう痛みか、キリキリかシクシクか、と言われて答に窮した、というのである。
落ち着いて考えてみよう、なぜ、その痛みを「キリキリ」と表現できるのか。その根拠を 40 字以内で説明せよ。
だってキリキリなんだもん、としか言いようがあるまい。
俺も胃を悪くしていたことがあるが、「しくしく」という痛みがどういう痛みなのか今でも理解できない。俺の場合、胃のある部分をつねられたような感じだった。潰瘍だったようなんだが。それは「チクチク」でもないなぁ。
目の「ゴロゴロ」は、実感としてはやっぱりしっくりこないのだが、ああいうことを言っているのだな、というのはわかった。
つまり、こういうのはルールなんである。表現を最初に作り出した人にとってはなんらかの納得性はあったのだろうが、それはおそらくそれほど普遍性は持っていないと思われる。他の人、あるいは、後の時代になって、そういうことなんだ、と理解して使っていくのだ。理屈ではない。だから「キリキリとしか言いようがない」ということになるのである。
なお、件の女性は、刃物を差し込まれた感じ、と表現したのだそうである。
ちょっと話は逸れるが、動物の鳴き声。
あれなんか聞いたとおりに表現してるんだから同じになりそうなもんだが、かなり違う。犬の“bow-wow”、猫の“meow”あたりはまだいいとして、鶏の“cock-a-doodle-doo”なんか「コケッコッコー」とはえらく離れている。鶏がダ行の音を出すなんて想像できまい。“oink”に至っては考えたってわからない。
お互い様である。向こうだって、“oink”と鳴いてる動物が、日本では「ブーブー」と鳴く、と言われたら目を白黒させるだろう。
だって、そう聞こえるんだからしょうがあるまい。
津軽に話を戻す。
「
かちゃくちゃね」が「ひどくいらいらする」として紹介されていたが、これは秋田弁と衝突する。秋田では「雑然としている」という意味だ。
隣同士ですらそれなのである。いわんや海外においてをや。
日本語には擬態語が多い、と言う。日本語の特異性という話になるとつい眉につばをつけたくなるが、これは本当らしい。
でも、英語とかにないわけではない。英語では、擬音が動詞になることがある。
オーディオ マニアでなくとも「ウーファー」という種類のスピーカーがあるのは聞いたことがあるだろう。低音担当のスピーカーである。この“woof”は犬の「ウーッ」という低い唸り声で、そういう音を出すものが“woofer”というわけ。
中音域担当の“squawker (スコーカ―)”、高音担当の“tweeter (ツイーター)”も同じ過程でできた語である。
その記事を目にした人の多くは、方言の衰退、というようなことを考えたであろう。嘆かわしい、と。
俺としては、では、あんたの言葉は、あんたが生まれた当時と全く変わってないのか? と聞きたい。しつこいようだが。
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第413夜「またしても地震」へ
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